2.刺繍
淑女教育のいくつかの分野から、得意なものを発見した。
それはずばり刺繍である。
習い始めの頃は針で指先を刺したり、間違った箇所に針を通したり、変なところを縫い合わせてしまったり、とにかく失敗が尽きなかった。正直、ボタンの付け直しくらいでしか針は触ったことがなかったので、最初の内はどんだけやっても上手くなるとは思えなかった。けれどやっていく内にできる事が増えるようになると、ひとつひとつの小さな積み重ねが大きな結果をもたらしていく過程がなんとも興味深く感じるようになり、今では空き時間も刺繍をしているほどにはまっている。
刺繍の先生は桃華の母の水月だ。彼女が刺す刺繍はとても繊細で美しく、色味は抑えめであるものが殆どなのに、はっと目を引くような華やかさを持っている。自身の名にある月と、あとは蝶をモチーフとしてよく使っている。
俺はといえばやっぱ桃華の桃でしょうってことで桃の花を使っている。
夕食後は自室ですっかりお気に入りになった窓辺の座椅子に腰掛けて刺繍を楽しむのが日課だ。今は三日月の右下に桃の花を3つほど添えたデザインを刺繍している。生地は藍色でサイズはハンカチ程の大きさだ。まだ水月さんのようにはいかないが、俺的にはどんどん上達していると思う。
少し休憩しようと侍女のセツが淹れてくれた茉莉花茶を飲む。窓からは夏の涼しい夜風が入ってきて、茉莉花茶の香りもあいまって爽やかな気持ちになった。窓の外に目を向けると、中庭にある池が空にある月を映していた。月の横にある雲が静かな水面でふわふわと浮かんでいた。なんともなしに綺麗だなぁと見ていたのだが、どたばた足音が近づいてくるのが聞こえた。
こんなに騒ぎながらこちらに近づいてくる奴は1人しか居ない。
妹バカの兄、紫雲だ。
「セツ、お兄様だと思うからお通しして」
「かしこまりました」
騒がしい紫雲とは反対にセツは足音を立てず移動し扉越しにやりとりした直後、開かれた扉からまるで転がり込むかのように紫雲が室内へ入ってきた。
「あああ、どうしていつでもそんなに愛らしいんだ」
「お兄様、玉家の次期当主があまり騒がしくしてはいけませんよ」
「桃華がそういうなら!」
「・・・ふぅ」
「どうした桃華!体調でも悪いのかい?!」
「いいえ、そうではありません。お兄様、まずはお座りになって。お茶の準備をいたします」
「おお、さすが我が妹は気が利くね」
ニンマリとした笑顔を浮かべながら、桃華の対面へ着席をする紫雲。いい加減落ち着いてくれないかと先の会話を会う度に繰り返しているが、一向に落ち着く様子はない。
紫雲は桃華より3歳年上で玉家長子のため、男女関係なく長子が家督を継ぐ習わしの青河国では、産まれたときから玉家次期当主になることが決まっている。
セツが紫雲の前に桃華のものと同じ茉莉花茶を出す。綺麗な硝子製の茶器の中、琥珀色の水面には小ぶりの白い花が浮かんでいた。紫雲がそれを一口飲み、落ち着いたところを見計らって訪問の理由をたずねてみる。
「それで、お兄様。わたくしもう休もうと思っていたのですよ。こんな夜更けにいらっしゃるのだから、とても大切なご用でしょうね?」
まぁ夜更けという程そんなに遅くはないけれども、あと少し刺繍をしたら寝ようと思っていたのは確かなので少しちくっと言ってみた。
溺愛する妹のちっちゃな嫌味に、案の定紫雲は「うっ」と一瞬顔をゆがませたが、そこは対妹激強メンタルでしっかりと乗り越えてくる。
ちょっと前のめり気味に「もちろん!」と元気いい返事がきた。
「どのようなご用でしょう?」
「頼んでいた刺繍だが、夜、食事の際に完成したと言っていたね。それをもらいに来たんだよ」
「あ」
「ん?どうかした」
そういえば頼まれてた刺繍が昨夜完成したんだった。今日1日何かと忙しくて一息つけたのが夕食のときだけだったから、誰と何を話していたかなんてすっかり忘れていたわ。
そりゃあ出来たらすぐに回収するよな、紫雲だもん。
一応、すぐに渡せるように準備は済ませてあるから大丈夫ではあるけどな。
「いえ、お待ちになって。セツあれを」
「こちらです」
「ありがとう」
相変わらずの素早さでセツが紫雲への刺繍を持ってきてくれる。ほんと、めちゃくちゃ有能すぎてこれから先、セツが居なくなっちゃったら生きていけないんじゃないかと思うレベルだ。こんな優秀な人材を絶対に失う訳にはいかないので、給与とか待遇面は都度見直していかないといけないよな。
「さぁ、ご覧になって。お気に召すと良いのだけれど」
「素晴らしいよ!思っていた以上の出来映えだ!」
シスコンフィルターがかかっているので、だいぶ評価は甘いだろうがそれでも褒められるのは純粋に嬉しい。紫雲が依頼してきた図案は薄紫の布地に桃の華を囲むように雲が2つ浮かんでいるものだ。明らかに紫雲の妹好きぶりが反映された図案である。
水月さん指導の下作業を進め、約1週間で完成した力作だ。そしてこれは紫雲に送る初の刺繍作品なのだ。
感慨深げに刺繍の表面を優しく撫でる紫雲。
「一生大事にするね、桃華」
一通り刺繍を愛でたあと、紫雲は後ろに控えていた紫雲専属侍従のジョウから見事な桐箱を受け取って、それはそれは丁寧に刺繍のされた手巾をしまっていく。そうしてからジョウに桐箱を渡すと、桃華と雰囲気の似た、けれどもいくらかきりっとした瞳でこちらをじっと見つめてきた。見つめながらゆっくりと桃華の両手を包み込むように握ってくる。全然子供の年齢なのに顔が良すぎるからか、なんか凄い圧を感じる。
「お兄様?」
「本当にありがとう、桃華。僕のためにあんなに素晴らしい刺繍をしてくれて。僕だけのために!」
「気に入っていただけて良かったです」
「うん、それでね・・・次はね・・・」
興奮気味に感謝の言葉を述べる紫雲に、俺はにこっと言葉を返す。すると、また何かお願いをしたそうにモジモジし始める紫雲。こりゃあさっさと逃げないといけないな。
「はい、お兄様。ご用はお済みですね、さぁさぁお帰りください。セツ、お兄様をお見送りして。ジョウ、お兄様をよろしくね。お兄様、それではお休みなさいませ」
息継ぎせずに一言で言い切る。ジョウは短く一礼してから「まだ戻りたくないよぉ」とぐずる紫雲に「失礼します」と断りを入れてから、遠慮なしに抱き上げると部屋から出て行く。こちらに手を伸ばして「桃華ぁぁ」と叫ぶ紫雲を笑顔で見送りながら、いつもの定位置へと戻った。作業中の刺繍はセツの手によって、紫雲が来た瞬間に片付けられている。
「姫様、お休みになられますか」
本当は小休憩を挟んだ後に続きをするつもりだったのに。紫雲の襲来でなんだか気疲れしてしまった。明日も早くからいろいろと予定が詰まっている。なんというか凄い貴族の家庭の子供だからなのか、俺の子供時代とは大違い過ぎて毎日付いて行くのがやっとだ。趣味の刺繍は毎回万全の状態で楽しみたい。
よし、今日はもう寝よう。
「そうします、セツももう休んで」
「はい」
すでに用意されている寝台に入れば、三方向から蚊帳っぽい布が下ろされて、視界の隅にオレンジ色の淡い光だけを残して部屋が暗くなった。襖が閉まる音がしたので、寝室の前に寝ずの番を残してセツは隣の自室に行ったのだろう。寝台のすぐ横にあるちびテーブルには何かあったらすぐ鳴らす用の呼び鈴が置いてある。今まで1度も使ったことはないけど。
ぼーっと真上の天蓋を見つめていると、さっきの嬉しそうな紫雲の顔が一瞬浮かんだ。
あんなに喜んでもらえるなら作って良かったな。
また作ってやってもいいかもな。
でも今はいいかな。
そんな風に頭の中でいろいろ考えながら俺は眠りについた。
ここまでお読みくださり、ありがとうございます。少しでも楽しんでいただけたら幸いです。




