1.4 ― 日独国境紛争開戦に際して、陸軍三長官会議。
7月。燦々とした日差しは、蝉時雨と共に降り注ぐ。
今日の帝都東京に、戦争の残骸は見受けられない。
既に大戦争の終結から1年の時が流れている。戦後の混乱も治まり、東京は戦前の姿―――いや、戦後の新しき姿を創りつつあった。
…
そんな中、トルキスタン総督の曽根清三中将は、市ヶ谷台の陸軍省庁舎に招致された。招致の理由は、日独国境紛争に至った経緯を問い質す為である。
曽根中将が会議室へ入室すると、すぐに彼はただならぬ視線を感じ取った。
いや、感じざるを得なかった。
奥では〈陸軍三長官〉(いわゆる「陸軍大臣」「陸軍参謀総長」「陸軍教育総監」の三人)が曽根中将を睨みつけていたのである。
曽根中将が着席すると、椅子に座る"阿南惟幾"陸相が、
「…全く説明を受けていないと言う訳では無いが、曽根君には是非、今度の〈事件〉に関する"説明"をしてもらいたいのだ。…分かるかね。」
と、疲れた様子で言い、先程より深く座り込んだ。
そして、陸軍三長官達は曽根総督に対する「聞き取り調査」を開始した。
〝何故、第七師団を越境させたのか?〟
「14日未明、バリクソル湖畔において独逸軍が不法越境し、同地に衛戍していた陸軍第一七連帯との交戦が発生。日独全面戦争を避けるべく、独逸軍に対して一撃を与えた次第であります。」
予測していた質問であったのか、曽根総督は直ぐに回答した。
しかし、その声と顔色には、陸軍三長官に睨まれていると言う"緊張の色"が見えた。
〝何故、本国へ指示を仰がなかったのか?〟
「総督府の中で協議を行い、最終的に〈既に紛争状態である〉と判断し、独逸軍によるさらなる攻撃を防ぐべく、私の独断で越境攻撃を行った次第であります。」
〝戦況は如何なものか。〟
「独逸軍による〈思わぬ反撃〉を受け、一進一退の攻防を繰り広げております。」
以上の様な問答が小一時間に渡って続けられ、最後に阿南陸相が「では、今度の件は"完全なる正当防衛である"と、君はそう言いたいのかね?」と聞いた。
「…はい、そうであります。」
曽根中将がそう答えると、阿南陸相は数秒の間の後に「宜しい、閣議でもその様に報告しよう。」とだけ言って、聞き取りを終らせた。
…
「…何と言う奴だ。」
「全くだな。」
曽根中将の退室後、陸軍三長官等は緊張の糸が切れた様に話し始めた。
「独逸と全面戦争になれば勝ち目は無い、独逸は核分裂兵器も持っておるからな。」
この時、日本における核分裂兵器は開発途上であり、米軍から接収した原子爆弾も幾らかあるが、未だ試験には至らず、現時点での実践使用は"全く"と言っていい程に考慮していなかった。
「阿南さん、そう弱気にならないで下さいな。
独逸の財務状況は芳しく無い、独逸に総力戦を再度遂行する力は残っておりませんよ。」
「それは我が国も同じことだろう。
戦時国債の返済で火の車だと言うのに、何処から戦争資金を捻出する気かね君。」
もし日独全面戦争を遂行するのであらば、その為の資金を確保せねばならない。
然しながら、大戦終結直後の国家に、その様な資金が何処にあると言うのか。
「…此度の事件、国境紛争程度で終らせなければなりませんな。」
「程度…程度か。
盟邦ドイツであれど、国境紛争に至ったとなれば、日本国民はどの様な感情を抱くと思うか。」
そして、阿南陸相は参謀総長と教育総監の方を向いて言った。
「…憎悪だ。
独逸に対する憎悪が始まる。」と。
「日本国民は以前まで、英米崇拝をしていた。
現在は独逸崇拝だが、この一件で日本国民は独逸に対する憎悪を抱く事となるだろう。
…では日本国民は、次に誰を崇拝すると思うかね?」
『日本国民は日本国民を崇拝する様になる。』
―――大日本帝国陸軍大臣、阿南惟幾 陸軍大将。―――