第1話 アンドレアさんは、意識を奪われたようです
廊下には私たち以外に人影がない。角を曲がるとさらに長い廊下。舞踏会の喧騒ももう聞こえない。
その静寂の中で、黒服の男が歩みを止めた。
——廊下の真ん中で、なぜ?
声をかけようとした瞬間、背後から肩を掴まれた。懸命に抵抗するが重いドレス姿では、なす術もない。
「何してる!早く薬を!」
黒服の男が小さく叫ぶ。すぐに別の腕が伸びてくる。嗅いだことのない薬品の匂いが口元を覆う。
体から力が抜け、そのまま床へと押し付けられるように崩れていった。背中にかかる力と、頬にあたる絨毯の感触。
それが最後の感覚だった。
♢♢♢♢♢♢
王宮の巨大なシャンデリアの下で開かれる舞踏会では、誰もが、誰かの期待通りの姿を演じていた。
私アンドレア・ノーリッジも例外ではない。
淡いグリーンのドレスを身にまとい、柔らかな笑みを浮かべ、レースの裾を持ち上げ揺らす。“従順で貞淑な娘”として立ち振る舞うこと。それが、今夜の私に与えられた役だった。
けれど、どんな優雅な淑女令嬢も、コルセットに内臓を潰され、重いドレスに動きを奪われている。ここは欺瞞と虚飾の舞台。眩しすぎるほどの輝きの裏には、服従と迎合、そして沈黙が隠されているのだ。
「少しはずす」
あっけないほど簡単な言葉を残して、婚約者のダミアンは、私から離れていった。
誰か知り合いでもいたのかしら?それなら私に紹介してくれてもいいのに。
彼が私に冷たいのは、婚約当初からずっとだ。もしかすると、ひと月程前に彼の仕事に口出ししたことをまだ怒っているのかもしれない。
元々、彼の結婚の目的が私の父とのパイプ作りなのは明らかだった。父は公爵で、軍の中将でもある。彼の実家も武門の侯爵家。それで、五女の私に支度金まで示して、婚約を打診してきたのだろう。
——ダンスの時間までに戻ってきてくれるといいんだけど。
そんな事を考えているとどこからともなく拍手が起こった。広間に設けられた舞台に皆の視線が集まる。この舞踏会恒例の婚約発表の時間だ。
この春までに婚約が整ったカップルたちが壇上に登り、皆の前で恭しく一礼する。形式的ではあるが、王族からの承認もある。
私たちも去年はあの壇上にいたのに……。彼と婚約して、一年になる。けれど、いつまでも縮まらない距離に、ふと虚しくなってしまう。
恋愛結婚では断じてない。けれど、家を守るパートナーくらいには思いたい。それなのに、彼が私に貫く無関心をどう捉えたらいいのだろうか。婚約の先にある結婚とはそういうものなのだろうか。
気がつくと、婚約発表は終わっていた。嬉しそうな顔のカップルたちが舞台を降りる。すると続いて一人の男が壇上へと上がってきた。
一瞬、自分の見間違いかと思った。でもそれは、間違いなく私の婚約者、ダミアンだった。
——どうしてあなたが?今から何が始まるの?
胸が苦しくなる。コルセットのせいじゃない。早まる鼓動と裏腹に、足先が冷えていく。
婚約発表は全て終わったはず。広間のざわめきが、沈黙に変わる。
かつてはこういった席で、婚約破棄の発表もあったという。ただ、あまりにもデリケートなことなので、昨今、そんな事をする家はない。
まさかね……ここで、そんな真似をするはずない。私は何も聞かされていないし、そんなの非常識すぎる。
だが、壇上の彼は一歩も動かない。視線は私を避けるように前だけを見据えている。それは、問答無用の拒絶の証なのだろうか。
「本日をもって、私ダミアン=カーライルとアンドレア=ノーリッジの婚約を解消いたします」
ざわめきも扇のひらめきも全て止まった中で、楽しげな音楽だけが場違いに響いていた。
私は呆然として、舞台を見つめていた。
「承認する」
婚約の承認と全く同じトーンで王族が告げた。その声に我に帰る。
彼の視線が、一瞬だけこちらに向いた気がした。
この瞬間、婚約破棄は成立し、壇上に立つ男性は私の“元・婚約者”になったのだ。
ざわつく会場。壇上に向けられていた視線が、一斉にこちらへとうつされる。多くの視線に晒され、たじろぎ、口元がわずかにわなないた。
——公爵家の娘は、泣かない。
その矜持が、私を突き動かした。自制を取り戻し、口を閉じ、背筋を伸ばした。これ以上の動揺を顔に出すわけにはいかない。
泣くもんですか。むしろ彼の家に乗り込んで、一発はたいてやりたいわ。いえ、腹にグーパンね。よりにもよって、こんな場所で発表するなんて!私の何が不満だったのよ!
そこまで悪態をついて、ふと思った。
——いえ、きっと全てが不満だったんでしょう。私がそうだったように。
そう思うと急におかしくなってきた。楽しくもないのに笑みを浮かべ、虚しさを押し殺して、未来の夫に付き従ってきたこの1年のことが。
一瞬だけ、心に清々とした静けさが戻った。自嘲的ではあるが、笑みが漏れる。
さてと、今は誰かに捕まって根掘り葉掘り聞かれる前に、ここを離れなければ。私はくるりと踵を返し、何事もなかったように歩き出した。ドレスの裾が足にからみ、もつれそうになる。
ホールの扉を出ると、ひとりの男が近づいてきた。
「アンドレア様。詳しいお話があります。控えの間の方に……」
黒い礼服の男だ。口調は丁寧だが、有無を言わせぬ圧がある。ダミアンから言われてきたのだろうか。私だって、言いたいことなら山ほどある。無言でうなずき、男のあとに続く。
廊下には私たち以外に人影がない。角を曲がるとさらに長い廊下。舞踏会の喧騒ももう聞こえない。
その静寂の中で、男が歩みを止めた。
——廊下の真ん中で、なぜ?
立ち止まる男に声をかけようと口を開いた瞬間、背後から肩を掴まれた。握り潰すような強い力だ。後ろへ体を捻るが、押し返される。
咄嗟に脚を後ろに踏み出し、肩を押さえる人物の足を力一杯踏む。
「くぅっ!」
もう一度だ。次は脛を狙おう。けれど蹴り上げた足は、ドレスの後方に垂れたトレーンに邪魔されて、後ろに上がらなかった。
「何してる!早く薬を!」
黒服の男が小さく叫ぶ。すぐにもう一つの腕が伸びてきて、口元が布で覆われる。息の苦しさと、嗅いだことのない薬品の匂い。目の前に見えていた絨毯の模様がぐにゃりと曲がった。
体に力を入れることはもうできない。そのまま床へと押し付けられるように崩れていった。背中にかかる力と、頬にあたる絨毯の感触。
それが最後の感覚だった。
[第1話 アンドレアさんは、意識を奪われたようです 了]
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