放物線な二人
「お前って、俺のこと好きか?」
「んー? そこそこ。そっちは?」
「まー。そこそこ」
空には虹が架かっていた。
校舎の屋上、フェンス際。
俺の隣にはガールフレンド。風に土の香りが仄かに香る、とある雨上がりの日の放課後。
「急にどうしたの?」
「いや、別に。なんとなく思った」
「ふーん。まあ、何でも良いけど」
空を見上げた。太陽があった。まばらに散った白い雲。初夏の空は抜ける様に青く、透ける様に冷ややかで、包むように広かった。
目に掛かった前髪を払う。視線を少しだけ移し、虹を見つめた。横目に彼女の横顔を見る。
透き通る瞳。無表情。良く言えば飄々とした、悪く言えば何を考えているかわからない、俺の、たぶん大好きな人。
ずっと遠くにあるはずの地平線は、乱立した建物の群れにその輪郭をギザギザにし、手を伸ばせば届きそうな程度には、親近感の湧く表情を見せていた。
風が吹く。野球部がボールを打ち上げる音。空に昇る硬球。すぐに落下を始めた。
転がる硬球を見て、虹を見て、太陽を見て。
「放物線……」
ふと、そんな言葉が漏れた。彼女が首を傾げて俺の顔を見る。俺も見つめ返す。
「なあ」
「なに?」
「好きって、言ってみてくれないか?」
更に首を傾げて、縦に戻し、少しだけ微笑んで、彼女は言う。
「大好きだよ、そこそこに」
「うん」
フェンスに一歩近づき、金網に大きく広げた手を掛ける。握り締めると、ぎしりと音がした。
「好きって、言うだろ?」
「うん」
「その瞬間にさ。もう、好きじゃなくなるのかな、とか。思った」
「それだけで満足しちゃう?」
「まあ、何て言うか」
もう一度空を見上げた。鳥が飛んでいて、眩い太陽にほくろの様な影を作る。太陽は静かに、動き続けている。
「人間って、放物線なんだって、思った。感情も、思考も、記憶も、肉体も」
「哲学的だね」
「まあ、そんな気分の時もある」
フェンスを握り締める俺の手に、彼女が手を添えた。
柔らかくて、温かくて、小さくて。けれどそんな感覚も、グラウンドを走る陸上部の行列がトラックの半分を走る間に、だいぶ薄れてしまった。放物線だった。
「人って、生まれるだろ」
「生まれるね」
「そこが、地面なんだ。高さはゼロなんだよ」
「うん」
「成長するにつれて、肉体的にも精神的にも、成長していくじゃん」
「グラフで言えば、一次関数?」
「そう。だけど、あんまり成長し過ぎると、衰えるだろ? どこか最大値を迎えたその瞬間から、落ちていく。だから、実はグラフで言ったら、マイナスの、エックスの二乗に比例するグラフなんだよ、人間って。……いや、人間だけじゃないか。何でもか」
「何でもなのかな」
「何でもだよ」
俺は自由な方の手で、空に架かった虹を指差した。綺麗な七色の放物線。始点と終点を結んだそれは、もうすぐこの世から消えようとしていた。説得力のある光景だった。人間だって、放物線の終着点を迎えたら、消えてしまう。
「お前の手だってさ」
「うん」
視線を、フェンスの上で絡まった俺らの手に向ける。
「俺の手に触れた時は、温かかったけど。そのうちに慣れて、良く分からなくなった。放物線じゃないか?」
「そうかもね」
「人の気持ちもさ。そんな物で」
放物線を描いて空を跨ぐ太陽。暮れるにはまだ早い。それでもそのうち、あのギザギザの地平線に呑まれて消えてしまう。けれどそれは当然の事で。全ての物は、たぶん放物線だから。
「最初は赤の他人なのに、好きって気持ちになって。最初のキスをして」
「エッチな事をして?」
「あー、そう言えば俺達、した事ないなぁ」
「する?」
「まあ、考えておくよ」
「わかった」
彼女はうっすら微笑んでいた。その横顔が、なんだかそこそこ可愛いと思って。俺は無表情だったけど。放物線だから。でも、まだ最大値には至っていない。
「まあ、エッチな事して、そこが最大値で、いろいろデートして、喧嘩して、喧嘩の方が多くなって、落ちていって、別れて」
「放物線だね。それで、後ろから刺されて人生も最小値を迎えちゃう?」
「まあ、そんなのも時々あるだろうけど」
「私たちは喧嘩する?」
「そこそこ好きだから、どうだろう」
「わからないね、そこそこだから」
「お前は刺したいか?」
「私はどっちでも良いよ」
「じゃあ、その時の気分で」
彼女が一歩近づいてきて、肩に頭を乗せた。シャンプーの良い香りがするその頭を撫でてあげたいと思ったけど、フェンスを握り締めた手は、相変わらず彼女に拘束されている。そんな感情も、いつか最小値を迎えて。とりあえず、俺もそっと彼女の頭に自分のそれを傾けた。
「宙に投げ出した物にはさ、位置と運動、両方のエネルギーが生じるじゃん?」
「うん。理科でやったね」
「でさ。位置エネルギーが減ると、運動エネルギーが増えて。その逆もあるけれど、放物線の場合、位置エネルギーがマックスになると、もう、あとは落ちるしか無いじゃん」
「うん、確かそうだった」
「人もさ。好きって言う時、一生懸命に動きまくって、エネルギーを使いまくって、告白をして。二人の距離がゼロになって。グッと近づいて。でも、もう動くエネルギーが残って無くて」
「最大値か」
「まあ、そんな感じ」
太陽はもう最大値を迎え終えていた。あとはただただ落ちていくだけで、誰もそれを止める事が出来ない。それが出来るのはきっと、神様だけで。太陽が最大値で制止し続けている時にはもう、きっとこの世に放物線は存在しない。人の命も、感情も、決して消えない。そんな、滅茶苦茶な世界が広がっている。
けれどそんなのは気持ちが悪いから、放物線が存在していて。全ての物がそれに従っている。神様が決めた事なんだから、きっと俺の考えている事も正しい。そこそこには。
「ねえ、でもさ」
「うん」
「放物線でも、そんなに悲しい放物線ばっかりじゃないと思うんだ」
「そうかな?」
「そう。例えば私が君の事、そこそこ好きって言う放物線」
「ふーん」
彼女が俺の肩から頭を離し、フェンスに寄り掛かった。グッと腕を引かれて、俺もフェンスに寄り掛かって。二人して、見つめあって。お互いに、無表情に。そこそこ、ラブラブだった。
「放物線はね」
「うん」
「大事な物を、離したくないからあるんだよ」
「そう?」
俺が言うと、彼女はちょっとだけ笑った。再びグッと近づいて来た彼女は、自分だけフェンスから身を離し、金網に背中を預ける俺に、のしかかる様に抱きついて来た。
風が吹いて、髪が踊った。頭を撫でた。
「質量がある物と物の間には、引力が働くんだよ。理科でやったでしょ?」
髪を撫でられながら、彼女は甘える様にその顔を俺の胸に埋めた。けれど声はそれ以前の物と変わらなくて、別に照れたり嬉しがっていたりはしない。でもたぶん、それが彼女の中の普通になっていて。放物線の一部に組み込まれてる。
「そんな事、聞いた気がする」
「でね? 放物線も、質量と引力があるから存在するの。位置エネルギーも運動エネルギーも、質量と引力があるから存在するの」
「なるほどなぁ」
「だから地球は赤いリンゴの事が大好きで、ずっと抱きしめていたかったの。もしも放物線が無かったら、大好きなリンゴを、月や太陽に奪われちゃうから。最大値に、置いておきたくないんだよ」
「奪われちゃうか」
「だって、月や太陽と地球の間にも、引力はあるもの。連れて行かれちゃう。意地悪な人がリンゴを空に投げたら、それでさようなら」
「でも、月は地球から離れて行ってるじゃん?」
「うん。だって、リンゴと浮気してるんだもん」
「じゃあ、刺されちゃうな」
「お互いに質量が足りないんだよ」
いつしか虹は消えていて。けれど太陽は消えていなかった。けれど放物線に組み込まれた太陽は、きっとそのうち、宇宙の上から消えてしまって。その時きっと、太陽系は駄目になってしまう。地球はもっと以前に、壊れてしまうらしいけど。
「私の心って言う場所には、君の事がそこそこ好きっていう質量があって。君の心って言う場所には、私の事がそこそこ好きっていう質量があって。質量と質量があるから、そこに引力があって、引きあって、放物線が生まれるの」
「でも、最後には最小値に落ちちゃうぜ?」
「うん。でもね、地球のどこかにいる、君の事が本当に好きな私と、私の事が本当に好きな君達の放物線は、プラスだから。君が考えてるみたいなマイナス思考じゃなくて、プラス。別々の最大値から落ちて、落ちて、落ちて。最後には、同じ最小値で終われるんだよ、二人一緒にね」
「ふーん。そんな俺達、どこにいるのかね」
「どこだろうね。地球の裏側かもしれないし、すぐ近くにいるかもしれないね」
「おしどり夫婦だな」
「まったくだ」
足が疲れたし、彼女が重かったから、なんとなく座りたくなって身を屈めた。解かれた彼女の腕の間を、ずるずると落ちていく。放物線っぽかったけど、たぶんこれは違う。
見上げると、彼女の顔がそこにはあった。俺がそこそこ好きな、彼女の光る様な小さい笑み。
「……動かない太陽」
「ん?」
「いや、何でもない」
彼女が俺の前に屈む。スカートの隙間から、パンツが見えた。
「リンゴみたいになってるぞ?」
「気のせいだと思うよ」
「どうだかなー。君は正直じゃないからなー」
そう言って彼女は、また抱きついてくる。彼女の事はそこそこ好きだから、拒まない。
「放物線が無かったら、こうやってくっつく事も出来ないかもしれない」
「ふーん」
「人生も、生まれたその瞬間から、落ちてるの。昇りはしない。産み落とされるって、言うでしょ? それで、昇れないけど、前に進む運動エネルギーを手に入れていくの」
「そうかなぁ」
「きっとそうなんだよ。全ては放物線なんでしょう?」
「まあ、そうなるのかも」
目を閉じてみると、彼女の体温が更に近づいてきた様な気がした。その感覚が消えて無くなってしまう事はなかなか無くて。いつか最小値に至って止まってしまう鼓動の音を意識するたびに、感覚はエックスに比例した。
「君って、私の事好き?」
「まあそこそこ」
「私もそこそこ」
言って彼女は俺にキスをして、俺は彼女にキスをされて。
カキンッ、と。バットが硬球を捉える音。
全ては放物線。
どうも、千悠です。まさかのシリーズです。
前作と同じく、だいぶカオスな物となりました。
あなたの放物線は、プラスとマイナス、どちらでしょうか?