第10話 アップデート:公爵令嬢に涙が実装されました
芽生えた疑念を王子に言うべきか迷った。口にすれば、何かが壊れる気がする。けれど、黙っても胸のざわめきは消えない。
「……私を乗せた荷馬車は、なぜスペンサー家の領地に向かったのでしょう?」
声に出して初めて、自分がそれを疑っていたことを自覚する。庭に目をやっていた王子の視線が、私を捉え直す。
「荷馬車の中で聞いた会話では、『あの方は今ここにいるらしい』と言っていました。“あの方”って?」
そして、先ほどの馬車の中での、本音を見せない表情と底の知れない態度。自らの疑念を王子に話すと、彼はゆっくりと頷いてこちらを見据えた。
「ベネディックを疑っているの?」
私は何も答えられない。
「彼は、そういう人間じゃない。僕が保証する」
彼の真剣な眼差しに息がつまる。けれど、私だって誰彼構わず疑うような人間じゃない。
「それに、もしベネディックが事件に関わっていたら、山で君を見つけ次第に処分していただろう」
その言葉にハッとする。
彼は私を助けてくれた。そんなことも忘れて、なぜ?
自分への怒りから、顔が熱くなるのがわかった。王子が私に一歩近づき、瞳の奥まで覗き込むような表情で言う。
「舞踏会の夜、君が経験したことは想像を絶するものだったと思う。きっと今の君は、周りの誰もが疑わしく見えていることだろう」
私は、ただ目を逸らしたかった。でも、彼の瞳がそれを許していないように思えた。
「だから、今の君が誰かを疑っても、信じられなくなっても、どうかそのことを恥じないでほしい。自分に怒りを向けないで。それは、自分を守るための正しい反応だから。君は、何も“間違って”ない」
王子の言葉が胸の中に響く。
まるで私の中にある恐怖と混乱と心細さとを、丸ごと抱きしめてくれるような言葉だった。こんなに怖かったなんて、私すら、気付いていなかったのに。
舞踏会の夜からずっと蓋をしてきた感情が一気に溢れ出した。
公爵家の娘は、感情を自制する。
公爵家の娘は、表情を崩さない。
公爵家の娘は、泣かない。
これまで教えられてきた全てのルールを破って、私の頬に涙が伝っていた。
「あれ?どうして!?僕、何か変なこと言った?君は本当に、何も悪くないんだよ」
王子が妙に焦った顔で覗き込んでくる。
「違います……これは……」
自分でもその先に続く言葉がわからなかった。
——これは、なんの涙なのだろう?安堵?感謝?心強さ?
東屋のベンチに座らされて、王子は私の涙が収まるのを待ってくれた。こんなに泣いたのはいつぶりだろう。いや、誰かの前で、はっきりと感情を出すことすら、ずっと許されてこなかった。
私が落ち着いたのをみて、王子が静かに、けれどしっかりとした口調で話し始めた。
「僕もずっと昔、命を狙われたんだ」
その言葉に不意をつかれた。彼の横顔には、さっきまでの飄々とした様子はない。
「夜中に隠し扉から逃がされて、ベネディックと一緒に地下室に隠された。一晩中、上から聞こえる足音に怯えていたのを覚えてるよ。泣き叫びそうになる僕の口を、ベネディックがずっと押さえてくれてた」
王子がこちらに向き直って続ける。
「君は、命を狙われることよりも、自分を偽ることの方が怖いと言った。その気持ちはわかる。僕なんて偽ってばっかりだ。でも、命を狙われるのだって、本当はすごく恐ろしいことでしょ。その感情に向き合うのは、弱さじゃないと僕は思う」
彼には、弱さに向き合えるだけの強さがあった。私はただ、見ないふりをして蓋をしていた。
「それに、あの時僕が泣けたのは、護られていたから。僕を抱えたベネディックの手だって震えてたのに、彼は最後まで泣かなかった。君も同じだ。ずっと一人で耐えてきたんでしょう?」
そして、つぶやくように言った。
「やはり君は、僕よりずっと強そうだ」
そんなふうに真っ直ぐ言われると、自分を欺くことばかりしてきた私には、返す言葉が見つからない。何も言えずにいると、王子が頭をかきながら立ち上がった。
「まいったな。調査なんて危ないことはやめて、安全なところに隠れるように説得しようと思ったんだけど……。どうやら君は僕よりよっぽど肝が据わっているね。どうしたものかな」
思いがけない言葉に顔が緩む。いつもなら自嘲的に笑うところだけれど、これは、嬉しさと、——たぶん少しの気まずさ。彼は見つけてくれたのだ。決して弱くないけれど、強がりがちな私を。
彼が立ち上がり、くるりとこちらを向く。奥でルピナスが揺れている。
「それでは、先ほど言った通り、君の調査に協力しよう。ただし、条件がある。期間は3日間だけ。君を“行方不明者”としてそれ以上は放って置けない。それと、調査で得た情報は、僕とベネディックに共有して欲しい。
僕も知りたいんだ、君が見つけたことを」
「はい」
そう答えると、心の中にあった重みが少しだけ解けたように感じた。
「それと、もう一つ」
そう言った王子に視線を向ける。イタズラっぽい口調で彼が言う。
「ベネディックは本当に良いやつだよ。僕たちのことを覗き見してたことは、叱らないといけないけどね」
思わず笑い声が出た。
「彼の名誉のために言っておくと、別にのぞき魔ってわけじゃないから」
それから、まるで王子のように優雅な姿で——まあ王子なのだけれど、私にその手を差し出した。
「さあ、戻ろう」
今度は、彼の手を自然に取ることができた。これからの3日間で、私はどれだけ真実に迫れるのだろうか。不安な気持ちと、少し軽くなった心を抱えて、私はまた庭を歩き出した。
[第10話 アップデート:公爵令嬢に涙が実装されました 了]
次の更新は、明日の11:00です。
毎回悩みながら書いてます。評価や感想をいただけると嬉しいです。