第十一話:貴族の病と、影の薬理
ぼくが調合した『微睡みの雫』は、その日のうちにイシュトの手で院の外へ持ち出された。クロイツ院長は、ぼくの薬について何も言わなかった。その沈黙が期待なのか諦めなのか、ぼくには判断できなかった。
翌日の日中、ぼくは掃除を命じられた院の西棟で、その病の深刻さを初めて垣間見た。
その棟は、普段は関係者以外立ち入り禁止の場所だ。ぼくが通路を拭いていると、奥の個室から甲高い女性の叫び声が聞こえてきた。
「やめて! やめてよ! 彼らが、壁の中にいる! ずっと囁いている!」
すぐに部屋の扉が乱暴に開き、二人の見習い薬師が、顔を青ざめさせた女性を抑えつけているのが見えた。彼女は豪華なシルクの服を着ていたが、髪は乱れ、目の焦点が定まっていなかった。
「離して! 水を! 毒を飲ませるつもりね!」
見習いの一人が、ぼくに向かって厳しい目線で言った。
「雑用係は下がれ。これは貴族の病だ、君が見るべきものではない」
ぼくは慌ててその場を離れたが、その女性の恐怖に歪んだ顔と、幻覚に苦しむ声が耳から離れなかった。これが王都の「光」の知識が治せない病の正体なのだ。師匠ゲルマンのかかった病とは違う、精神を蝕む病。
数日後。
夜になり裏の炉に戻ると、イシュトが待ち構えていた。彼の顔は、前回会ったときよりも明らかに疲労の色が濃い。
「アレン君、君の薬……『微睡みの雫』あれは、一体どういう薬なんだ」
彼の声には、驚きと戸惑いが混ざっていた。
「効きませんでしたか?」
「いや、逆だ」
イシュトは、声量を落とした。
「あの子爵夫人は、三日間まともに眠れず錯乱状態だった。それが君の薬を少量飲ませたところ、七時間も熟睡したそうだ。目覚めた後も精神が安定していた」
ぼくは息を飲んだ。安堵と、成功への高揚感が入り混じる。
「あの薬には、鎮静作用のある夜見草を、他の草で丁寧に包み込むように配合しています。体内でゆっくりと薬効を解放させることで、副作用を抑えつつ心を休ませる。それが山の薬師のやり方です」
イシュトは信じられないものを見るかのように、裏の棚を見つめた。
「我々は、純粋な抽出、完璧な分離を目指す。薬草の持つ『毒』を完全に排除しようとする。だが君は……その毒性を意図的に薬効の一部として使ったのか?」
「師匠は、毒の性質を知らなければ、真の薬は作れないと言っていました」
イシュトは深くため息をついた。
「この院の、どの薬師も考えもしない手法だ。君の薬は表面の症状だけでなく、心の奥底の緊張を和らげた。だが君の薬を公に使うことはできない。これは院の正規の知識とは認められない『影の薬』だからだ」
微睡みの雫が完成した日、イシュトが言った”あの時の言葉”
『分かった。これは院の”記録”には残さない』
その意味がようやく理解できた。
薬として使用はするが、薬師院の「光りの薬学」以外のもの──つまり山の薬学という”外部の知識”が使われていることに、プライドが許さないんだろう。
その言葉は、ぼくの処遇が変わらないことを意味していた。ぼくはまだ、この院の「裏側」の人間だ。
だが、ぼくの心は折れなかった。王都の「光」の知識が壁にぶつかっている今、ぼくが師匠から受け継いだ「影の知識」こそが王都で必要なのだ。
ぼくは、誰も使わない裏の炉の火を熾した。この小さな炉から出る煙だけが、この王都の病を救うことができると強く信じ始めた。ぼくの二度目の旅の真の目的が、今、定まったのだ。




