第三話:旅立ちの決意
山の春はいつも遅い。
雪解けの滴が軒を伝い、地面に落ち、ようやく草々が地表に顔を出す。
あの「誤薬の夜」から、さらに一年が経過した。
命を預かることの重さを知って以来、 ぼくは息をつく暇もなく、薬草の知識を貪るように学び続けた。
草を見れば、すぐにその名が浮かび、効能を正確に思い出せるようになった。少しでも量を誤れば毒になること、その危険性ももう知っている。
村の子どもが怪我をすれば、一人である程度の対処は出来るようにもなった。だけど、それでもまだ足りない。ぼくの知識と力は、決定的に不足している気がした。
「……師匠、また咳が出ています」
ゲルマンはいつものように、深く皺の刻まれた顔で笑った。
「歳を取ると、草より先に体がくたびれるもんだ」
しかし、その笑いには力がなく、無理をしているのが分かった。
数日後、彼はとうとう床についた。
最初はただの風邪だと思った。けれど熱は下がるどころか高くなり、息は浅く、声は途切れがちになった。
ぼくは夜も眠らず、手持ちの薬草全てを使って調合を試みた。しかし、どの薬もゲルマンの病状を止めることができない。
炉の明かりの代わりに、蝋燭の火がゆらゆらと揺れる。机の上には、効果のないまま煮詰めた薬瓶がいくつも並んでいた。
「お願いだ……治ってよ……」
そう呟きながら、ぼくはゲルマンの額に滲む冷たい汗を拭った。
そのとき、かすかな、喉から絞り出すような声が漏れた。
「……露を……生命の……露……」
うわ言のように、ゲルマンはそれだけを繰り返した。その言葉を最後に、彼はまた深い眠りに落ちていった。
「生命の露……?」
初めて聞く、神秘的な響きだった。
だがその言葉には、不安を打ち消すような「希望」の匂いがするような気がした。
翌朝、ぼくは小屋の資料棚をひっくり返した。ゲルマン師匠が若い頃に記した薬草の記録。先代の薬師が残した古い日記。旅人が書き写したという写本。一枚一枚、積もった埃を払いながら、必死に目を通していく。
そして、ついに一冊の古びた帳面に行き当たった。表紙の文字は擦れて読めないが、中の記述だけは、はっきり残されていた。
【生命の露。命を紡ぐ霊薬。かつて王都にて精製され、王立薬師院のもとに厳重に保管される】
「王都……」
ぼくは、その言葉を反芻した。
そこに行けば、ゲルマンを助けられるかもしれない……。
それは、ただの希望的観測だ。確証などどこにもない。けれど、ここで無力なまま立ち尽くし、師匠を失うくらいなら──。
ぼくは立ち上がった。
旅の準備など、何もできていない。しかし迷いはなかった。
最低限の包帯と薬包紙を腰袋に詰め、乾いたパンを布でくるむ。小屋の扉の前に立つと、背後から、荒い寝息のような音が聞こえた。
「師匠……必ず、あの露を持ち帰ってきますから」
その声に返事はなかった。
しかし、ぼくが去るのを察したように、ゲルマンの手が微かに動いた──気がした。
朝の光が、まだ肌寒い山を照らし始めている。ぼくはその光の中を、外へと歩き出す。灰の中で目覚めたあの日から、初めて自分の意志と目的で選んだ旅路だった。




