第三章 帰還
もはや目を開いていることもままならず、襲い来る激しい振動と浮遊感に目を固く閉じることで対抗していたオズは、ふと今まで感じていた恐ろしい感覚がなくなっていることに気がついた。恐る恐る目を開けると、視界いっぱいに砂の大地が広がっている。街の外に出られたのだ。砂の地平線が蜃気楼に揺らいでいる。それだけだ。視界いっぱいの茶色い砂しか、そこにはない。オズは疲弊しきった思考の中、呆けたようにぱかりと口を開ける。
「え……と。これから……どう、するんだ?」
「ホームに帰還……ああ、見えないのか」
オズを背負ったレッドは眼前を見据えたままついと目を細める。
「大丈夫、もう着いたから」
そう言ってレッドはオズをゆすり上げた。危うく舌を噛むところだったオズを載せた背中は、砂の中を一歩、二歩、と進む。三メートルも歩かないうちに足を止めたそこで、レッドは右手を翳した。否、突き出した、と言った方が正しいだろうか。オズの目には何も映らない目の前に、まるで壁でもあるかのようにひたりと掌が押し付けられている。
「Code name RED. Scan」
レッドが告げると、びっ、と低く小さく鳴る機械音。数秒ののち、今度はピッ、と高い音がしてレッドは手を下ろす。ややあって軽い空気を切る音と共に、砂漠の風景が四角く切り取られた。
「は? ……は!?」
切り取られた砂漠の風景の向こうに、薄暗い鉄の通路が見えている。レッドはそこへ何の躊躇もなく入っていった。オズは思考が追い付かず、レッドにしがみついたままただ固まっているだけだ。廊下に入り二、三歩歩くと背後で扉が閉まった音がした。
かつかつと鳴るレッドのブーツは、短い廊下の突き当りで止まる。片開きの鉄のドアには見た目にそぐわないアンティークな鍵穴。レッドはごそごそとジーンズのポケットを探り、ベルトに鎖でつないだくすんだ金の鍵を取り出した。鍵穴に差し込みぐるりと回すと、金属音をさせて鍵が外れる。ノブを回して扉を開くと、目がくらむほどに明るい画面がレッドとオズを迎えた。大小さまざまなモニターの多くは、街の通路やそこに蔓延る異形を映している。それがアレニアの街並みだとオズが気付いたのは、それなりに大きなモニターが大破した「フォエニケ」の外観を映し出しているのを見た時だった。
「み、せが……」
おそらく、店の前の通りにある監視カメラだろう。砕けた窓ガラス、散乱した木片、罅の入ったコンクリートの壁。惨憺たる有様のそれは、けして「フォエニケ」だけのことではなかった。画面に映し出される数々の風景。そのどれもが傷つき、荒れ果てた街並みを映し出している。
「……っぐ、う、え、」
その映像のところどころに、赤黒いものを見つけたオズは、腹からせり上がるものを感じてあわててレッドの肩に顔をうずめた。腹の奥からこみあげる恐怖と嫌悪が指先までも支配し、レッドにしがみつく力が強くなる。
(なんで、なんでなんでなんで、あれにあが、アレニアが。どうして、なんで、こんな、怖い、恐い、いやだ、どうして、ひと、いやだ、死んで、恐い、化け物、化け物が、アレニアを、なんで、どうして、いやだ、たすけて、かあさ、)
「あ、あああああああ! かあさんっ!!」
思い至った思考に、オズは思わず叫んだ。
「かあさん、かあさんが! 化け物が街がかあさんが街、かあさん、どうしよ、かあさんが!」
「ちょ、うるさい、おちつけ」
さすがに鼓膜が破れるほどの絶叫を耳元で聞かされ続けてはたまらない。レッドは片手でオズを自分の背中から引きはがし、目の前に猫のようにつりさげる。
「っうぐ、し、まる、首、首締まるうううう」
「静かに落ち着いて話せ。いいな?」
衣服で締まる首元に両手を持っていき、涙目でがくがくと首を縦に振るオズを確認してからレッドは床にオズを下ろした。オズは縋るようにしてレッドのジャケットを掴む。
「っふ、か、かあさんが、街に、どうしよう、助けなきゃ、かあさんが」
言いながらじわり、じわりとオズの瞳が水気を帯びてゆく。
「母親か。店にいなかったが、地下街か?」
「っん、うん。地下の、東大通りに大きい雑貨屋があって……いつもそこで買い物するから、」
「東大通り、な。おいブルー」
「ちょっと待ってねー。俺も忙しいからねー」
突然聞こえてきた男の声に、オズはびくりと体をすくませる。部屋の奥、左の前方から聞こえてきたそれに、ゆっくりと首を向けると、モニターの前に小さな背中が見えた。否、背中が小さいのではない。モニターが大きいのだ。壁一面を使って設置された大きなモニタには意味の分からない数列とアルファベットの羅列が並び、重なるようにアレニアの地図が出ている。そのほかにもなんだか解らないグラフや記号が出ている画面の前に、その背中はあった。
「妨害エリアの編成は」
「さっき最終段階に入ったから処理待ち。もうちょっとかかるかな。毎度のことだけどこの規模をここの設備で、っていうのが狂ってるんだよ。で、地下の東大通り、だっけ?」
レッドの問いに淀みなく答えるその声は、先程レッドが通信していた相手の物だ。その背中―――ブルーは、カタカタと数度キーボードを叩き、目の前の画面の一角に映像を反映させた。緑と黒で構成されたその映像は、どうやら赤外線カメラのもののようだ。
「あー、停電してるみたいだ。非常用電源で赤外線の監視カメラを作動させてる。どんだけ見張っておきたいんだか」
「大事な餌だろうからな。少年、母親はいるか」
レッドが横目にオズを眺めながら問う。少年は見やすくなるはずもないのに目を眇めて、画面を食い入るよう見つめている。しばらくさまよっていた視点はやがてある点で止まり、少しだけ目を見開いた後、緊張を解くようにゆっくりと伏せられた。
「……いた。」
「どれだ」
「……右奥の、白っぽいシャツに長いスカートの」
まずは無事であったことに息を吐く。緑と黒で構成された見辛い画面の右奥、店の前のベンチに彼女は座っている。薄暗く、顔は見えないものの、長い髪の女性が紙袋を抱えて座っているのは見て取れた。周りには幾人かの女性が身を寄せ合って座っている。中には赤子や幼児を連れている人もいる。
「とりあえずは無事そうだな」
「……うん」
ほう、とオズが息をつく。大丈夫だ。まだ。あの恐ろしい化け物に母親は襲われていないのだ。そう思うと共に張りつめた心の琴線が緩んだ。吐く息とともに生ぬるい液体がぱたぱたと頬を濡らす。
「あ、れ。あ、ちが、かあさん、無事、で、」
オズが止めようとすればするほど、その液体は瞳からあふれていく。鼻の奥がつんとして、オズは眉を寄せた。そんなオズを暫し見つめていたレッドは、やがてゆっくりと自分より低い位置にある紅茶色の頭を撫でた。子供特有の柔らかな髪質が、傷一つないレッドの手のひらを滑る。二度、三度とその頭を撫でたレッドは、手を止めてオズの頭に掌を押し当てたまま、口を開いた。
「ブルー。キメラたちの動向を抑えられるだけ抑えておいてくれ。銃大剣のエネルギー充填が終わり次第出る。出撃可能ポイントの割り出しと移動を。ついでにこの少年のことも頼む」
「僕やること多すぎじゃない? まあ、了解。その辺に椅子あるから座らせてあげなよ。弾薬の補充も忘れちゃだめだよ。出撃ポイントはアルファ。十分もすればつくから」
「ん。少年、私はいかないといけない。すまないがしばらくブルーといてくれ」
「ど、こに。どこにいくの、」
「街のキメラを倒しにいく。……それが、私にできることだから」
最後に消え入りそうな声でそう添える。静かで、しかし強い思いのこもった言葉にオズは顔を上げる。澄んだ真紅の瞳が、そこにあった。
「な、あ。なあ、助かるよな。母さん、助けてくれるんだよな、なっ、」
しゃくりを上げながらオズはレッドの袖にしがみつく。
「……助けるために行く。だから、ここで待っていて」
レッドはもう一度オズの頭をなでると、踵を返す。オズの指先から、固い感触のジャケットが離れて行った。抱えた銃大剣と共に、華奢な背中が部屋を出てゆく。部屋を完全に出たところで扉は閉ざされ、オズの視界には重そうな鉄の扉と壁に這う幾筋ものコードだけが残る。鼻をすすって目元を服の袖で乱暴に拭った直後、背後から声を掛けられた。
「あー、取り敢えず椅子あるし、座りなよ。後、その辺の物に勝手に触ると、軽くアレニアが吹っ飛んだりするから気を付けて、っていうか触るな。質問には答えられるだけは答えるけど、忙しいからあんまり期待しないこと。あ、そうそう。俺はブルー。んで、名乗ったかどうか知らないけど、君をここに連れてきたのがレッドね。どっちも偽名だけど。」
ほぼ一息に言い切ったブルーを、オズは戸惑った顔で見上げる。普通の青年、に見える。モニターからあふれる光に照らされる髪は艶のある黒。長めの前髪を垂らして、後ろはところどころ寝癖のように跳ねている。白いシャツに紺色のベスト、同じく紺色のスラックス、という出で立ちだ。一見するとインテリの、企業の会社員にも見える。しかし、袖がまくられた腕にはしっかりと筋肉がついていた。そして何より彼をただの会社員だと思わせないのが、少年を見下ろす瞳。灰色がかった藍色の瞳に、切れ長の一重。四角いレンズを通してみても鋭さが和らいでは見えない。しかもレッド同様、恐ろしく顔立ちが整っている。
( こ わ い )
語り口が軽快で、声色も穏やか。しかし眼光が鋭いせいか、見つめられればすくんでしまうような威圧感がある。顔は笑っているのに、目が笑っていない。しかもさらりと怖い発言が混ざった気がする。綺麗な顔にそのつもりは無いのだとしても睨まれると下手に声を荒げられるよりも恐ろしいだろう。オズが音もたてずに固まっていると、それに気づいたブルーは少し考えて、それから眼鏡の位置をすっと直した。
「……うん、僕よく目が笑ってないとか目の周りの筋肉が死んでるとか瞳孔が開いてるとか言われるけど、別に怒ってるわけでもないし威嚇してるわけでもないから。……って、言っても気にするよねー。うん、胸元とか見て話してくれれば。まあそれは置いておくとして取り敢えず、座りなよ。そろそろレッドも出撃するし。ほら」
先程から地下街の様子を一角に映し出している大きなモニターの前に、事務用と思わしい椅子と、床に固定された大きな机が一つずつ置かれている。その横に置かれた折り畳みのできる木の椅子を広げて、彼は言う。それでも蛇に睨まれたカエルの如く動かないオズを、半ば無理やり引きずって座らせた。そこでようやく、オズははっとして言葉を発した。
「あ、え、えと、ブルーさん?」
「ブルーでいいよ。……あ、君、名前は?」
「……オズ」
「ん。オズね。何かあったら言って。っていっても隣にいるけど。後さっきも言ったけどあんまりものに触らないように」
「う、ん。わかった」
オズが頷くと、ブルーは口角を上げて笑みを作る。子供を安心させるには笑顔が一番のはず、という考えで。相変わらず目が笑っていないので、むしろ逆効果なのだが。
オズを座らせた後、ブルーも隣にある事務用の椅子に腰かける。机にはキーボードが二台とスピーカー、携帯端末サイズの小さなモニターが置かれている。ブルーがそのうちの一台を使って何かを打ち込むと、小さなモニターがSound Onlyという文字を映し出す。
「あー、てす、こちらコードネームネームブルー。応答求む」
『こちらコードネームレッド。回線好調。出撃準備完了』
ざらりとした機械音とともに、先程まですぐそばで聞いていた音がスピーカーから流れた。
「出撃ポイントアルファ。市街中心まではナビゲートする。妨害エリア展開処理70%。それからハッキングして、ってことで30分は見てくれ。帰還ポイントはいつも通りに。そろそろつくよ」
『了解』
スピーカーの向こうで何か重い物を持ち上げる音がする。毎度のことながら、その音にこれから始まる戦いの苛烈さと美しさを予見し、ブルーの背筋が粟立った。キーボードの上をぱたぱたと走っていた指がエンターキーを叩いた。
「アレニア救出戦、開始だ」