序章 夢
夢を見ている。太陽と砂の夢。
どこまでも続く砂の大地を、一人の少女が歩いている。
擦り切れて、薄汚れた袖のないワンピース。長い黒髪が顔を覆い、細く白い裸の手足にぼろきれと化した包帯が幾重にも巻かれている。ゆらゆらゆれるそれらが、少女を幽鬼のように見せていた。
真実、その少女は化け物なのだが。
照りつける太陽と、焼けた砂の熱をものともせず、けれどもどこか力ない足取りで少女は歩いていく。
―――あつい。
出そうとした声は乾いた口腔内をわずかに震わせただけだった。少女はもう何日も、食糧どころか水さえ口にしていない。眠る事も休むこともせず、ただひたすらに道なき砂漠を歩いている。太陽が沈んでも、月が沈んでも、少女は歩くことをやめることができない。昼間は焼けるように暑いのに、夜は凍るほどに寒い死の大地を、のろのろと、だが確実に進んでいく。
すべては、彼女に託されたもののために。
(遠く―――少しでも、遠くへ。逃げなくては。あのひとの、ためにも)
少女が想うのはただそれだけだった。もっとも、少女が昼夜を問わず飲まず食わず歩き通していられるのは、皮肉なことに少女が逃げ出してきた研究所のおかげであるのだが。
少女の体をとても人とは呼べない化け物へと変えたのは、研究所の者たちだ。いっそ心までも化け物になれたのならば、彼女が不安に苛まれる事は無かっただろう。しかし、彼女が人でなくなっても、心だけは変わらず彼女のものだった。
そして、だからこそ、少女は研究所を逃げ出せた。逃げ出した。大きな代償を支払って、それでも、自らが人であるために。
(―――あれは、何)
やがて少女は視界に砂以外のものを発見する。目を凝らさなければわからないが、周囲と同じ砂色の、箱、のようなものだった。
(―――建物……町? ……ちがう、ここはまだ、砂漠の端からは遠い……)
瞼の裏に張り付いた地図を確認しながら、疲れを知らず飲食を必要としない体で、少女は建物らしきものへと近づいていく。途中何度か砂に足をとられてふらつきながら。
強靭な肉体に押し込められた脆弱な精神は、悲鳴を上げて意識を手放そうとしている。
少女がやっとの思いで傍まで行くと、やはりそれは建物だった。家、と表現できないのは、それには窓も屋根もついていなかったからだ。大きな砂色の、箱。
少女が対しているのは長方形の横長い面で、その面にはまったくといって何もついていない。
切り出された岩が、砂漠の中に放棄されているようにも見える。しかし、近くでしっかりと見れば確かにそれは人工の建物のようだった。表面にやや違和感があるのは、それが投影された周囲の景色であるからのようだ。
扉が見当たらず、少女は建物に沿って歩き始める。二十歩ほど歩くと角を見つけ、そのまま左に曲がると砂漠には不似合いな木製の手すりが見えた。おそらく、出入口だろう。
この時の少女にはなぜか、箱の中には人が住んでいるという確信があった。扉までは三段の小さな階段がついている。壁と同じく砂色の扉には、手すりと同じ木製のドアノブ。
ふらり、ふらりと扉へ引き寄せられるように少女は歩む。
(どうしよう)
そう思いながらも少女の足は止まらない。
(あいつらの仲間だったら……私を、敵だと思ったら)
一段、もう一段と小さな階段を上り、そこで足を止める。扉はもう、目の前だ。
(もし……もし、わたしをみて、殺そうとしたら。……そうしたら……仕方がない)
少女は少し考えた後、ドアノブに手をかけた。
(そのときは、敵の首をへし折って、逃げよう)
がちゃりと音を立て、扉はいとも簡単に開いた。少女の目に映ったのは、鈍色の銃口。壮年の男。男の後ろに隠れた少年。
少女は目を見開いた。
―――おとうさん。
目の前に立つ人物を視認するとともに、少女は意識を失った。
そして"わたし"は目を覚ます。
「どうしたの? 珍しいね、居眠りなんて」
出逢った頃より、ずいぶんと低くなった声が問う。それに答えるのは、いつまでも変わらない、自分の声。
「……夢を、みていた」
どこまでも続く、砂の夢。あの夢の続きを、自分は知っている。
知っているから―――目の前に広がる砂の大地に脅えることは、もう、ない。
「そっか。もうすぐ着くよ。準備して」
「了解」
先ほどまでの夢を振り払うように、一度だけ頭を振った。
彼女が夢の続きを生きるために。