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鏡を失くした男たち

作者: 相木あづ

「いつも偉いわねえ」

 その若い男が、ガラス張りの自動ドアを抜けると、顔見知りの職員の女が声を掛けた。

 女はもう六十歳は超えていそうで、痩せ衰えてくすんだ顔に、褪せた茶色の髪が弱々しく載っている。今にも風で飛んでしまいそうだ。

 男は、はっきりと見るわけではなくただ彼女の目のあたりにオドオドと視線を走らせ、声にならない挨拶を口の中で転がし、逃げるように身体を向けた受付窓口で、いつものように脇に置かれた面会シートを記入する。シートの上でのたくる醜い文字が、不器用な男を嘲り笑っていた。

 それを受け取った窓口の女は、実の年齢は四十に近いが、脂肪で張り詰めた肌が彼女を実際以上に若く見せていた。顔の半分はマスクに隠され、彼女の感情を知る唯一の手掛かりは、大きな太い黒縁のメガネ拡大された目元だけだが、その眉間には、深い溝が刻まれていた。

 溝の原因は最近度が合わなくなってきた眼鏡なのだが、男はそのことを知る由もない。彼女の威圧感から逃れるように、身をひるがえすと、そこには、例の職員の女が、人懐こそうな笑顔を浮かべて待ち構えていた。男は助けを求めるように辺りを見回したが、どこを見ても、惚けて無邪気になったお年寄りと、それを猫なで声であやす若い職員たちがいるばかり。誰も彼もが、自分の世界と、自分の仕事とに一生懸命で、男の方など見てはいない。

 彼女は当然のように男の隣に並び、施設の廊下を歩き始めた。

「ここ二・三日、間が空いたでしょう。銀さん、首を長あくして、待っておられますよ」

 男の身の内側には、ざわざわとした怒りのような鈍い感情が湧き出したのだが、男はそれを飲み下した。

「・・・すみません」

「別に謝ることはないよ。あなただって忙しいでしょうから。私が言いたいのはね、久しぶりだから、銀さん、すごく喜ぶだろうって、ただそれだけですよ」

 扉の前までくると、彼女は小さな声で「しゃきっとしな! 青年!」と言って男の背中を叩いた。


「来たか」

 男が部屋に入ったとき、彼の祖父は、介護用ベッドの背中を起こし、何をするともなくただじっと窓の外を見つめていた。


 祖父が倒れたのはちょうど一年前のことで、夕食を食べた後テレビを見ながらうたた寝をして、それきり目を覚まさなかった。自分が布団に入る段になってやっと不審に思った祖母が救急車を呼び、真夜中に祖父は搬送された。

 翌日、病室で目を覚ました祖父は、いつもとまるで変わらない様子だった。それどころか、入れ替わり立ち替わり見知った顔が訪れるのが嬉しいらしく、見舞いに来た全員に、いつになく上機嫌に話し続けた。中には、数十年振りの友達などもいて、そういう見舞客を相手に、祖父は、庭に訪れる鳩のつがいの話、小さな畑を掘り返して荒らすモグラの話、抜いても抜いても生えてくる厄介な草の話、そういう話が尽きると、最後はテレビの情報番組の話をした。

「東京何とか大っちゅうとこの先生によるとな、洗剤なんかの泡は、つけすぎたらいかん。薄く延ばして塗るのがいいそうだ。あんまり厚く塗るとな、泡が自分の重さで割れて・・・」

 それきり、祖父は黙り込んだ。何も喋らなくなってしまった。その番組が救急搬送の直前に観ていたものだということは、後から知った。そして、それ以来、祖父は自分の脚で立てなくなった。


「来たか」

 そう言った祖父は、痩せ衰え、弱り、あの日の饒舌な姿からは程遠かった。しかし、その瞳だけはキラキラと輝き、生の喜びを享受することを、まだ諦めてはいない。

 男が部屋の隅の椅子に腰を下ろすと、祖父の瞳はいよいよ爛々と輝き出し、用意された言葉が口から溢れ出た。

「この前も話したかもしれんが・・・」



 ベルトコンベアに乗って、たくさんの箱が運ばれてくる。

 作業場には何人もの男たちがいて、全員がそれぞれの作業を黙々とこなしている。

 光のない虚ろな目。

 まず、最初の男たちは、脇に置かれた籠からぎゃあぎゃあ喚く何かを一掴み、空箱の中に押し込む。押し込まれた何かはぎゃあぎゃあと喚きながら、波打ち、のたうち、箱の外に出ようとする。箱の外に出て、この世の喜びの一切を吸収し、命を宿した身体となり、翼を生やして天に昇っていく。そんなことを夢見ているような気がした。

 しかし、そんなことは男たちには関係がない。

 次の男たちは、箱からあふれる部分を注意深く箱の中に押し戻し、素早く蓋を閉める。途端に喚き声は小さくなり、やがて完全に聞こえなくなる。その後の男たちが、箱をテープで念入りに密閉する。

 最後の男たちは、それを丁寧に、しかし、やはり機械的にピンクのかわいいリボンで飾り付ける。

 廊下を歩く小さな足音が近づく。男たちがにわかに色めきだす。



 男が祖父の部屋を訪ねると、祖父はいつもこの話をした。

 ほら、あれ。

 祖父は顔をしかめ、額に手を押し当てて、必死に思い出そうとする。

 何百回と繰り返された光景。祖父が次に言うことは決まり切っているのだけれど、男は黙って続きを待った。

 ただ水が流れるように無意味な二十数年を生きてきた若い男が、九十年近くの濃密な経験を刻んだ老体の、着実に衰えた耳と認知を打ち破ってその思考の流れを変えられるような力を持っているとは思えなかった。

 そう、裏山のあそこ、小林さんのとこの道をずっと上って行った先のあたりのとこに、穴があるだろ?

 男は小林さんなんて知らない。生まれついたときからほとんど引きこもりのような生活をしてきた男は、自分の地元のことすら正確に思い描くことができない。祖父の話と、脳裏に浮かぶ故郷の限られた断片を重ね合わせて、適当な風景を描き出すものの、それは全て間違いである。小林さんは半世紀以上前に亡くなり、その家族はそれぞれ遠くの都市に越して行った。家の跡地は小さな整骨院になっていて、男はその敷地に足を踏み入れたことすらない。

 しかし、男にとってそれはどうでもいいことだ。全ては知らないことで、知らなくていいことだ。大切なのは、祖父が話し続けること。その命の火を燃やし続けることだ。

 黙ってうなずく男を見て、納得したのかしないのか、祖父はさらに続ける。

 あの穴はな、みんな、ただの穴だと思っていた。タヌキか何かのねぐらだろうと。

 それはそれで間違っていなかったんだ。夜になると確かにタヌキの親子がちょこちょこ出入りしてかわいいっていう噂だった。

 まあ、私はあんなもん可愛いと思わんけどな。最近はそういう趣向の人間が・・・そうだ、うちにもいい写真があるぞ。どこにしまったかな・・・



 まだ若い女が見下す先に、それはいた。

 ヌラヌラと光る表面からは、心臓の拍動に合わせて、一定のリズムで血液が滲み出る。長い間溜まり続けた血液で、床はちょっとした泥沼のようになっている。

「おはよう」

 天から降り注ぐような、尊く可愛らしい女の声。

 それはゆっくりと立ち上がった。皮を剥がれた男の姿をしていた。

 男はゆらゆらと揺れながら、まっすぐに女の方へ歩いていく。女の直前で頑丈な鉄格子に阻まれたが、それでも、隙間から腕を伸ばし、その血を滴らせて、女の身体に触れようとする。しかし、その動きはどこか緩慢で、ある種の諦めを含んでいた。

 女は血にまみれた男の腕をそっと握った。

「愛してる」

 血が、女の足に落ちる。

 女は男の腕を注意深く鉄格子の中に戻し、血まみれで従順な男の姿はゆっくりと遠ざかる。


 かちゃり

 

 ドアノブの回るかすかな音。


 入って来た若い娘を、光を取り戻した男たちの視線が追いかける。

 娘は、男たちを見下ろし、姿勢を一切崩すことなく彼らの間をまっすぐに歩く。

 行きつく先にはリボンで飾られたたくさんの箱。

 娘はその一つ一つを指先で弄ぶ。

 男たちの視線がようやくギラギラと輝きだす。

 その輝きは、娘の頬に反射して、怪しい陰を映しだす。



 外には、敵兵がいて、穴の奥にはあれが


 ぶわあっと


 そう言って、祖父は身体を震わせた。

 聴いていた男の足先から、不快なざわめきが全身を駆け抜けた。まるで、あれの大群が登ってきたかのように。

「・・・それは、嫌だね」

 絞り出した男の声が、衰えた祖父の耳に届いたかどうかわからない。祖父はただ、澄んだ瞳で男を見つめていた。

「お前、誰だ?」

 祖父が言った。

 男は、答えるべき言葉を持ち合わせていない。不安げに漂わせる視線は、結局何にもすがることができず、じっと無垢にきらめく祖父の瞳を見つめ返す。


 へっ


 本当だよ。冗談じゃなく、一瞬だけ、知らない人に見えた。

 サチは、穴の奥で、人形を抱きしめていた。サチの脚には、あれがびっしりついていて、いくら取っても取っても、きりがない。

 あれは、穴の奥から湧いてくるんだ。穴の奥から湧いてきて、衰弱した妹の脚に飛びつきやがる。



 空き箱の間から伸ばされる無数の手。娘は、その一つ一つに慈しむように触れる。

 男たちはその指先に伝わる柔らかなぬくもりを、一生に何度受け取れるかという幸せであると心得て、その幸せに全身を震わせながら、遠ざかる娘の背中を恍惚とした表情で見送る。


 がちゃり


 ドアノブの回る音。


 皮を剥がれた無防備な身体に、すきま風は痛すぎた。

 鋭いナイフに刺されたような、深くて、重くて、鋭い痛み。

「おはよう」

 天使の声。

 どくどくどく

 心拍数が増すのを感じる。遮るものの無い血液は、身体のあちこちからほとばしり、皮を剥がれた男は、その身が滅んでいくことを受け入れながら、声の方へ進んで行く。



・・・


 男は、窓の外を見ていた。

 窓枠に囲われた景色は、大部分を隣の棟の白い外壁が占めていて、アスファルトの黒と芝生の緑、くすんだ空の青が少しばかり入り込んでいた。


・・・


 男は、訪れた沈黙に未だ気づいていない。

 男の身体は介護施設のくすんだ椅子に乗ってはいるものの、彼の意識は、ずっと遠くにある。幻影の中で、彼は必死に箱詰め作業に追われている。

 指先の熱と、天使の後ろ姿。

 祖父の死んだ妹の話。

 祖父は戦争で妹を亡くした。敵兵から逃れるために入り込んだ地下壕のなかで、何らかの感染症に冒され、衰弱し、死んでいった。

 その祖父は、今、着実に死へ向かう床の上にいる。

 何も無いこの部屋で、毎日死神の近づく足音を聞いている。

 かつて妹を奪い、自らは辛うじて逃げ出したものの、やはり完全に逃げ切ることはできない足音。


 祖父の見つめる視線に気づいて、ようやく男は沈黙の到来を知った。


 祖父は、まだ若い孫の瞳の奥の黒々とした深みを覗きながら、死神の足音を聞いている。

 脳裏をよぎるのは、天使の笑顔、声、おぼろげな後ろ姿。

 男は、すべてを、祖父に打ち明けてしまおうかと思った。

 しかし、


 ・・・じゃあ、またね


 視線を外した孫の横顔。瞳の奥に閉じ込められていた暗闇が、うっすらとそのすべてを覆い始めたことに、もはや一世紀近く生きてきた祖父は、驚きはしない。

 孫の将来を憂いつつ、死んだ妹のことを考える。


「あなた、本当にまた来なさいね」

 祖父の部屋を出ると、待ち構えていた例の職員が男の背中を叩く。

 その明るさが、男には眩しすぎた。


 心に鈍い痛みを感じながら、男は電車に揺られ、雑多な人々の行き交う都心の交差点の上を、孤独を噛み締めながら、早足で歩く。

 やはり同じような暗さを抱えた男たちは、それぞれに色とりどりのにぎやかな衣装に身を包み、寒さと痛みに耐えながら、意識的に陽気な会話をしている。

 その最後尾に加わった一人の男に、誰も気がつかない。

 やがて時間になって、ベルトコンベアに乗った空き箱が絶え間なく流れてくる。

 男たちが、黙々と箱に詰めるのは、もっとも醜く、もっとも美しい何かであり、彼らは、それを天使に捧げるのだ。

 男たちはみんな、彼女の足音を待ち、声を待ち、ぬくもりを待つ。

 鏡を失くした醜い男たちは


 






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