第六十五話 記憶の中のあの場所
「わかった」
とだけエグリゴリは言って俺たちは延長コードを回収してバッグに戻すなどして二人で片付けを始めた。
それが終わるとタラップを登り、すでに開いているドアの奥へ入ってドアを閉めた。
そして気密扉を抜けて船外作業員待機室で俺が宇宙服を脱いでいるときだった。
「……なんだよ。早く帰れよ」
俺が悪戦苦闘しているのをあざ笑う気かのように俺が宇宙服を脱いでるそばからエグリゴリが離れる気配がない。
「私に命令するな。役目は果たした。あとはお前たち次第だ」
「わかったよ、もうお前には頼まん。先に帰っていろよって言ってるだろ?」
「お前は私のどこを愛しているのだ?」
どうやらこれが本当に言いたかったことなのだが、俺のことを十五分ぐらいの間ずっと見ていたのはそれまで言い出せなかったかららしい。
何を言うのが正解なのかわからないので俺は諦めて本音を言うことにした。
「俺が愛してると言って、お前も愛してると言えばそれで契約は完了だ。
俺はお前の、意外に優しくて面倒見のいいところが好きだが……それだと優しければ誰でも好きってことにならないか?」
「なる……のか?」
「俺はお前の優しいところを愛しているが、別にお前は俺の好きなところとか言わないでもいいぞ」
「私がお前を好きなのが前提になっているようだが」
「明確に拒否しない限り俺は肯定と捉えるが?」
「……」
エグリゴリは特にそれに対して何もいわなかった。嫌そうな顔をしてこっちを見るばかりだ。
その顔は特に気にせず、俺は宇宙服を脱ぎながらこう言った。
「結婚って知ってるだろ?」
「いや……」
「じゃあ教えてやる。人間は結婚する。書類を書いて役所に提出したら、あとはこんな風に約束の品を身に着ける」
と言って俺はその辺にあったナットをエグリゴリの左の薬指に通した。
エグリゴリは首をかしげながら、そこを突かれると非常に弱いという核心部分をついてきた。
「それに何の意味があるのだ。強制力があるのか?」
「……実を言うとない」
昔のカトリックの考え方では離婚はあり得ないことだった。
そのため、敬虔なカトリック教徒がどうしても離婚したい場合は結婚したこと自体を最初からなかったことにするという強引な方法をとっていたという。
そうでない宗派の場合は残念ながら結婚に強制力はない。
第一、強制力があろうとなかろうと、互いの努力がなければ結婚生活が破綻するのは結婚したことのない俺でも容易にわかる。
というか、エグリゴリでさえそれはわかっている。俺は正直苦しい立場だ。
ディベート大会であれば結婚擁護派になど回らなかっただろう。
案の定エグリゴリはより一層不思議そうに首をかしげ続ける。
「不合理だ。人間とはかくも無意味なことをするのだな。お前は私と結婚をしたいのか?」
「ああ。ノイトラ王国では役所にその旨を書いて提出すれば受理され、正式に結婚となる。
エグリゴリ、よく結婚記念日と人は言うが、本当の結婚記念日はいつだと思う?
プロポーズをしたときか。結婚式をしたときか。役所に書類を届け、受理されたときか?」
「知らん」
「きっとどれでもない。何故なら結婚とは『いつ始まったか』などより『いつ終わったか』のほうが重要だからな」
死がふたりを分かつまでとはよく言うが、それが百点だとすると、世の中の恐らく大半の夫婦はそれ以下だろう。
不思議そうに俺を見つめるエグリゴリに俺は続ける。
「俺とお前の関係が今は他人だとして、どこかの時点では結婚関係になってるかもしれない。
問題はいつ始まったかよりいつ終わるかだ。俺はお前を愛してるって言ったよな。
だからお前が俺に愛してるって言った時から俺たちの関係は始まる。
だが、お前の言う通りそれを区別する必要はないのかもしれない。
ああ、そうだ。悪い。今気づいたんだが、一つ重要なことを忘れてた!」
「何の話だ?」
「結婚とはつまり、ほかの人とは結婚しないと約束することなんだ。
俺はお前以外の誰とも結婚しない。それは約束する。
お前もそう約束したなら、愛してると言わなくたって契約は完了だ」
問題はいつ始まったかよりいつ終わるかだ。俺の言葉は今は効力を持たない。
もっと時間が経って本当にエグリゴリ以外の誰とも結婚しないことが示されて初めて信用に値する。
何度も言うが、始まりは重要じゃなく最後が重要なんだ。
「私がお前以外の人間と結婚することがないのは確実な未来だ」
と面倒くさそうにエグリゴリが鉄面皮で言った。
まあ、それがつまり俺と結婚するという意味ではないことは俺も理解している。
だがこれ以上グイグイ行くとエグリゴリのキャパシティがオーバーして俺をうっとうしがるかもしれないし、エースにも積極的すぎだと怒られるかもしれない。
だからそろそろ宇宙服も脱ぎ終わったし、会話は切り上げることにした。
「いっぱい喋り過ぎて悪かった。俺はお前のこととなるとつい夢中になってしまう」
「これをベンツに渡しておけ。メンテナンスをさせろ。私は部屋で寝る」
「ああ」
俺はレベル8の銃を受け取り、宇宙服片手に操縦席へ必死こいて戻った。
宇宙服は重いのだ。それを階段を昇って三階の一番奥の方の操縦席までもっていくのは相当な重労働だった。
しかしベンツはアンリなどと並び、エグリゴリに名前を憶えられてる数少ない人物の一人だ。
それだけ重要な存在である。俺だけが毛嫌いしていてもしょうがないので、次に会うときはにこやかに接しようと心に決めて俺は廊下を歩いてくのだった。
「あっ、博士。宇宙服と銃をメンテしといてくれ」
「ああ、あとでやっとく。リリス、パパと一緒に元に戻してきなさい」
「はーい博士」
博士のラボは三階にあった。移動距離が短いのは幸いだったので二人でラボに荷物を預け、俺はようやっと部屋に戻ることが出来た。
実を言うと部屋に戻ってベッドに寝転がったとたん俺はふと思った。ハラが減ったと。
さっき充電にエネルギーを使ったのと船外作業と宇宙服の運搬が思ったよりも体力を消耗させていた。
ちょっと汗をかいたので軽くシャワーを浴びてから汗でぬれた洗濯物をカゴに詰めて俺は外に出た。
洗濯物は各階にある洗濯機で洗うことになっており、これはノイトラ牧場に元々あったのをコピーしてきたものだ。
ベンツの発明品ではない。
だが非常に高性能で、洗剤らしきものは必要としないのに何故か入れた洗濯物はどんなに汚れていても乾いていてふわふわでいい匂いがする状態で出てくる。
洗濯物を預けた後は一階レストランへ。レストランでは食堂よりいいものが提供されている。
レストランへ行ってみると親父が酒を飲んでいてちょっと絡まれたが俺は無視した。
席に座ってメニューを見ると、"VIPメニュー"とだけ書かれたコース料理を見つけ、もうこれしかないと俺は見た瞬間に決めた。
「おっ、これにしよう」
俺がシェフのエリザベスに注文をして料理が出てくるのを待っているときだった。
放送設備から例によってエースの声でアナウンスが流れた。
「こちら操縦室。これより百二十時間かけて目的地への進行を開始します。重力の揺れにご注意ください」
その後はいつも通り、爆音とともにアンカーが発射され、それとともに船体そのものがぐらりと揺れて姿勢が変化した。
厨房はそれに対応できるようキッチンを三つ持っているので料理に問題はなかった。
やはり客の中でも俺は一番のVIPであるからして、シェフ自らが出来た料理を、しかも新作コースを次々と出してくれた。
「どうぞ王様。名前の通り、私が王様を思って開発した王様のためだけの特別コースです!」
「ありがとう。いただきまーす」
まず出てきたのは前菜だ。クルトンと野菜とナッツ類がたくさん入ったサラダである。
養魚場で海藻も育てているのか、サラダには海藻も入っている。俺は美人モデルにでもなったような気持ちでサラダに手を付けた。
次にやはりこれもアーモンドを使った料理で、パンの上にナッツを粗めに砕いたものを乗せた料理だ。
そしてその中身――日本人風に言えば"あん"――が大切なわけだが、あんも一風変わっていた。
ナッツ類には非常にたくさんの油分が含まれていて普通に潰して練るだけでもねっとりと濃厚なペーストが出来る。
このペーストを恐らく塗りたくられてるのがトルティーヤのようなもので、つまりコーンの粉で作ったチップスのようなものだった。
それらと一緒ににトマトのジュレ、そしてカマンベールっぽいチーズが入っていた。外の生地はもっちり、あんはサクッ、時折ナッツのボリボリ感もある。
そして何よりナッツペーストとチーズがねっとりと口の中を覆いつくし、最後にトマトの酸味がすべてをまとめ上げてくれる。
とにかく食感が忙しいほどに多様で味はそれほどしつこくもなく主張も激しくないし、肉も使ってないのだが、激しく美味い。
目まいがするほど美味しかった。メインディッシュなんかいらないからこれだけ食べていたいぐらい美味しい。
味や食感だけでなく香りもいい。ナッツの香ばしさは言うまでもなくトウモロコシ粉を使ったチップスの独特な香りが忘れられない味だった。
これだけでも十分満足してしまった。そのせいもあってか、次に一気に運ばれてきたメインディッシュ、スープ、デザートはボリューム控えめになっていた。
メインディッシュは白身魚のフライなのだが、なんと衣に粗びきのナッツを使っていた。
それとポテトフライがセットになっていて、付け合わせには酸味の利いたタルタル風ソースを添えて。
どこかの島国の伝統料理のようである。ナッツの衣であげた白身フライは気を失うかと思うほど美味かった。
味付け自体は薄いのに皿が運ばれてくる前から香ってくる香ばしい衣の香りと、白身魚特有のたんぱくながら旨味のある肉汁が口の中に広がって、もし人前でなければ声を上げて悶えていたくらいだが、ここは我慢した。
スープは魚のアラと貝柱などでダシを取っていて、多少ふやけたクルトンが浮いているのだが、これが抜群に美味い。
これでラーメンでも作ったら美味すぎて失神するのではないかと思われるほどだ。
最後は案の定マジパン。アーモンドの粉を使ったお菓子で、卵や生クリーム、バターを使わずにデザートとしてこれまでのコースを締めくくるだけの実力があった。
もしエリザベスが本気を出したら甘くて美味しいデザートで脳を焼き尽くし、全人類を糖尿病に出来るのではないかと本気で疑う。
「美味しかった。エリザベス、あのほら、オードブルで出てきたパンの料理持ち帰りできる?」
「もちろん。ですがゴミを出さないように博士から言われてますからね。
こぼさないでくださいよ。トレイや包み紙は後で返してくださいね王様」
「わかった! エリーの愛情が伝わってきた。ほぼすべての料理にナッツやアーモンドが使われてたな」
「はい。でも案外王様以外の人にも好評なんですよ」
「そりゃそうだ。君を選んだ俺の目に間違いはなかった。世界一の料理人は君だ!」
俺はVIPとはいえお金はちゃんと払う。エリザべスを指さして大声でほめたたえた後、代金を払って店を出た。
そしてパンを入れた紙袋片手に操縦席へ戻った。百時間以上の作業をするということだが、それは一人でもできる。
別に要請されたわけではないが俺も手伝ってやろうと思い戻ったのだが、やっぱりそこにリリスがいた。
「よう博士。リリスは操縦できるのか?」
「それはもちろん。イザベルちゃんや君の予備としての機能のほかに、もちろん私の予備としての機能も必要だからね」
「二歳児に向かって機能はないだろ機能は。まあアンタに説教しても意味ないのは知ってるけどな」
案の定リリスは博士の暴言を気にも留める様子がない。俺は続ける。
「ほら、ちょうど二つ買ってきたから分け合うといい」
と言って俺は紙袋を博士に見せた。中にはパンが二つ入っている。
「いい香りがするね。レストランでテイクアウトしてきたのかね?」
「美味しそうだねパパ。私はあんまりお腹空いてないけど」
「ああ。じゃあ俺はあとで行くところあるから、今から三時間したら俺と操縦を交代しよう」
「行くところ? リリスもついていかせていいかな?」
「別にいいけど……日サロだぞ」
「ひさろぉ!?」
エースもベンツも眼鏡がずれるほど驚いていた。
「いや、建設しろとは言われたけどさぁ……まさか君も利用するとは」
「全然イメージないけどね……」
「俺が日サロ行ったら悪いかよ。健康上の理由で三十分くらいだけな。リリスもいくか?
子どもは日光浴びた方が大きくなるんだぞ。多分」
「私の頭の中の辞書に"ひさろ"という言葉はないんだけど……?」
「まあいい。リリスは娯楽室でウノでもやってなさい。じゃあな」
俺は日サロなんて行くのは初めてだが、なんてことはない。元三階居住区だったところにそれはある。
担当者はいなかったし、俺以外に利用者はいなかった。そもそも日サロという概念自体俺以外はみんな誰も知らないからな。
俺は貸し切り状態で日焼けサロンで肌を焼きながら寝た。腕時計は外していたので改めて付け直して確認すると寝たのは三十分くらいのつもりが一時間半ぐらいだった。
そこから一時間半、リリスたちと娯楽室でカードゲームに興じて時間を潰した俺は約束の時間になったので操縦席へ戻り、約束通り博士から操縦を代わった。
「エース、あと三時間したらエース頼む。エースが三時間操縦したらリリスに代わってくれ」
「トーマに代わるのはいいけど、リリスだけに任せてたらアレだから、博士の番になったら私も休むことにするわ」
「悪いエース。そうしてくれると助かるよ」
こうして俺たちはローテーションで操縦席へ座り、延々と同じ単調作業を繰り返していくこととなった。
計器を確認し、エネルギー残量をチェックする。まさか故障することはないと思うが、船員たちがちゃんとシフト通りエネルギーを充填してくれているかの確認だ。
アンカーの巻き取りと尻からのジェット噴射は別に自動操縦なので俺がやるべきことはほとんどない。
だがウィンチとアンカーの射出や射角調整などは俺の仕事だ。これが一時間に一度あるだけである。
単純計算で百二十階層を登った先に何があるのか。それは百二十時間後に明らかとなる。
エースはともかく俺と博士はローテーション的に九時間もの自由時間が出来るので二人して六時間寝て三時間船を保守点検。
その後三時間働いてまた寝てを繰り返した。単調な五日間を潤してくれたのはやっぱりエリザベスの作ってくれる差し入れだった。
ある時はチョコとアーモンドをふんだんに使った菓子パンを、ある時はふわふわのサンドイッチを。
これがあったから頑張れた。その時は突然訪れた。俺が空気清浄室の点検をしているときであった。
突然放送設備からアナウンスが流れ始めた。
「皆さん。まもなく第一目的地へ到着いたします。五分以内にシートベルトを締め、食べ物の皿や荷物を片付けておいてください」
「第一目的地……だと」
第一目的地。光の漏れる場所。俺がそのことについて頭を巡らせているとリリスが空気清浄室にやってきた。
「どうもパパ。へえ、ここの中はこうなってるんだねぇ……」
「ここに来るのは初めてかリリス?」
「うん。私、植物って初めて見る」
「動物も見たことないんじゃないか?」
「うん、人間以外には。この植物……食べたりしないよね?」
「何言ってるんだ。食べなきゃ植物を育てる意味がないだろ?」
「そうじゃなくて、噛みついてきたりしないよね?」
「う、うーんそうか。まあ大丈夫だ」
植物には人間を殺すほどの毒を持っている者も少なくないが、さすがに人間を食う植物はいないはずである。
「それより早くここを出るぞ。俺の部屋に来い」
俺はリリスを引っ張って行って自室に招き入れ、自室に設置されている対重力用シートベルトでリリスを固定させた。
俺もその横にある予備のシートベルトを締め、時を待った。部屋が回転し、アナウンスが流れた。
「当機は第一目的地へ到着しました。トーマ様、操縦席へお越しください」
「はいはい。じゃあ行くか」
俺は悪戦苦闘しているリリスのシートベルトを外してやり、一緒に部屋の外へ出た。
操縦席からはもうすでにまばゆい光が差し込んでいる。
「エース、これはあんたの記憶にあったあそこか?」
と開口一番に俺は聞いた。エースの記憶によれば、まずデカい縦穴があって、その縦穴の途中に橋が架かっている。
その橋の下を見ると下から明るい光が漏れていて、下にデカイエネルギー炉みたいなものがあるはずなのだ。
エースの記憶で見たエネルギー炉こそ、この階層から見えるそれにほぼ間違いないだろう。
「間違いないわ。これは私が見た……実際この階層からはずいぶん今までと違っているわね」
「それよりすまないがやることがある。穴を修復するぞ」
と言って博士はエースに船外作業を命じた。緊急性があるときはエースにやってもらうことになっている。
力持ちだし頑丈で宇宙服を着脱する時間も必要ないからな。
さいわいこの階層は極めて広大なため空気漏れは大したことはなく、気圧も一気圧並みにあった。
エースが床を修復したあと博士はまだエースを中には入れずに計器を睨みながら俺たちに説明した。
「見ての通りあのエネルギー炉みたいなのが存在するので外気の温度は十五度だ。ギリギリ半袖で過ごせるぐらいの気温だね」
「そうか……空気もあるようだが、しかしそれとは別に問題があるじゃないか博士」
「ああ。エース君の言っていた災厄とウィルスだ。そのリスクがどの程度あるか我々には評価することが出来ない」
言われてみれば、空気のないところにウィルスはさすがに居ないだろう。
だがここは温かくて空気もある。
「どうしたらいい。手っ取り早い方法は……やはり……人体実験か?」
簡単だ。半袖で過ごせる程度の気温ならば半袖の乗組員を一人、エースのそばに送ってやればいい。
そいつは死ぬかもしれないが、死んだのなら収穫は上々だ。エースとそいつを二度と船に入れなければいい。
言うまでもなくそれは論外というやつだ。
「なら私が行ってくるしかないよね」
「おいリリス、今回は許すが次はいくらお前でも許さないぞ」
ふざけたことを言う横のリリスに、俺はほとんど初めてと言ってもいいくらい厳しい顔を向けた。
絶対に許せない。リリスにそれを許したら俺はベンツとエースと、何より俺自身を二度と許せなくなる。
「船の外に人を送り出すべきって言ったのはパパでしょ?」
「当然誰も出さない。そう死に急ぐんじゃない。まだお前は二歳だろ?」
「二歳二歳言わないで。私はこのために作られた。だから……」
「それなら俺が行く。お前は俺のスペアなんだろ。俺がいなくなったら王の役目を果たせ」
「何言ってるの!? 博士もなんか言ってよ!」
「いや……この状況でそこまで冷静に合理的な判断を下せることに驚いている。
トーマ君。私は君に酷いことばかりしてきた。私から言えることは何もない。
何を言っても白々しくなるだけだ。だが二人とも、少しだけ待ってくれるか?」
「どうした?」
「今この階層を調べているのだが、面白いことがわかったぞ。測定不能なほど天井が高い。
一千や二千メートルごときではないということだ。そして重力もちょっと強い」
「つまり?」
「まあ詳しい話を抜きにして要点だけ言うが、エースさんはここにかつて来たことがあるということだろう?
で、その彼女はどこかでイブという女の子の遺伝子が保存されているパックのようなものを見つけた。
で、人工子宮でこれを育て、スフィアに持ってきたというわけだが、これはエースさんが何かに感染していたとすると辻褄が合わない」
「それは確かにな。"災厄"ってやつはあくまで古い話なのか……?」
とはいえ、機械のエースに感染できないのは当たり前だ。生身の人間が外へ出ることは許されない。
「リリス、行ってきなさい。ただし一週間だ」
「おい博士、何を言ってる?」
「一週間外に出て活動するんだ。大丈夫だったら私が真っ先に外へ出ようではないか。
私は今更命が惜しいわけではない。だけど確認にはリリスが適任だ」
「行ってきます!」
「待て、どこへも行くな!」
俺はリリスが怖がることも構わずその腕を強引につかんで引き戻した。
操縦席での議論はさらに感情の熱を帯びていく。
「エースを中に入れても大丈夫ということはわかった。だがリリスは外に出せない。この子は俺の娘だ!」
「だがトーマ君、ここの重要性はもう気が付いているんだろう?」
「博士……!」
ベンツは頭が切れる。切れすぎる。俺程度でも気づいていることに気が付いていないはずはない。
「ここはどういう場所なのか。恐らくスフィアの前身、あるいは実験場とでも言ったところだろう。
あのエネルギー炉のようなもの……人工太陽だろう。
それがあるということは近くにノイトラがいるはずだ。君はそれを解放する義務があるのだったね」
「博士、俺は……!」
俺が言いかけた時だった。リリスが俺の手を放した。その手はすぐに自分の眼もとに持っていかれた。
泣いていた。俺が怖がらせて泣かせてしまったのだったら俺は後悔してもしきれない。
「悪いリリス。大声を出しちゃったけど怖がらせるつもりじゃ……」
「嬉しくて泣いてるの。怖い。初めて。こんな気持ち」
「とにかく、外へ行く役目は当然俺がやる。リリスはそこにいろ。危険に自ら飛び込むな。
これは俺から王として命令するからな。絶対聞くんだぞ」
「ありがとう。もう悔いはない」
「は?」
一瞬虚をつかれて俺はリリスの逃走を許してしまい、放心状態になった。
リリスの命令が俺に効かないように、俺の命令もリリスに効かない。
そうだ。今までパパと呼ぶなと言ってもやめなかったし。
ニンジンを食べたのだって俺に食べなさいと言われたから渋々食べたのに過ぎなかったのだろう。
俺だってこんな気持ちは初めてだった。気が付いたら体が勝手に走っていた。
俺はエグリゴリに愛してると言っていたが、リリスに対するこの気持ちも愛してると同じだろう。
正確に言えば愛おしい。大好きだ。どんな犠牲を払っても危険から守ってあげたい。
しかし虚を突かれ、放心状態になったスキのせいでリリスは俺の視界に入れるのが精いっぱいだった。
全く予想外だった。俺の命令は彼女に効くとばかり思っていたから。
「まて、待ってくれリリス!」
「命令は効かないから!」
俺たちの追いかけっこは俺の大敗北で幕を閉じた。半透明な気密扉内で待機しているリリスに駆け寄った俺。
リリスを脅かすのもかまわず、扉に張り付いて大声を張り上げた。
「入れてくれ、おい!」
「パパ……」
バンバンと半透明の扉を叩くと思ったより早くリリスは俺を中に入れてくれた。
気密扉で中は非常に狭くなっているので二人で中に入った俺たちはかなり密着している。
俺はその中で彼女を抱きしめた。体が勝手に動いていた。
「こんな生き方しか教わってこなかったから……」
そんな言い訳は知らない。俺はこの子を何があっても守らなければいけなかった。
「娘だけあって、リリスは俺に似ている」
と俺が言ったのは俺もリリスと一緒で愛情をふんだんに注いでくる相手からは逃げたくなる性格だからだ。
怖い。失いたくない。いっそのことその相手から逃げたくなる。具体的な言明は避けるが俺もその人から逃げている。
逃げて逃げてここまで来たほどだ。その人は会った時から惜しみない愛情を注いでくれて俺も大好きで、だからこそその人を失うのは怖かった。
俺の選んだのはその人を完全に意識から消し、近況も知らず、故に記憶の中の美しいままでその人を留める道だった。
「怖がらせて悪かった。リリスは自分に出来ることをみんなにしてあげたかっただけなんだよな。
わかってやれなくてごめん。もう無理やり止めたりはしない」
「じゃあ一緒に来てくれる?」
「言っただろ。ずっと君のそばにいるって」
俺たちは生身のまま、宇宙服も着用せずに外へ出た。そしてリリスと目を見合わせ、同時に空気を目いっぱい肺に吸い込んだ。
「ごっほ! ごほ!」
俺たちはいっせいに涙が出るほどむせた。かっこ悪い。
「空気が乾ききってる!」
多分湿度ゼロパーセントである。乾ききった大地と空気、それも悪くない。
だがバツが悪いことに、俺たちは何も持たずにてぶらで出てきてしまったのだった。
「あのさあエース、悪いんだけど中からバイクと水と食料、適当に持ってきてくれない?」
「ああ、あのバイク。久しぶりに乗るよねトーマ。ていうか私戻ってもいいの?」
「戻って持ってきてくれ。博士も入れてくれるはずだ」
「わかった。食料は例のやつでいいよね」
「例のやつでいい」
その後船に入って戻ってきたエースは注文通りに倉庫にあったバイクを押しながら、その肩には食料と水の入ったリュックをかけていた。
それらを受け取った俺はバイクにまたがり、ノーヘルのリリスを後ろに乗せた。
「思い出すなぁ。イザベルって女の子を後ろに乗せて走ったことがるんだ」
「それって……?」
「リリスとは血のつながった親戚だ。だから思い出すって言ったんだ」
「そういえばそのバイク、私は乗った覚えないんだけど誰のバイクなんだろうね?」
俺はそう言ったエースに鋭くこう返した。
「エースが知らないんだから知るわけねーよ。ともかくエース、ご苦労だった。
結果的にエースを先に出した博士の判断に間違いはなかった。
俺はこれからこいつで周辺を探索する」
「わかったわ。ノイトラがいたら見つけて助けてあげてね」




