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「銭湯娘では家格に釣り合わない」と婚約破棄されましたが、私の推し銭湯に毎日課金したいという旅館グループ御曹司が現れたので、元婚約者の事業を潰してから幸せになります

作者: こうこ

「君との婚約は、今日をもって破棄する」


鷹宮蓮の声が、番台前の薄暗い空間に響いた。


(あー、来た来た。ようやくこの展開か)


私は心の中でため息をつきながら、帳簿から顔を上げた。目の前には仕立ての良いスーツに身を包んだ婚約者——いや、元婚約者と、その隣で勝ち誇った笑みを浮かべる義妹の紗英。


夕方五時。月華湯の暖簾をくぐる常連客がぽつぽつと増え始める時間帯。


よりによってこの場所を選ぶあたり、蓮の性格の悪さが滲み出ている。私が幼い頃から愛してきたこの銭湯で、わざわざ恥をかかせようという魂胆だろう。


「君みたいな銭湯娘じゃ、うちの家格に釣り合わない」


蓮は顎を上げ、見下すような視線を向けてきた。


「紗英のほうがふさわしい。彼女は俺の隣に立つにふさわしい女性だ」


「お姉様、ごめんなさいね」


紗英が蓮の腕に絡みつきながら、これ見よがしに小首を傾げる。巻き髪にフルメイク、ブランド物のワンピース。彼女の「可憐なお嬢様」演技は相変わらず完璧だ。


「私、蓮さんとは運命だって感じたの。お姉様には悪いけど、本当の愛には逆らえなくて……」


(本当の愛ねえ。先月まで別の男と腕組んでたくせに)


私は静かに帳簿を閉じた。


「承知いたしました」


「……は?」


蓮の眉がぴくりと動いた。


「承知いたしました、と申し上げました。婚約破棄の件、謹んでお受けいたします」


私は番台から立ち上がり、深々と頭を下げる。作務衣の裾が床に触れるほど、丁寧に。


「鷹宮様のご多幸を、心よりお祈り申し上げます」


顔を上げると、蓮の表情が歪んでいた。明らかに想定外の反応だったらしい。


(あーあ、泣いてすがると思ってたんだ。残念でした)


「……それだけか?」


「はい」


「俺が婚約を破棄すると言ってるんだぞ。鷹宮不動産の御曹司である俺が」


「存じております」


「お前、わかってるのか? 俺との婚約がなくなれば、お前なんかただの銭湯娘だ。誰にも相手にされなくなる」


(ただの銭湯娘で結構なんですけど)


私は穏やかに微笑んだ。


「ご心配には及びません」


「何を——」


「むしろ、ようやく荷が下りました」


番台の引き出しから、一通の封筒を取り出す。


「お姉様、何それ」


紗英の声が僅かに強張った。


「こちら、大手デベロッパー・帝都建設からの買収提案書です」


封筒から書類を取り出し、蓮の前にかざす。


「月華湯の土地建物に対して、十五億円の提示をいただいております」


「……じゅう、ご億?」


蓮の顔から血の気が引いていく。


「ええ。ご存知でしたか、鷹宮様。この土地、帝都再開発計画の中核エリアなんです」


私はにっこりと笑った。


「そしてこの土地建物は、祖父から私個人に相続された完全な私有財産でございます。継母も、父も、そして鷹宮家も——誰一人として、口を出す権利はございません」


下駄箱の方から、くつくつと笑う声が聞こえた。


常連の木村タツさんだ。いつもの下駄履きで、手ぬぐいを首にかけたまま、愉快そうにこちらを見ている。


「あらあら、若旦那。見る目がないねえ」


タツさんの江戸っ子訛りが、静まり返った番台に響く。


「澪ちゃんはね、先代譲りの切れ者なんだよ。そこらの小娘と一緒にしちゃいけないよ」


「な、なんだこの婆さん——」


「鷹宮様」


私は蓮の言葉を遮った。


「お客様への暴言は、ご遠慮いただけますか」


「……っ」


「それと、もう一点」


番台の下から、もう一つの書類を取り出す。


「御社が進めていらっしゃるスパリゾート計画。立地は城南地区でしたね」


「なぜそれを——」


「あの地区の水利権、私が押さえております」


蓮の顔が、湯上り客よりも紅く——いや、蒼白に変わった。


「銭湯娘で結構。でもその銭湯娘に、御社の新規温浴施設事業を潰されないよう、お気をつけくださいませ」


「お、お姉様……!」


紗英が甲高い声を上げた。


「何よそれ、脅しのつもり⁉ 蓮さん、こんなの許しちゃダメよ!」


「紗英、黙れ……!」


蓮が紗英の腕を振り払う。


(あらら、早くも仲間割れ?)


「澪、お前……いつからこんな」


「いつから、とおっしゃいますと?」


私は首を傾げた。


「私はずっと、こうでしたよ。鷹宮様がご覧になっていなかっただけで」


番台に戻り、帳簿を開き直す。


「さて、営業時間でございますので」


「待て、話は終わって——」


「入浴されないお客様は、ご退場願います」


私は蓮を見上げ、完璧な営業スマイルを浮かべた。


「入浴料は大人五百二十円。現金のみ、PayPayは使えません」


「ふざけるな……!」


蓮が番台を叩こうとした瞬間——


「お客さん、騒がないでもらえるかな」


聞き覚えのない、涼やかな声。


振り向くと、男湯の暖簾の奥から一人の男性が姿を現した。


濡れた黒髪、切れ長の目元。仕立ての良いカジュアルな装いに、どこか人懐っこい笑み。身長は蓮より頭一つ高い。


(えっ、いつの間に入ってた?)


「面白い女将さんだ」


男は愉快そうに目を細めた。


「あの啖呵、録画しておけばよかった」


「お客様」


私は咄嗟に番台の外に出た。


「番台で騒がないでください」


「いや、騒いでたのはそっちの彼だよ」


男が蓮を顎で示す。


「それに俺、まだ何も言ってないし」


「……入浴は済まれましたか」


「ああ、最高だった。湯加減が完璧だ。さすが月華湯の女将」


(なんだこの人。妙に馴れ馴れしい)


蓮が男を睨みつけた。


「何者だ、お前」


「俺? ただの風呂好きだよ」


男は肩をすくめた。


「でも、婚約破棄を突きつけられて逆にボコボコにされる御曹司を見るのは初めてだな。いい湯だった上に、いい見世物まで見られて、今日は運がいい」


「貴様……!」


「蓮さん、もう帰りましょう……!」


紗英が蓮の腕を引っ張る。その顔は真っ赤だった。


「こんなところにいたって、恥をかくだけよ!」


「……覚えてろ」


蓮は捨て台詞を残し、紗英を引きずるようにして出て行った。


月華湯の引き戸が、乱暴に閉まる。


「はあ……」


私は小さくため息をついた。


(やっと終わった。待ちに待った婚約破棄。これで鷹宮家との腐れ縁も切れる)


「お嬢ちゃん、お疲れさん」


タツさんが番台に近づいてきた。


「あんな男、こっちから願い下げだよ。先代が見たら泣くね」


「ありがとうございます、タツさん」


「さ、婆さんは風呂入ってくるよ。いい湯加減にしといてね」


「はい、いつも通りで」


タツさんが女湯に消えていく。


残されたのは、私と——


「で、女将さん」


まだいた。あの男。


「俺、名刺渡してもいいかな」


「営業でしたら、お断りしております」


「営業じゃないよ。事業提携のご相談」


男が懐から名刺入れを取り出した。


差し出された名刺には——


『霧島旅館グループ代表取締役 霧島朔也』


(……は?)


私は思わず目を見開いた。


霧島旅館グループ。全国に三十軒の温泉旅館を展開する老舗中の老舗。その若き当主が、なぜ月華湯に。


「あなたが」


「うん、俺が。提携の打診を出してたの、気づいてなかった?」


「……メールは拝見しておりました」


「既読スルーされてたんだけど」


「返信する価値があるか、検討中でした」


「辛辣だなあ」


霧島朔也は、けれど嬉しそうに笑った。


「ますます気に入った。改めて、よろしく。湯けむり澪さん」


——その名前を、なぜ知っている。


私の背筋が、僅かに強張った。



◇ ◇ ◇



「湯けむり澪、ですか」


私は努めて平静を装い、帳簿に視線を落とした。


「存じ上げませんね」


「嘘が下手だなあ、女将さん」


霧島朔也が番台に肘をついた。距離が近い。シャンプーの爽やかな香りが鼻をかすめる。


「SNSフォロワー十万人、全国五十軒以上の廃業寸前銭湯を再生させた伝説の銭湯ソムリエ。業界で知らない人はいないよ」


(バレてる。完全にバレてる)


「顔出しNGのはずなのに、なぜわかったんですか」


「文章の癖」


「……は?」


「湯けむり澪の投稿と、月華湯の公式ブログ。句読点の打ち方、言い回し、湯加減への拘りの語り方——全部同じだった」


(この人、ストーカー……?)


いや、違う。私の投稿を、そこまで丁寧に読み込んでいたということだ。


「三年前から追ってた」


朔也が真剣な目で私を見た。


「新潟の廃業寸前の銭湯を、地元のおばあちゃんたちの憩いの場として復活させた時。あの時の再生プランを読んで、確信したんだ。この人と組みたいって」


「……それで、提携の打診を」


「そ。でも既読スルーされてさ」


「申し訳ありません。大手からの買収話が山積みで、優先順位が」


「俺より帝都建設のほうが大事ってこと?」


「お金の話ではありません」


私は帳簿を閉じ、正面から朔也を見据えた。


「月華湯は、祖父から受け継いだ大切な場所です。買収されれば、取り壊されてマンションになる。それだけは、絶対に」


「なるほど」


朔也が頷いた。


「じゃあ尚更、俺との提携を考えてくれない?」


「どういう意味ですか」


「霧島旅館グループは、買収じゃなくて共存を提案してる。月華湯の暖簾を守ったまま、うちのネットワークで集客を支援する。女将さんの経営権はそのまま」


(……悪くない、条件だ)


いや、待て。警戒を緩めるな。


「なぜ、そこまでうちに執着するんですか」


「執着じゃないよ。投資」


朔也が肩をすくめた。


「湯けむり澪——湯川澪という人材への投資だ。君の再生手腕は、うちのグループに必要なんだ」


「買いかぶりすぎです」


「そうかな」


朔也が番台の周囲を見回した。


「この番台、先代から引き継いだ木製だろう。傷一つないのは、毎日丁寧に手入れしてるから。下足箱の番号札は昔ながらの木札だけど、盗難防止のICチップが埋め込んである。古き良きものを守りながら、現代の技術で補強してる」


私は息を呑んだ。


「脱衣所のロッカーは新調したみたいだけど、あえて木目調を選んでる。常連さんが違和感を覚えないように。女湯と男湯の暖簾の色、微妙に変えてあるのは色覚多様性への配慮だね」


「……よく、見てますね」


「風呂好きだからね」


朔也がにっこりと笑った。


「俺の推し銭湯、君のところに決めた。毎日通っていい?」


(推し銭湯……?)


「入浴料は現金のみです。常連割引もありません」


「了解」


「回数券もございません」


「うん」


「毎日五百二十円、きっちりお支払いいただきます」


「……課金させてくれ」


(課金って何)


私は思わず吹き出しそうになった。


「笑った」


「笑ってません」


「口元、緩んでたよ」


「気のせいです」


番台に戻り、帳簿を開き直す。平静を装いながら、心臓がやけにうるさい。


(何なの、この人。調子が狂う)


「女将さん」


「営業時間中です。ご用件は後日、正式にアポイントを——」


「朔也でいいよ」


「は?」


「名前。霧島とか堅苦しいから、朔也で」


「お客様をお名前でお呼びする習慣はございません」


「じゃあ、常連になったら?」


「……検討しておきます」


朔也が満足そうに頷いた。


「よし、今日はこれで帰る。また明日」


「毎日来るつもりですか」


「言っただろ、推し銭湯だって」


下駄箱で靴を履き替えながら、朔也が振り返った。


「あと、さっきの婚約破棄の件」


「……何ですか」


「相手の男、馬鹿だな」


「同感です」


「君みたいな人を手放すなんて、見る目がなさすぎる」


私は、返す言葉を失った。


「じゃ、また」


引き戸が閉まる。


霧島朔也の背中が、夕暮れの商店街に消えていった。


「……なんなの、あの人」


私は誰にともなく呟いた。


番台に座り直す。帳簿の文字が、なぜか頭に入ってこない。


ポケットの中で、スマートフォンが震えた。


涼香からのLINE。


『澪!!! 今日婚約破棄されたって!? 大丈夫!? あの男許せない、SNSで晒していい!?』


(情報早いな……タツさん経由か)


『ダメです』


『えー!!!』


『計画通りだから問題ない。むしろ清々した』


『……澪、強すぎない?』


『強くないと生きていけなかっただけ』


送信してから、少しだけ後悔した。重い返事だったかもしれない。


『ところで』


話題を変える。


『霧島旅館グループの霧島朔也って人、知ってる?』


『は!? 知ってるも何も業界の超有名人じゃん!!! なんで!?』


『さっき来た。提携したいって』


『えっっっっっっ』


『毎日通うって言ってた』


『えっっっっっっっっっっ』


涼香の驚愕が画面越しに伝わってくる。


『澪、それ口説かれてない?』


『まさか。ビジネスの話でしょ』


『いや絶対違うって!!! 霧島朔也だよ!? 業界一のイケメン経営者って言われてるあの!?』


(イケメン経営者……)


確かに、整った顔立ちではあった。背も高かったし、声も良かった。涼やかな目元とか、人懐っこい笑顔とか——


(いや、何考えてるんだ私)


『とにかく、正式な提携の話は後日改めて。今日は疲れた』


『わかった。ゆっくり休んでね。何かあったらいつでも連絡して』


『ありがとう』


スマートフォンをポケットにしまう。


外はすっかり暗くなっていた。月華湯の暖簾が、夜風に揺れている。


「推し銭湯、か」


呟いて、私は苦笑した。


変な人だ。でも——嫌な感じはしなかった。


鷹宮蓮のような、見下した目で見てこない。紗英のような、腹に一物を抱えた笑顔でもない。


対等に、真正面から。


私の能力を、認めてくれた。


(……いつ以来だろう、こんな風に評価されたの)


考えても仕方ない。今日はもう、閉店作業に集中しよう。


番台を離れ、湯船の確認に向かう。


明日も、月華湯は営業する。婚約破棄されようが、義妹に裏切られようが、関係ない。


この場所を守ること。それが、私の全てだ。


——けれど、頬がほんのり熱いのは、湯煙のせいだけではない気がした。



◇ ◇ ◇



それから二週間が経った。


霧島朔也は、宣言通り毎日月華湯に通ってきた。


「いらっしゃいませ」


「五百二十円、ぴったりで」


「ありがとうございます」


毎日同じやり取り。毎日同じ時間帯。判で押したような規則正しさで、彼は現れる。


(本当に来るんだ、この人……)


最初は警戒していた。何か裏があるんじゃないかと。でも、朔也は本当に「風呂に入りに来ている」だけだった。


湯上りにほうじ茶を買い、番台で少し話して、帰っていく。


それだけ。


「女将さん、今日の湯加減も最高だった」


「ありがとうございます」


「新しく入れた入浴剤、檜の香りだろ。いいね、リラックスできる」


「お客様からご好評いただいております」


「俺もお客様なんだけど」


「存じております」


朔也が苦笑する。


「相変わらず塩対応だなあ」


「営業スマイルは得意です」


「嘘つけ、全然笑ってないじゃん」


(うるさいな)


でも、不思議と嫌ではなかった。この軽口の応酬が、日課になりつつある。


「そういえば」


朔也がほうじ茶を啜りながら言った。


「鷹宮不動産のスパリゾート計画、頓挫したらしいね」


「……そうですか」


「水利権の問題で、着工が無期限延期になったって。業界じゃちょっとした話題だよ」


私は帳簿に目を落としたまま、表情を変えなかった。


「私には関係のないことです」


「本当に?」


「はい」


「その水利権、女将さんが押さえてるんじゃなかったっけ」


「……お客様、詮索は」


「しないしない」


朔也が両手を上げた。


「ただ、因果応報だなって思っただけ。君を見下してた男が、君に足元掬われるなんて、痛快じゃない?」


私は答えなかった。


確かに、鷹宮不動産の計画を潰したのは私だ。正確には、私が押さえた水利権が原因で、彼らは事業を進められなくなった。


復讐のつもりはなかった。ただ、月華湯を守るために必要な手だっただけ。


——でも、正直に言えば。


(ちょっとだけ、スカッとした)


「女将さん」


「はい」


「今、ちょっと笑ったでしょ」


「笑ってません」


「口元」


「気のせいです」


その時、引き戸が勢いよく開いた。


「澪!」


聞き覚えのある、甲高い声。


振り向くと、そこには——継母の雅代と、義妹の紗英が立っていた。


「あら」


私は静かに立ち上がった。


「いらっしゃいませ、お二人とも。入浴ですか?」


「ふざけないで!」


紗英が叫んだ。目の下には隈ができ、化粧も崩れている。二週間前の勝ち誇った様子は、どこにもなかった。


「蓮さんの事業が駄目になったのは、あなたのせいよ!」


「私のせい、ですか」


「とぼけないで! 水利権がどうとか、あなたが裏で手を回したんでしょ!」


私は首を傾げた。


「紗英さん。水利権は、私が三年前から正当な手続きで取得したものです。裏で手を回した覚えはございません」


「嘘よ!」


「嘘ではありません。必要でしたら、取得経緯の書類をお見せしましょうか?」


紗英が言葉に詰まる。


雅代が前に出てきた。


「澪さん、お願い」


いつもの高圧的な態度はどこへやら、猫なで声で擦り寄ってくる。


「あなたも家族でしょう? 紗英を助けてあげて。水利権を譲ってくれれば——」


「お断りします」


「……え?」


「申し訳ありませんが、他人様の事業に口を出す趣味はございません」


雅代の顔が強張った。


「他人様って……私たちは家族よ!」


「いいえ」


私は静かに首を振った。


「雅代さんは父の再婚相手であり、紗英さんはその連れ子です。私との血縁関係はございません」


「そんな言い方——」


「それに」


私は帳簿を閉じ、二人を真っ直ぐに見据えた。


「私が幼い頃から、居場所を奪ってきたのはどなたでしたか。父との時間を奪い、家事を押し付け、挙句の果てに婚約者まで」


「それは……」


「今更『家族』と言われても、困ります」


雅代の顔が、みるみる紅くなった。


「あなた……恩知らずね! 育ててやったのに!」


「育てていただいた覚えはございません。私を育てたのは、祖父と月華湯の常連さんたちです」


「このっ——」


雅代が手を振り上げた瞬間——


「おっと」


朔也が、さりげなく二人の間に割って入った。


「お客さん、暴力はまずいんじゃない?」


「誰よ、あなた!」


「ただの常連。でも、女将さんに手を上げるところは見過ごせないな」


朔也の目が、一瞬だけ鋭くなった。


「帰ったほうがいいと思うよ。これ以上騒ぐと、警察呼ばれても知らないから」


雅代と紗英が、朔也の迫力に気圧されたように後ずさる。


「……覚えてなさい、澪!」


紗英が捨て台詞を残し、雅代を引っ張って出て行った。


引き戸が乱暴に閉まる。


「……ありがとうございます」


私は小さく頭を下げた。


「いいよ、別に。ただの常連としての義務だから」


朔也が肩をすくめる。


「でも、大丈夫? あの人たち、また来るんじゃない?」


「来るでしょうね」


私は番台に戻った。


「でも、大丈夫です。私には、これがありますから」


番台の引き出しを開け、分厚いファイルを取り出す。


「何それ」


「月華湯の権利関係の書類一式。土地の登記、水利権、祖父からの相続に関する遺言状——全て、私の名義です」


朔也が口笛を吹いた。


「用意周到だな」


「祖父に教わりました。『書類は命より大事だ』って」


「いい先代だったんだね」


「ええ」


私は微笑んだ。


「私を育ててくれた、たった一人の家族です」


朔也が、何か言いたそうな顔をした。でも、何も言わずにほうじ茶を飲み干した。


「じゃあ、俺は帰るよ。また明日」


「いつもありがとうございます」


「女将さん」


引き戸に手をかけたまま、朔也が振り返った。


「何か困ったことがあったら、言って。力になるから」


「……なぜですか」


「なぜって」


朔也が笑った。


「推し銭湯がなくなったら、困るじゃん」


(また、それか)


「ありがとうございます。でも、大丈夫です」


「強いな、女将さんは」


「強くないですよ」


私は帳簿に視線を落とした。


「強くなるしか、なかっただけです」


朔也は何も言わずに、静かに出て行った。


一人残された番台で、私は深く息を吐いた。


(大丈夫、私は一人でやれる。今までずっと、そうしてきた)


でも——


胸の奥に、小さな温もりが灯っていた。


「推し銭湯」と笑う、あの人の顔を思い出して。


私の頬が、また少しだけ熱くなった。


——湯煙のせいだ。きっと、そうだ。



◇ ◇ ◇



一ヶ月後。


私は霧島旅館グループの本社にいた。


「これが、正式な提携契約書です」


朔也が書類を差し出す。


会議室の窓からは、帝都の街並みが一望できた。こんな立派なオフィスに足を踏み入れるのは初めてだ。


「拝見します」


書類に目を通す。


月華湯の暖簾と経営権は私に帰属したまま。霧島旅館グループのネットワークを使った集客支援。売上の分配比率も、私に有利な条件——


「……これ、御社に旨みがなさすぎませんか」


「え?」


「私が得をしすぎです。もう少し御社の取り分を増やさないと、株主に説明がつかないのでは」


朔也が目を丸くした。


そして、声を上げて笑い始めた。


「何がおかしいんですか」


「いや、だって」


朔也が笑いを堪えながら言った。


「普通は逆だろ。もっと自分の取り分を増やしてくれって交渉するのが常識なのに」


「私は正当な対価しか求めません。不当に得をしても、長続きしませんから」


「……だから、君なんだよ」


「は?」


「俺が提携したいと思った理由。君は、ビジネスを正しく理解してる。搾取じゃなくて、共存。奪い合いじゃなくて、分かち合い」


朔也が真剣な目で私を見た。


「銭湯も旅館も、地域に根ざした文化だ。金儲けだけを考えたら、すぐに廃れる。君の再生手腕が評価されてるのは、いつもそこを大事にしてるからだろ」


「……よく、ご存知ですね」


「言っただろ、三年前から追ってたって」


(本当にストーカーじゃないよね、この人)


私は契約書をもう一度確認し、ペンを取った。


「では、この条件で問題ありません」


署名を入れる。


朔也も、自分の署名を入れた。


「これで正式に、パートナーだな」


「ビジネスパートナーとして、よろしくお願いします」


「硬いなあ。朔也でいいって言ってるのに」


「仕事中ですので」


「じゃあ、仕事が終わったら?」


私は書類をファイルにしまいながら答えた。


「検討します」


「前も同じこと言ってなかった?」


「気のせいです」


朔也が苦笑する。


「女将さんって、本当に手強いな」


「ありがとうございます」


「褒めてないんだけど」


「褒め言葉として受け取りました」


会議室を出て、エレベーターに向かう。


「送っていこうか」


「結構です。地下鉄で帰りますので」


「そう? じゃあ、また明日」


「営業時間は十五時からです」


「知ってる。回数券、まだ作る予定ない?」


「ありません」


「課金システムは」


「銭湯にサブスクはございません」


「残念」


エレベーターのドアが開く。


乗り込もうとした時、朔也が言った。


「女将さん」


「はい」


「俺さ、実は傍流の出身なんだ」


「……え?」


「本家の跡取りじゃない。分家の、それも庶子。正式に認められるまで、色々あった」


朔也が、初めて見せる表情で笑った。


どこか寂しそうで、でも誇らしげな——


「だから、君の気持ちは少しわかる。認められない場所で、自力で道を切り開く辛さ」


私は言葉を失った。


「別に同情してほしいわけじゃない。ただ、俺は君の味方だってこと、知っててほしかった」


「……なぜ、私に」


「さあ、なんでだろうな」


朔也が首を傾げた。


「君を見てると、昔の自分を思い出すから、かな。いや、違うな。それだけじゃない」


「じゃあ、何ですか」


「それは」


朔也が、真っ直ぐに私を見た。


「また今度、教える」


「……ずるいですね」


「ビジネスマンだからな」


エレベーターのドアが閉まりかける。


私は咄嗟に「開」ボタンを押した。


「朔也さん」


名前を呼ぶと、朔也の目が見開かれた。


「また明日、お待ちしております」


私は深く頭を下げて、エレベーターに乗り込んだ。


ドアが閉まる直前、朔也の顔が見えた。


——嬉しそうに、笑っていた。



◇ ◇ ◇



地下鉄に揺られながら、私は窓の外を眺めた。


(何やってるんだろう、私)


恋愛より事業。依存より自立。それが、私の信条だったはずだ。


なのに——


「朔也さん」


口に出してみる。


悪くない、響きだった。


(……何考えてるんだ)


私は頬を軽く叩いた。


スマートフォンが震えた。涼香からのLINE。


『提携契約、うまくいった?』


『はい。問題なく締結しました』


『よかった!!! で、霧島さんとはどうなの?』


『どう、とは』


『いや、最近めっちゃ仲良さそうじゃん。毎日来てるんでしょ?』


『お客様として来ていただいてるだけです』


『本当に〜?』


私は少し迷って、打ち込んだ。


『……名前で呼んでみた』


『!!!!!!!!』


『大げさすぎ』


『いや大事件だよ!!! 澪が人の名前呼ぶなんて!!! やっと春が来た……!!!』


『来てません。ビジネスパートナーです』


『はいはい、そういうことにしとくね〜』


涼香の絵文字が、画面を埋め尽くした。


私はため息をついて、スマートフォンをしまった。


月華湯の最寄り駅に着く。


改札を出ると、夕焼けが商店街を染めていた。


「ただいま」


月華湯の暖簾をくぐる。


木村タツさんが、下足箱の前で待っていた。


「おかえり、澪ちゃん。うまくいったかい?」


「はい、おかげさまで」


「そうかい、そうかい。よかったねえ」


タツさんが、皺だらけの顔をくしゃくしゃにして笑った。


「先代も喜んでるよ。澪ちゃんがいい人と出会えて」


「いい人……」


「あの霧島の若旦那だよ。いい目をしてる。信用できる男だね」


「タツさんが言うなら、そうかもしれません」


「澪ちゃんは目が肥えてないからねえ、男を見る目」


「……うるさいですよ、タツさん」


「はっはっは!」


番台に座り、帳簿を開く。


今日の売上を記入しながら、私は小さく微笑んだ。


銭湯の娘として生まれ、居場所を奪われ、婚約破棄されて——


でも、今は。


私を対等に見てくれる人がいる。


私の価値を認めてくれる人がいる。


私を——応援してくれる人が、いる。


引き戸が開く音がした。


「いらっしゃいませ」


顔を上げると、そこには——


「約束通り、また明日って言ったのに」


朔也が、息を切らして立っていた。


「今日は、まだ終わってないだろ」


「……そうですね」


私は立ち上がり、入浴料の入った籠を差し出した。


「五百二十円です」


「うん」


朔也が硬貨を置く。


「女将さん」


「はい」


「さっきの答え、言いに来た」


私は首を傾げた。


「なぜ君の味方なのか、だよ」


朔也が、真剣な目で私を見た。


「君が好きだからだ。ビジネスパートナーとしてだけじゃなく、人として」


心臓が、大きく跳ねた。


「……何言ってるんですか、営業時間中に」


「だから、仕事が終わったら答えを聞かせてくれって」


「ずるいですね」


「ビジネスマンだから」


朔也が笑う。


私も、つられて笑ってしまった。


「……検討します」


「また同じこと言ってる」


「今度は、本当に検討しますから」


朔也の目が、嬉しそうに細められた。


「待ってる」


「お風呂、冷めますよ」


「わかった、わかった」


朔也が男湯の暖簾をくぐっていく。


私は番台に座り直し、帳簿に目を落とした。


——でも、文字は全然頭に入ってこなかった。


頬が熱い。心臓がうるさい。


「……湯煙のせいだ」


呟いてみても、今度は自分でも嘘だとわかった。



◇ ◇ ◇



——後日談。


鷹宮不動産のスパリゾート計画は、資金難で完全に頓挫した。


蓮は責任を問われて役職を降格。紗英との婚約も、鷹宮家から「利用価値がない」と切り捨てられる形で解消されたらしい。


雅代と紗英は、何度か月華湯に泣きついてきた。


「澪、お願い。あなただけが頼りなの」


「家族でしょう? 助けてよ!」


私は毎回、同じ言葉で丁重にお断りした。


「申し訳ありませんが、他人様の事業に口を出す趣味はございません」


最終的に、二人は父を連れて実家から出て行ったそうだ。父からは一度だけ電話があったが、私は出なかった。


今更、何を話すことがあるだろう。


——そして、私はというと。


「女将さん、今日も最高の湯加減だった」


「ありがとうございます、朔也さん」


「……ん? 今、名前で呼んでくれた?」


「気のせいじゃないですか」


「いや、絶対呼んだ。録音しておけばよかった」


「物騒なことを言わないでください」


朔也がにやにやと笑う。


「で、さっきの返事は?」


「……検討中です」


「もう二週間経つんだけど」


「大きな決断には時間がかかるものです」


「俺、結構せっかちなんだけど」


「知ってます」


番台に肘をついた朔也と、視線が合う。


あの婚約破棄の日から、もう一ヶ月半。


毎日この時間が来るのを、少しだけ楽しみにしている自分がいる。


認めたくはないけれど。


「……朔也さん」


「うん」


「閉店後でよければ、少しだけ」


朔也の目が、ぱっと輝いた。


「話を聞きます。少しだけ、ですよ」


「了解。絶対逃げないでよ」


「逃げません。逃げるなら、とっくに逃げてます」


「……俺、今すごく嬉しい」


「お風呂、冷めますよ」


「わかった、わかった。行ってくる」


朔也が男湯に消えていく。


私は番台で、小さくため息をついた。


(何やってるんだろう、本当に)


でも——悪くない気分だった。


月華湯の湯煙が、夕暮れの空に立ち昇っていく。


祖父が遺してくれた、大切な場所。


ここを守りながら、新しい道を歩いていく。


隣に、対等なパートナーがいる——かもしれない、未来。


「推し銭湯、ねえ」


呟いて、私は笑った。


頬が熱いのは、湯煙のせいだ。


——多分、もう嘘じゃない。


私の物語は、ここから始まる。


湯けむりの向こうに、新しい未来が待っている。


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