分家・平凶兆庵 (ぶんけ・たいらのきょうちょうあん)
問わねばなるまい。
「弟よ、少々尋ねたいことがあるのだが、構わないだろうか」
今ここに問題がある。
これは、人によっては些事として金曜のゴミにでも出してしまう程度のものかもしれない。なにしろ人の主観は様々だ。恐らくだが、物事のとらえ方が同一の人間などは、この世に二人と居ないだろう。しかし、だからこそ、むしろ人によっては逆に、これが極めて重大な事件だと判断する事もあるはずだ。
この私がそうであるように。
「何でしょうか。僕に答えられる事だといいのですが」
弟は定番の無表情で淡々と答えを返してくる。
これは平静を装っているのか、それとも真に平静なのか。それを見ただけで判断するのは例え両親であっても不可能だろう。
「安心しろ、なにも難しいことはない」
さて、どう切り出すべきか、と考えながら頭の中を整理する。続いて、整理した情報を基に慎重に言葉を組み上げる。最後に、組み上がった言葉の構造に問題がないか吟味した。
逡巡の合間に、無言の時間が流れていく。
ゆっくりと息を吸い込んだ。
重力の影響によって最適な位置から外れゆく眼鏡を直し、言葉を続ける。
「まずは、これだ。ここに皿が置いてあるのが見えるか」
「はい、よく見えます。これは備前焼の皿です」
目前の食卓に唯一置かれているのは、若干白みのかかった茶色の平皿だ。なにも特別なことはない。
必要なのは、一点の訂正だけだ。
「これは備前ではない。信楽だ」
「そうだったのですね。勉強になります」
素直な返答を貰い、思わず目を細めた。
見る。
この皿は、数年前に母が遠縁の窯元から買って来たものだ。確か、母が食器の収集に明け暮れていた頃に求めた物の一つだったと思う。
私は皿の良し悪しになど興味はない、しかしそれでもこの皿は「そこそこ良いもの」のように見えた。
いや、本題はそこではない。いい加減本題に入ろう。
「問題は、この皿の上に乗せてあったはずの物についてだ」
「この皿の上に、乗せてあった……?」
今日はいつもより重力が強いのだろうか。遥かなる大地に向かって力強く引かれていくこの眼鏡を、渾身の人差し指で抑えながら更に続ける。
「大通りにある、分家・平凶兆庵は知っているな」
「はい、地元が誇る和菓子の老舗ですよね。あの店の羊羹は絶品です」
弟が羊羹のくだりを語った時、その目が僅かに見開かれ、一瞬だけ瞳の奥がキラリと輝いた。それは四六時中無表情な弟にあって劇的な感情の発現だった。
この表情の意味するところは何なのか。いや、弟の気持ちはわからなくもない。ごく、単純な話だ。あの店の羊羹はうまいのだ。豊かな小豆の香りと、砂糖特有のえぐみが綺麗に取り除かれた上品さ。そして、羊羹だというのに柔らかく、口に入れると程良い弾力を残しながらもふわりと広がり、嚥下した後には爽やかな甘みが舌先に残るあの感触は至福以外の何物でもない。
あの羊羹の事を思い起こせば、流石の弟ですら相好が崩れるのも仕方ないだろう。
そして相好が崩れた今、恐らくは今なら心に隙ができているはずだ。ここで畳みかけるべきだろう。
「その、分家・平凶兆庵の羊羹が二切れ、この皿の上に置いてあったはずなのだ」
弟からハッと息を飲む音が聞こえた。
「しかもただの羊羹ではない。今春限定、生産量は極めて少量、売り切れ御免早い者勝ちの『明神桜の羊羹』だ」
今日のために、発売日である昨日は午後の授業を自粛してまで買いに走ったのだ。
さて、弟の好物たる羊羮であり、かつ特別限定品が存在した事を知ってどんな反応があるかと横目で伺う。すると、これまでに無いレベルで目を見開いた弟の顔があった。
「桜の木の……羊羮? 兄、それはいったいどういう物なのですか?」
柄にもなく詰め寄ってきた弟を押し止める。
「まぁ落ち着け」
まさかあの万年無表情の弟がこれ程感情を顕にするとは。恐るべしは分家・平凶兆庵か。
「商品の説明文にはこう書いてある」
畳んでポケットに入れていたチラシを広げながら告げると、弟はごくりとつばを飲み込んだ。
「朽城山神社に古くから咲き誇る明神桜に、去年の冬、十年ぶりとなる剪定が行われました。この時切り取られた小枝は貴重なもので、ただ捨ててしまうには余りにも勿体無く、おそれ多いものでした。そこで私たち分家・平凶兆庵は、この明神桜の小枝を使って羊羮を作ることにしました。職人の手によって滑らかにこされた餡に、瀬戸の淡塩でしっとりと漬け込んだ明神桜の花弁、それらを逢わせて作った羊羮を明神桜の小枝で燻しました。すると、口に含めばさらりほどける餡と鮮やかな花弁の風味、それを桜の香りが春の風となってふわりと包み込む絶品の羊羮ができました。小さな春を是非ともご賞味ください。原材料が限られるため少量の限定生産となります。そのため一名様につき二切れまでの販売とさせていただきますが、ご容赦下さい。……とのことだ」
チラシに書かれた売り口上を読み上げると、弟が食い付くように迫ってきた。
「兄! その明神桜の羊羮はどこにあるのですか!」
再び詰め寄ってきた弟を押し止める。
「うろたえるな! 落ち着け!」
その目を大きく見開き、眉尻を上げた必死の形相だ。鉄仮面と評されたことすらあるこの弟が、まさかこれ程感情を顕にするとは、まことに恐るべしは分家・平凶兆庵か。
しかし、困った。この反応を見るに明らかだろう。弟は犯人ではない。
こうなっては仕切り直しとする他ないだろう。
-/-
「兄、いくつか確認させてください」
弟が落ち着くのを待って状況を説明したところ、そう切り返された。説明に何か不備があったろうか。
不明だが、ひとまず聞いてみることにした。
「兄がここに羊羮を置いたのは今からおよそ三十分前、つまり午前九時頃、その後、兄は十分程席をはずしたそうですね……。この十分間はいったい何をしていたのですか?」
敢えて明言しなかった部分に的確に切り込んできた。少々ビロウな話のため先程は説明しなかったのだが、問われてしまったのならば仕方がない。
「ああ、間の悪いことに少々腹を下してな、二階の便所で花を摘んでいたのだ」
「中途半端に言葉を濁すのはやめてくれませんか」
弟の眉根がわずかに下がった。本当にごくわずかな変化なのだが、この反応から判断するに、そこそこ不快に感じているようだ。悪いことをしてしまった。
「半端な受け答えをしてすまなかった。改めて明言しよう。慢性の便秘ゆえのピーゴロゴロでな。寝起きから何度も便所に通っていたのだが、あの時についに腹痛の根源たる下痢べ」
「濁してください!」
どうも今日の弟は表情が豊かだ。普段からこの調子であれば鉄仮面などと呼ばれずに済んだろう。
「ええと、ともかく、午前九時から十分間席を外して、その後戻ってきたら羊羹が無くなっていた、という事でいいですね。合っていますか?」
「うむ、問題ない。合っている」
考えるまでも無く単純な話なのだ。私がトイレに行っている間に羊羹が無くなった。それだけだ。
「そして問題は、その無くなった羊羹が、今はどこにあるのか、ですね」
「その通りだ」
果たして、あの羊羮が今どこにあるのか。
私がその犯人として真っ先に疑ったのが弟だ。何しろ、夕べから我が家には私と弟の二人きりしか居ないのだから。
当然ながら扉や窓には錠を下ろしてあり、外部からの闖入者など存在すること事態が考え辛い。
ネズミ? あの神経質な母の管理するこの家に小動物の類いが紛れ込む訳がない。
「ちなみに、その時間帯に僕は自室で写経をしていました」
写経するところを見ては居ないが、これは恐らく本当だろう。我が弟の唯一の趣味である写経は家族公認のものだ。弟が小学校入学の頃に始めたソレは、今年でもう九年目にもなる。その間に毛筆の腕も五段を数え、およそその道のプロに迫ろうかという程だ。
正月に彼が書いた般若心経の書き初めが、市のコンクールで大賞を取ったのは記憶に新しい。
「なるほど。では弟よ、あの羊羮はどこに消えたと考えるかね?」
問うと、弟は目を閉じ右手の人差し指で眉間を付きながら考え込んでいた。
「兄は、食べていないのですよね?」
私と弟の二人しかいないのだから、弟が抱いた疑惑は当然湧いてくるものだろう。
しかし、だ。
「そうだな、私は食べていない。そもそも、あれは今日これから我が家に訪れる客人をもてなすために用意した物なのだ」
そう告げると、眉間を突いた指をそのままに目だけが開かれた。
「客人? いったい誰が来るのですか?」
羊羮の行方には関係しない事だが、まぁ良いだろう。
「クラスメイトだ。クラス委員である私には来週開催される入学式の準備があってな。ちと処理し切れなさそうなので手伝って貰う為に呼んだ訳だ。羊羹は、その礼として用意したのだよ」
まったく、それが直前で消え失せてしまうとは困りものだ。
「羊羹は……、僕の分はないのですか?」
「ない」
途端に目が大きく見開かれ、眉根が大きく下がった。
「今から追加で買いに行っ……」
「残念だが、昨日私が買ったものが最後だった。既に品切れだ」
私がそう発音するが早いか、弟は膝から崩れ落ちた。
「そんなぁ……」
そう呟いたきり動きを止めてしまった。羊羹が食べられないのがそんなにも残念だったのか。
もう、こうなっては仕切り直しとする他ないだろう。
-/-
結局、消えた羊羹の行方は杳として知れず。我が家に訪れたクラスメイトにはスルメを振舞う事になった。
入学式の準備――入学祝の粗品を封筒に詰める作業――の最中にガシガシ齧れたので、それはそれで若干気が紛れて良かった気はする。しかし、奮発して購入したあの羊羹にはやはり少なからず未練を感じなくもない。
結局、週末の時間をほとんどフルに消費して家捜しをしたのだが、それでも発見には至らず、とうとう日曜の夜が訪れた。
金曜の夜から旅行に出ていた両親も既に帰宅し、土産話で夕食を詰め込みながら家族団らんを終え、自室に戻ると週末の終わりを強く感じる。
本当にあの羊羹はどこに消えたのだろう。神隠しにでも逢ったのだろうか。
そういえば、この世には「トンネル効果」という現象が存在する。それは「粒子が普段通り抜けられないはずの壁を一定の確率で通り抜けてしまう」というものだ。もしかすると、あの羊羹にも天文的な確立で「トンネル効果」のような現象が起きたのかもしれない。
類稀なる偶然、限りなく低い確率の果てに「トンネル効果」が発生し、羊羹を次元の隙間にストンと放り込んでしまう。そんな現象が発生したのかもしれない。
勿論、こんなものは単なる妄想だ。しかしこんなバカな現象が発生する可能性は零ではなかもしれない。そんな現象は発生しない、などと誰が言い切ることが出来るだろうか。少なくとも私には出来ない。誰にも出来ないだろう。それが出来るのは、この世の全てを悟った者にだけに違いない。そして、この世の全てを悟った人間など存在するはずが無いのだ。
話が大げさになりすぎている。
結局言えるのは、本当のところはわからない、という事だけだ。あの羊羹がどこに消えたのか、その答えは永遠に誰にもわからないだろう。
だからもう諦めよう。一つのことにこだわり過ぎて他の事を疎かにしてはいけないのだ。もう夜も遅い時間だから眠るべきだ。階下でなにやら母親が絶叫しているが、今は自分のことに専念して、速やかに眠
凶兆庵て