言われた仕事は、やり遂げます
「殿下、大丈夫ですか」
応接室に入る前、ベネディックに声をかけられた。
「何が?」
「すでに額に汗が……別に結婚の申し込みに行くわけじゃないんです。もっと楽に構えてください」
「いっそ、その方が良かったよ」
「今なんと?」
「何でもない、行ってくる。もし叫び声が聞こえたら……、その時はドアを開けてくれ」
「——承知しました」
応接室に続く扉が開く。中から重苦しい空気が流れ込んでくるようだ。
今から会うのは元帥を輩出したこともある名門公爵家の当主であり、軍の中将であり、そしてアンドレアの父だ。
部屋に入ると、アンドレアの横に、軍装に身を包んだ長身の男が立っていた。黒い髪には銀糸が混じるが、がっしりとした体躯には一切の衰えを感じない。これがアンドレアの父、ノーリッジ公爵か。
威圧感だけで、動悸が早まる。だがここは、逃げも隠れもせず、正面から堂々と臨まなければ。少なくとも、僕の誠意は伝わるように。
「お会いできて光栄です、ノーリッジ公。あなたの戦場での功績の数々は聞き及んでおります。私も軍に身を置く一人として、公爵のご活躍はとても励みになります」
彼の鋭い視線が、僕の目をとらえた。肩から斜めにかけられた飾り帯や胸に輝く星章、その一つ一つが戦場での功績であり、彼が中将たる所以だ。
それに比べて自分は、王の息子というだけで大佐になったが、軍歴も浅く、彼の前ではひよっこにすら入らないだろう。この人を相手に娘との偽装の愛妾関係を説明するなんて、胃が重くなる。
低い声が響く。
「お褒めの言葉、恐悦にございます。しかしながら、——本日は娘の話をしにいらしたのでしょう、殿下」
その言葉に身が縮む。彼にご機嫌取りは得策ではないようだ。二人に長椅子を勧め、早速本題に入った。
「アンドレア嬢の身に起きたこと、そしてこの事態を重く見た陛下が、私に調査の勅命を出したことは、お聞きになっていますね」
「あらかたは娘から聞きました」
「城の警備が破られていたことや、城内に賊が侵入した形跡を、彼女が一人で暴き出したということも?」
公爵がチラリと娘を見遣る。横でアンドレアがこくりとうなづく。やはり彼女は自分の手柄をきちんとは伝えていなかったようだ。
「彼女の教養と機転は非凡なものです。それは今回の調査に如何なく生かされました。彼女の能力は、私の部下五人分にも匹敵するでしょう。ですから、ぜひ彼女には引き続き調査に加わってほしいと考えています」
公爵は身じろぎせず僕の方を見ている。
「しかしながら、彼女が命を狙われたという事実も、私は重く受け止めています。彼女の身の安全のためにも、彼女には私という後ろ盾がいることを知らしめなければなりません。そうすれば……」
「誰も容易く娘に手を出すことができなくなる、と?」
口を開いた公爵の言葉は重苦しくはあったが、冷静な響きだった。
「それで、娘に愛妾の真似事をさせる必要性は?殿下が後ろ盾になってくだされば十分なのでは?」
「宮廷の人間が一筋縄ではいかないのはご存知でしょう。だからこそ、彼女は私の手足であると知らしめる必要があります。そうすれば、周りの者も協力的になり調査も捗るでしょう」
「協力的に……ですか。ものは言いようですね。要は娘に殿下の権力を利用させ、邪魔するものは愛妾という立場でねじ伏せる、そういうことでしょう?」
「それは……」
静かに語る口調は冷静だが、言葉には怒りが滲んでいる。きっと僕が彼女をいいように使うと思っているのだろう。でも、僕だって決して彼女を駒にしたいわけじゃない。
「お父様」
その時、アンドレアが静かに口を開いた。
「殿下はわたくしを調査の駒としてお使いになる、それは事実です。けれど、それでいいではありませんか。これはわたくしにとっても理があることなのですから」
ちょっと待ってくれ、アンドレア?それは誤解なのだけれど……。
「わたくしは、殿下のおかげで自分の命を狙った卑しき下衆に報いを与えることができるのです。お父様にお教え通り、誉を汚すものに鉄槌を加えることができて嬉しいですわ」
なんだか突然、アンドレアが悪役令嬢のような話振りになった。僕に助け舟を出してくれるのは嬉しいけれど、これじゃあ余計にどう切り返せばいいのかわからない。
公爵がアンドレアの方に向き直る。
「ふむ。お前は他人の威を借りてでも、この件にケリをつけたいと?」
「はい。ここまでコケにされたのですから、手段を選んでいられませんわ」
「危険な目に遭うこともあるのだぞ?わかっているのか?」
「ええ。つい最近経験したばかりですから、鮮烈なほどに想像できますわ」
「愛妾と呼ばれることも?」
「仕方がありませんわ。私は大佐にも中将にもなれませんもの。いただける中で一番上等の称号をいただいたと、思っております」
「殿下との関係に不安は?」
「殿下はたかが駒に手を出すような、無粋な真似はされないお方です」
「そうか。わかった。——アンドレア、少し席を外してくれるか?殿下と二人で話したい」
アンドレアは少し驚いた顔をして、正面に座る僕をチラリと見る。けれどその時の僕は、彼女より驚いた顔をしていただろう。アンドレアの唇が僅かに動く。
(どうします?)
どうするかと言われても、これは受ける以外に道はない。僕は、顔に出ていた表情を押し込めて、精一杯の作り笑いを浮かべる。
「公爵がお望みとあらば。アンドレア嬢、控えの間で待っていてください」
アンドレアが退席した後、公爵は、目を伏せ、腕組みをしながら何かを考えているようだった。しばしの沈黙の後、彼はゆっくりと口を開いた。
「アンドレアはどうやら本気のようですね、殿下。ああなると、引きません。これが娘の望みであれば、私は見守るより他にない」
「彼女には強い意志があります」
「ええ。あの子を男児として育てたのは、男児に恵まれなかった自分を慰めるためだけではありません。あの子には、厳しい指導にも食らいつく気概があった。息子が生まれた後、男児として育てることを妻に止められたのが残念でなりません。もしあのまま育てていれば、今頃は良い軍人になっていたでしょう」
「……男子であれば、確かに、そうかもしれませんね」
「あの子自身も、普通の令嬢でいることには馴染めないと感じていたようです。結婚はせず、修道院に行くと言っていたのに、私がせめて人並みの幸せをと縁談を受けてしまった。その結果がこれです」
「アンドレア嬢を思いやる公爵のお気持ち。しかと受け止めました」
「私はあの子を危険に晒すようなことはしたくない。だが、私に従うように言ったところで、肝心の私の方がどうかしていた。命を狙う人間に嫁がせようとしていたとは。ここは、娘の思うようにさせた方がいいのかもしれませんな」
「それじゃあ?」
「ただし条件があります。娘とは白い関係でいてもらいます。あの子の名誉を尊んでください。」
「はい。それはもちろんです」
「たとえ殿下であっても、娘の同意なく体に触れれば、指を折る。口付けすれば、顎を割る。それ以上のことをすれば……、わかっていますね」
「も……もちろん、そのような事は絶対に起こらないとお約束します」
「わかりました。——では、あなたの提案に同意しましょう」
公爵の声は小さなため息と共にそう答えた。
「ありがとうございます、公爵!」
緊張の糸が切れたのと、アンドレアからの依頼をやり遂げたという喜びから、思わず声が大きくなってしまった。
公爵は立ち上がり、僕の方に手を差し出した。その手を両手で握り返して固く握手を交わす。
そこで静かにドアが開いた。
扉の向こうには、握手をする二人の視線に晒されたベネディックが立っていた。僕と公爵を変わるがわるに見て言う。
「……叫び声が聞こえましたので、確認に参りました」
♢♢♢
夕暮れの西日が窓から差し込み、机の上の地図や書簡を赤く染めていた。執務机の椅子で報告を聞き終えると、私はゆっくりと瞼を閉じた。
「そうか……ノーリッジ公が動きましたか」
従僕をノーリッジ家に張り付かせていた収穫がやっとあった。公爵の動きは意外なものであったが、なんの収穫もなく無為にすぎたこの10日ほどを思えば、動きをつかめただけでもよしとしよう。彼の動きは、捜査の嘆願かあるいは……。
アンドレアと言ったか——あの娘は生きているのだろうか。荷馬車から消えた直後から探しているというのに、未だ消息がつかめない。山で獣にでも喰われているのであれば、それはそれで結構。ただし、死体であっても見つけなければ、私に安寧は戻らない。
「ご苦労でした。役目をよく果たしましたね」
そう言葉をかけると、従僕は頭を低くさげ音もなく部屋を出ていった。
[第19話 言われた仕事は、やり遂げます 了]