第十話:微睡みの雫
裏庭の小さな炉が、ぼくの王都での本当の仕事場になった。日中は雑用係として院の「光」に仕え、日が落ちるとこの裏の炉で「影」と向き合う。
ぼくが研究を命じられた「心の病」は、貴族の間で急速に広まっていた。幻聴、不眠、そして突然の錯乱。正規の薬師が調合する薬は熱や傷には効くが、心の問題にはまったく無力だった。
イシュトを通して、病を患う者たちから、彼らが使用していた薬の情報を得た。どれも院の光の下で精製された、効能が確かな薬ばかりだ。
「なぜ、効かないんだろう……」
王都の薬師院に並ぶ薬は、どれも整いすぎている。効能は明確で安全は保証され、調合はすべて数値の中に閉じ込められている。熱は下がる。傷は塞がる。それでも、夜の闇に囚われた者の心には、どの薬も届いていなかった。
眠れぬ者、怯える者、正気の縁で揺れる者。彼らの瞳に映るのは、誰にも触れられない霧のような痛みなのだろう。
──なぜ、効かない?
考え続けた末、山の薬師として自分なりの、ひとつの結論に行き着いた。薬が、あまりにも正しすぎるんだ、と。
副作用や毒性といった“不完全さ”を排し、光だけを選び続けた結果、薬は心という曖昧な領域に踏み込めなくなっているのかもしれない。
過保護に作成されすぎた薬は、ぼくが学んだ山の薬学や村の知識とは少し違う気がした──。
どこが?
そのとき、師匠ゲルマンの言葉が蘇った。
──薬は使い方を誤れば毒になる。だが、毒を知らなければ真の薬は作れん。
もし、ぼくの想像が正しければ、進むべき道は決まっている。
ぼくは、裏の棚から一本の薬草を取り出し火にくべた。その煙は甘く、すぐに苦味と混ざり合う。これは『夜見草』だ。村の知識では、ほんの少量で穏やかな眠りをもたらすが、多すぎると幻覚を見せるという。
ぼくは夜見草を主成分に選んだ。少量で穏やかな眠りを与え、多すぎれば幻覚の海へと引きずり込む草。薬と毒の狭間に揺れるその姿は、まるで薄闇に咲く月の花のようだった。
正確な秤も数値も使わない。頼るのは指先の感覚と、鼻を掠める香り、そして体に染みついた山の薬師の直観だけだ。
夜見草を砕き、数種類の影の薬草と慎重に混ぜる。湯の中で溶け合う薬はゆっくりと色を変え、深い紫へと沈んでいく。その揺らめきは眠りへ誘う湖面のさざ波のようだった。
毒性は限界まで抑える。
──これでいい。
小瓶に注がれた雫は、微かに青みがかって静かに揺れていた。
調合を終えた──。
ぼくは、その名をそっと口にした。
「……微睡みの雫」
*
数日後、イシュトがぼくの元へやってきた。
「クロイツ院長が、君の『試作品』を見てみたいそうだ。効果は問わない。とにかく正規の薬ではない、別の可能性を見せてほしい、と」
彼の顔には焦りが滲んでいた。院の薬師たちは貴族に対しても、そのプライドから「治せない」とは言えないが、このままでは問題が大きくなりすぎることを知っているのだろう。
ぼくは、自分が調合したばかりの『微睡みの雫』を差し出した。
「心を沈静させ、深い眠りへ導くはずです。毒性もあるので、使用量は厳重に管理しなければなりませんが」
イシュトはその薬を訝しげに見つめた。彼の知識では、毒と薬をギリギリで共存させるなど考えられないのだろう。
「分かった。これは院の”記録”には残さない」
その日の夜、ぼくは炉の前で眠れなかった。もしぼくの誤薬が、また誰かを傷つけてしまったら?
あの「誤薬の夜」の罪の意識が重くのしかかる。
だが、すぐにぼくは、王都に来る前に師匠に誓った言葉を思い出した。
最高の薬師になるには、失敗を恐れて手を止めるわけにはいかない。
たとえ、それが院の「光」に否定される「影の道」であったとしても。
ぼくは夜空の下で、裏の炉から立ち上る煙を静かに見つめた。その煙の向こうに、この王都の真実が隠されているような気がした。




