2-2
R歴58年、4月15日、火曜日、11時16分。
ログハウスを一歩出れば、高く昇った太陽から暖かい陽光が降り注いでいた。
足元には青々とした芝生。眼前には光をキラキラと反射させる湖。雲一つない空に、見渡す限りの広葉樹林。そして澄んだ空気も味わえるという素晴らしい環境の中で、俺たちはアリシアの到着を待っていた。
せっかくのいい天気だから外で待とう、と提案したのはミドちんで、彼女はログハウスから運び出した椅子にちょこんと座っている。
一方の俺とエイジは少し離れた物陰に隠れて、ちょっとした確認の最中だった。
アリシアと通話が繋がったあのあと――俺は、小屋まで迎えに行こうか、と紳士として当然の申し出をした。しかし彼女は、二度手間になってしまうから大丈夫、とそれを断り、一人でマイホームに向かうと告げてきた。
まあ、ハルバの小屋からここまでは三分程度の距離だし、低レベルのモンスターすら出現しないエリアのはずだし、何かあればチャットで知らせることもできるし――といった理由で了承したのだが、それからすでに10分が経過している。
「アリシア、遅いな……」
何度目かの俺の呟きに、エイジが軽く笑い返す。
「思ったよりも時間がかかるって、さっき言われただろ。落ち着いて待てって」
そんな俺たちの会話は、しかしアリシアには届いていない。
「アリシア~、早くしないと、ライネの寿命がストレスでマッハになるよ~」
そしてこの、俺の呟きを告げ口するミドちんの声はしっかり届いているはずだ。
この差異が、あれから最初に判明したこの世界の仕様だった。
チャットを〈Team〉に設定して声を発すると、〈チーム〉に所属している人間全員に声を届けることができる。だがその設定は、メニュー画面を閉じるとデフォルトの〈Say〉に戻ってしまうのだった。
〈Say〉とは、その場にいる人にしか声が届かない状態のことで、つまりチームチャットを維持するには、メニュー画面を開き続けなければならなかった。
しかしメニュー画面は、ちょっとでも意識が逸れると勝手に閉じてしまう。
例えるなら、通話をするには見えないスマホを握りしめる必要があるのに、それを忘れて手を使おうとした途端、通話が切れる――感じか。
とまあそんなわけで、アリシアの到着を待ちながらも確認や実験をしていた俺とエイジは、連絡係をミドちんに任せていたのだった。
『もうそこまで来てるから、あとちょっと待ってね』
まるで子供に言い聞かせるようなアリシアの声が、脳裏に届く。
しばらくすると、土を踏む足音が聞こえた。続いて木々の影からとんがり帽子が顔を出して、俺はほっと安堵する。
彼女の到着が思いのほか遅れた理由は、別に迷子になっていたからではない。
俺が想定していた“小屋とログハウス間の移動時間は三分”というのが、そもそもゲームでの話であり、誤りだった。ゲームの時は三人称視点で周囲を見回せたし、そして操るキャラは基本的に小走りで移動している――ということを失念していたのだ。
(こういった感覚の違いは、これからも出てくるかもしれない)
そう心に留めつつ、俺はアリシアに駆け寄る。すると彼女はまず、丁寧にお辞儀をした。ずり落ちそうになった帽子を片手で押さえて、改まった感じで言う。
「お待たせしました。初めまして、アリシアです」
いきなり何を言い出すんだ? と一瞬面食らうも、初めましてという感覚もなんとなく理解できた。今までオフ会を開いたことも、ましてや声を交わしたことすらなかったのだ。なので俺も、それに倣うことにする。
「えっと、ライネです。初めまして」
しかし、礼儀正しくあいさつを返したのは俺だけで、
「何やってんだ、お前ら」
エイジが呆れ声で言って、
「アリシアー! 無事で良かったにゃー!」
いつもの調子を取り戻したミドちんが、ぎゅうっとアリシアに抱きついた。
髪と同じくピンク色の尻尾が、ふりふりと元気に揺れていた。
「うんうん。ミドちんも無事で良かった」
抱きしめ返し、ひと回り背の低い猫娘の頭を撫でるアリシア。
そんな微笑ましい光景を楽しく眺めていた俺に、ふと魔女の怪訝そうなジト目が突き刺さった。
「ところで、その格好はどうしたの……? ライネ」
指摘され、俺は現在の自分の姿を思い出す。
「あーっと……鎧だと窮屈な感じがしてさ。何か動きやすそうな装備をって思ったら、こんなのしかなかったんだ」
俺は決してお祭り男ではない、と弁明して、何年も前の夏のイベントで入手した青色の浴衣をひらひらさせた。
「そっか、装備も変えられるのね」
「ああ。装備変更画面から設定して、そのままウィンドウを閉じれば反映される。帽子とか杖が邪魔ならやってみるといいよ」
「ふむ」
アリシアが集中して宙を見つめる。
ミドちんが空気を読んで抱きつくのをやめて、その様子を見守った。
10秒ほどすると、とんがり帽子と右手に握っていたロッドが、手品よりも呆気なく、なんのエフェクトも発生させずに消えた。
この辺りはゲーム内でもエフェクトが設定されていないからなのだろう。
僅かに目を見開いたアリシアへ、ミドちんが楽しそうに言う。
「一瞬過ぎてびっくりするよね!」
「うん、すごいね。――髪、変になってない?」
「ううん、全然大丈夫。っていうかさ! アリシアの声、すごく綺麗だし可愛いよ! なんで今まで話してくれなかったのって、不思議なくらいにゃ!」
「それは、ちょっと、いろいろあってですね」
「あ、別に詮索してるわけじゃなくてにゃー」
と、長くなりそうな女子二人の会話を、
「はいはい、ストップだ」
エイジが手を叩いて止めた。それから、親指で椅子とテーブルを指す。
「立ち話もなんだし、とりあえずあっちで座って話そうぜ? 一応、食い物と水も用意してあるんだ。まあ、腹は減ってないかもしれんが」
「飲食……できるの?」
「試しに飲んでみるといいよ」
俺は綺麗な水が入ったグラスをアリシアに渡した。
「俺たちはもう飲んだあとだから大丈夫。ちなみに、水はその井戸から汲み上げたやつで、水差しとグラスは調度品の〈食器棚〉から引っ張り出せたんだ」
「ありがとう。なるほどね」
受け取ったアリシアは、中身を少し眺めてから口をつけた。傾けられたグラスから水が流れていく先――彼女の唇を、そんな場合ではないとわかっているのについ見てしまう。
口元についた水を手先で拭い、アリシアは感心したように言う。
「……冷たさも感じるし、ちゃんとお水の味がするのね」
「そうなんだ。食べ物もその通りの味……か、わからないけど、味はする」
芝生の上に置かれた木製のテーブル。その上には、アイテムストレージから取り出した料理がこれでもかと並べられている。
串に刺さった肉も、ミートパイの具も、元の素材は現実にはいないモンスターの肉のはずだが、さっき試しに食べた串焼きは、牛肉のような、それらしい味がしたのだった。
全員が椅子に腰を下ろしたのを見てエイジが、
「さあ、どれでもご自由に」
と両手を広げる。
ひと通り視線を向けてからアリシアが手を伸ばしたのは、レタスと肉が挟まれたサンドウィッチだった。両手で掴んだそれをまずは鼻に近づけ、すんすんと匂いを確かめる。
「いただきます」
お上品にひと口かじって、さらに慎重にひと噛みしたところで、アリシアは動きをとめた。かと思えば、次第にもぐもぐと咀嚼を始め、やがて飲み込み、手にした食べ物をまじまじと見つめる。
「おいしい。香りも食感もしっかりあって、普通のサンドウィッチみたい」
「だろ? ちなみにそれは俺のカバンに入りっぱなしだったヤツだから、五年前のサンドウィッチだけど」
俺が楽しげに言うと、アリシアは眉をひそめて「うぇ」と吐き出す真似をした。
「ははは。つまり賞味期限はないらしいってことだな」
エイジが上手くまとめて、さらに続ける。
「ほかにもお前を待ってる間にわかったことがいくつかあるんだ。説明してってもいいか?」
「ええ。お願いしますよ、先生」
やや皮肉っぽくアリシアが言って、
「任されたぜ」
エイジがにやりと返事する。
(なんか、いいな)
俺は心地いい気分でそう思った。
ゲームをプレイしていた頃と変わらないやり取りの安心感。それはきっと、長い時間をともに過ごしてきた仲間としか味わえない感覚だ。そして今、その仲間たちと初めてのオフ会のような状況になっている。
(少し不謹慎かもしれないけれど、愉快になるのも仕方ないよな)
「まず、食事と水についてだが」
俺の内心はさておき、エイジの説明が始まる。
「これについてはRSOと同じく、〈空腹ゲージ〉と〈口渇ゲージ〉に連動してるっぽいな。食べれば増えて、おそらく時間経過で減っていく。ゲージはメニューを開いて左下にあるやつだ」
宙を見つめるアリシア。俺も復習としてメニュー画面を表示させる。視界の左下に、パンとコップのマークがついた二つのゲージがあった。
「確認したわ。なるほど」
「次にアイテムだが、ストレージ内で〈使用する〉を選べば取り出せるみたいだ。逆にストレージに戻したい時は、メニューを開いた状態でアイテムを触るか持つかして、“戻したい、仕舞いたい”って念じれば戻せる。だけど、そのサンドウィッチみたいに元の状態から大きく変わっちまったやつは戻せないっぽいな」
「ふむふむ……。わっ」
目に前に突如現れたオレンジジュースを、アリシアが慌ててキャッチした。
どうやら試しにやってみたらしい。
「これ、いきなり出てくるのは不便だよにゃ~。ウチが出した肉まんなんて、地面に落ちちゃったんだよ~」
甘えるように愚痴ったミドちんの頭を、ジュースを亜空間に仕舞ったアリシアが撫でる。そして、
「おお、可哀想なミドちん……」
と慰めるところまでは、見ていて微笑ましかったものの、
「ちゃんとライネに食べてもらった?」
という台詞は聞き捨てならなかった。
「言っておくが、俺は残飯処理班じゃないからな? 肉まんは、落としてちょっと汚れが付いた程度だったらストレージに戻せて、もう一回取り出したら綺麗でほかほかの状態になってたんだ。それをミドちんが自分でいただいてました」
「えへへ」
照れ笑いしてみせたミドちんの頭を、再びアリシアが撫でる。
「おお、良かったねミドちん。――ライネに取られなくて」
そこに付け足された余計な一言に、
「うん!」
と応じる猫娘。
どうやら、二人して俺のことを悪者扱いしたい気分らしい。
まあ、俺もまったく悪い気はしていないけれど。
「賑やかなのはとてもよろしいことだが、先生ちょっと寂しいぞ……」
一人、輪から外れていたエイジが、同情を誘うように口を尖らせた。
お喋りに興じていた女子二人は顔を見合わせ、素直に頭を下げる。
「ごめんなさい」
「すみません先生、続けてください」
謝った彼女らに、エイジは先生という役回りを意識してか威厳ありげに頷く。
「よろしい」
だが、続いてその口から出た言葉は、教育者失格といってもいいセクハラまがいのものだった。
「次は、これまでで一番大事なことだ。さっきライネと確認してたんだが、俺たちにはあって然るべき棒と二つの玉が、あるべき場所になかったんだよ」
「棒と、二つの玉……?」
そう呟いてから数秒――
意味を察したらしいアリシアが「……っ」と口に手を当て、顔を赤らめる。
「エイジサイテーにゃ! 女の子にそんなこと言わせるなんて!」
「俺は別に言わせてないぞ? あいつが勝手に言っただけじゃないか」
ミドちんの罵声をさらりとかわし、飄々と事実を主張するエイジ。
一方、思わぬ言葉を口走り、俯いた彼女の顔はますます赤みを増していく。
ミドちんの言う通り、エイジが最低なのは疑いようもないことだけど、頬を赤く染めたアリシアが最高なのもまた、疑う余地がないのであった――などと一人呑気に考えていたら、魔女がおもむろに立ち上がり、ロッドを出現させた。
「……攻撃魔法が撃てるかどうか、もう試したかしら?」
冷ややかな笑みとともに発せられた、抑揚のない声。
それにびくりと反応して、エイジも慌てて立ち上がる。
「待て待て! いや、ほんとに重要なことなんだって! 棒と玉もなかったけど、後ろの穴もなかったんだ! つまり、トイレの心配はしなくても良さそうってことを言いたかったんだよ!」
「なるほどね。じゃあついでに魔法が人に効くかどうかの実験もしましょう」
「待てって! ここがSAOみたいな世界だったら、死んだら死ぬんだぞ!?」
「――!」
エイジが両手を突き出しながら放った台詞は、怒れる魔女の頭を冷やすのに十分な効果を発揮したらしい。
アリシアは詩人の鼻先に向けていたロッドを引っ込め、目を伏せて謝る。
「……ごめんなさい。浅はかだったわ」
「いや……俺も悪かった」
今しがたエイジが使った魔法の言葉――SAOとは、MMORPG好きなら誰もが知る、“すごく・有り得ないほど・面白い、ネットゲームを舞台に描かれた不朽の名作小説”のことだ。
作品の魅力を一割も伝えられないことを承知で内容を説明すると、その物語は人の五感全てが仮想世界とリンクし、まるでゲームの世界に入り込んだようにプレイすることが可能という、超技術の次世代ゲーム機が登場するところから始まる。
やがてその機能を生かしたMMORPGが発売され、一万人近いゲーマーが殺到するも、そこは開発者によって仕組まれたデスゲームの舞台だったのだ。
そして主人公たちは、自分の操るキャラが死ねば実際の自分も死ぬという恐怖と戦いつつ、現実世界に還るため果敢に攻略していく――。
ちなみにだが、SAOに登場する次世代ゲーム機は、今となっては過去にあたる2022年に発売された設定だ。しかしそのゲーマー垂涎の技術は、俺たちのいた2032年になっても実現されていなかった。
だから俺たちの現状は、ある意味では待ち望んだ夢の世界に来れたのだ――とも言える。
「でもこの状況は、明らかにSAOとは違うよな……」
そう呟いた俺に、ミドちんも同調する。
「ねー。SAOみたいな技術があって、そんで黒幕がいましたって言うんなら、話はまだわかりやすいんだけどにゃー」
「〈GMコール〉はもうやってみたのよね?」
確認を取るようにアリシアが訊いた。
「うん。だけど予想通りというか、反応はなかった」
返答した俺に続き、エイジが難しい顔を見せつつ所感を口にする。
「こんだけ状況証拠が揃ってるんだから、ここがRSOの中なのは間違いないよな……。だけど、運営や開発がこの状況を作り出したってのも考えがたいし……。こんなことができるんなら、もはや魔法の域だぜ」
「魔法かー。もしリアルに魔法を使える人がいたんなら、〈ジュノー〉を止めてただろうしにゃー」
〈ジュノー〉。
人生最期のゲームプレイを楽しんでいた時は、全員があえて避けていた単語。
それを受けて表情を曇らせたのは、アリシアだった。
「……やっぱり私たちは、“あの時”死んだんだよね……」
あの時――体感ではまだ一時間も経っていないあの瞬間――俺は、甘んじて死を受け入れていた。しかしそれは逃れ得ぬことだったからで、決してつらくなかったわけじゃない。きっと多くの人たちが似たような心境だったと思う。
だけどそんな痛みを無視して、確かにあれは起こったのだ。
「絶対とは言い切れないけど、ほぼ確実にね。本当に一瞬だったけど、俺は見たよ。めくれ上がった地面が馬鹿でかい津波みたいに迫ってくるのを。それがここで目覚める前の最後の記憶だ。――アリシア、〈現在時刻〉を確認してみて」
「うん……」
小さく返事をするアリシア。
しばらくすると、彼女の目に驚きの色が浮かんだ。
「6月25日、3時33分……で、止まってる?」
「そう。俺が最後に時計を見た時も、アリシアも待ってる間にここで確認した時も3時33分だった。あの瞬間に世界は止まって……俺たちはなぜかここにいる」
「……こっちの世界の時間は、11時29分……これは?」
「こっちの時間はどうやら進んでるみたいなんだ。それもゲームをプレイしてた頃とは違って1分が60秒刻みの、リアルと同じスピードでね。さっき俺が見た時は11時15分だった。なんであっちの時間は止まっていて、こっちの時間は進んでいるのかは、さっぱりだけど……」
「ふむ……」
顎に手を当て、アリシアは考え込む。
〈ウィザード〉の格好をしているため、一見、賢者のようだが、この異様な世界の謎を解き明かすことは難しいだろう。
あの世界はどうなったのか?
この世界はどうなっているのか?
俺たちはなぜここにいるのか?
これから俺たちはどうするべきなのか?
そもそも俺たちが何かをする必要はあるのか?
「…………」
謎だらけの現状に思考が汚染されて、俺もトーンダウンしてしまう。
そこへ、
「まあさ! わからないことを考えても仕方ねえって!」
と場を取り直すように明るく言うのはエイジだった。
「なにせ現実であんなことが――まさに人類史上初の出来事が起きたんだ。今さら何が起こっても不思議じゃないさ。仮説でいいなら、やっぱりここは天国なんだとか、開発が超技術を隠してたとか、全員が同じ夢を見てるとかいくらでも言えるけどさ、そんなこと考えたって、結局答えなんかわからないだろ?
わかってるのは、俺たちは今、夢のような世界にいるってことだ。だったらせいぜい楽しんでやろうぜ?」
前向きなエイジの言葉に、
「うんうん」
とミドちんも同意する。
「これは神様のプレゼントってことにして、余生を気楽に楽しむのもアリだと思うにゃ。余生というか、ウチらはもう死んじゃってるんだけどにゃ。あはは」
微笑んでみせるも、その表情はどこかぎこちなかった。
まあ、まだ気持ちに折り合いがつかないのも無理はない。
「……そうだね。こんなことでも起きなきゃ、私もハルバハーラ様を間近で見られなかったんだし」
楽しむ方向へと考えをシフトしているのは、アリシアも同じようだ。
俺としても、こうなったら楽しんでしまえという意見に異論はない。
しかし、だ。
「楽しもうってのは賛成だけど、それなら絶対に確かめておきたいことがある」
真面目な調子で言った俺に、みんなが注目が集まる。
その中の一人へと視線を向けた。
「ミドちん。俺に〈ヒール〉を使ってみてくれないか?」
「うん? わかったにゃ」
魔法が使えるかどうかはまだ試していなかった。
ミドちんが両の手のひらを俺に向け、小首を傾げながら言う。
「これでいいのかわからないけど……〈ヒール〉!」
少し恥ずかしそうにミドちんが唱えた瞬間、彼女の体から白い光が湧き出た。光は一秒ほどで消え、同時に画面内で何度も見てきた緑のエフェクトが、キラキラと音を響かせながら俺を包む。
「おお……」
と感嘆の声を上げるエイジ&ミドちん。
俺はどこからやってくるのか不明な、ほのかな温かさを全身に感じていた。HPは満タンだったので、変化はない。
「――で、確かめたいことってこれのことだったのか?」
そんなわけないよな? という風に訊いてくるエイジ。
俺は首を横に振る。
「いや、まだだ。エイジ、〈猛攻のマーチ〉を使ってもらえるか?」
「そりゃあ、やってみるのは構わんが……演奏ってどうやるんだ? メニューからいけるか?」
数秒経つと、不意にエイジが腰にぶら下げていた小型の竪琴を構えた。
その手が、二拍子の勇ましい旋律を紡ぐ。
「お、おお! 指が勝手に動くぞ!」
興奮して鼻の穴を膨らませた顔はともかく、滑らかに弦を弾く指使いは、思わず見蕩れてしまうほどだった。
しばしの間、竪琴が奏でる美しい音色に耳を傾ける。
そして八小節が演奏された時、エイジから赤い波紋のようなエフェクトが溢れて俺たちを撫でていった。
メニューを開くと、剣と↑マークが重なっているアイコンが確認できた。攻撃力アップの効果がきちんとかかっている証だ。
「サンキュー、エイジ。――次は、アリシア」
「はい」
若干身構えた様子のアリシアに、俺は一番心苦しいお願いをする。
「俺に〈ストーン〉を撃ってみてくれないか?」
それは、俺に銃を撃ってみてくれと言っているのに等しかった。
何しろ〈ウィザード〉専用クエストの中には、『銃口と攻撃魔法は人に向けてはいけません』なんて格言めいた名前のものがあるくらいなのだ。
だからさっきエイジを脅していた時も、本当に撃つつもりはなかった。
と思う。
「実験なら仕方ないけど……、いいのよね?」
不安げなアリシアに、俺は自信を持って頷き返す。
「うん、頼んだ」
人に攻撃魔法を向けるのが倫理に反するとはいえ、〈ストーン〉はレベル1の〈ウィザード〉でも覚えられる低級魔法だ。アリシアと同レベルの俺なら、浴衣姿といえど些細なダメージしか受けないはず。
「じゃあ、いくわよ……。〈ストーン〉」
ロッドの先を俺に向け、アリシアが手加減するように優しく唱える。
すると詠唱時間のきっかり二秒後、何もなかった俺の頭上に、サッカーボール大の岩が出現した。
「うおっ……」
反射的に避けたくなるのを抑えて、重力に従って落ちてくるそれを頭部で受け止める。ゴツンと盛大な音がして、衝撃で頭が10センチほど下がった。
「……大丈夫?」
顔を覗き込んでくるアリシアに、俺は強がりじゃない笑顔を見せる。
「大丈夫。衝撃はあったけど、痛みは全然なかった。これはいい情報だ」
「ほんと~? 単純にライネが石頭だっただけじゃないよね~?」
と、容疑をかけてくるミドちん。
「いや、今のは下手したら中国の達人でも死ぬレベルだったろ。疑うならミドちんも食らってみればいいんじゃないか?」
「遠慮しとくにゃ。ウチはか弱いからね~」
「どこがだよ……」
なんて軽いやり取りをしていたら、エイジが二度目になる質問をしてきた。
「んで、確認したいことは以上なのか?」
俺は余裕ぶった笑みを浮かべながら首を横に振って、何も言わずに丸太から立ち上がった。
三人の視線を引き連れたまま向かったのは、ログハウスのすぐ隣――ハンガーをぶら下げるのに丁度良さそうな、木の柱の近く。
地面に打ち付けられたこの柱は、木人といって、プレイヤーが好き勝手に殴ることができる人形だ。
稀にストレスの解消にも使われていたが、その正しい用法は、新しい装備を入手した際にその威力を確かめるためのものである。コストが安く何かと便利なコイツは、どこのマイホームにも必ず設置されていた。
さて、今みんなに頼んで確認が取れたことは、ゲーム内でも可能だったことだ。攻撃魔法を他プレイヤーに向けるのも、設定でセーフティを外せばできた。
だからきっと、今から試すことも可能なはずだ。
「おい、いったい何をするつもりなんだ……?」
「まあまあ、もうすぐわかるから」
いい加減不審に思ってきたらしいエイジを宥めて、最終確認をする。
「ミドちん、魔法の一覧に〈リライフ〉はあるよな?」
「えーっと、あるけど――」
「オーケー。じゃあ行くぜ!」
言うが早いか、俺は慣れない動作で腰の聖剣を引き抜いた。
と同時――戦闘態勢に入ったと判断されてか、視界の右下に自分のHPとMPのバーが出現する。そして中央には、現在ターゲット中の相手、木人のHPバーが。
俺は聖剣を振り上げ、思ったよりも軽かったそれを、勢いよく木人に振り下ろす――その寸前、
「〈アタックカバー〉!」
10秒間、対象が食らう物理攻撃を俺が肩代わりするアビリティを発動させた。
その対象は――木人だ。
「なっ……!?」
驚愕するエイジの声。
アビリティの効果を受けて木人の前に光の盾が現れ、そこから伸びた光のラインが俺と繋がる。そこへ、振り下ろした剣撃が襲い掛かる。
すると、どうなるか?
答えは単純。俺の攻撃が〈アタックカバー〉によって自分に返ってくるという、自滅コンボの完成である。
剣は木人をすり抜けるが、物体を斬った確かな手ごたえがあった。ザシュという爽快な音がして、自らのHPが2割と少し減る。浴衣はただのオシャレ装備ゆえに防御力が裸同然しかなく、エイジの曲の効果によって攻撃力が上がった聖剣の一撃は強烈だった。
(そりゃあ、レジェンド級のモンスター、“影ミド”にとどめを刺した剣だもんな。これなら楽に検証できそうだ)
そう独りごちたのだが、しかし俺の意に反して二撃目への移行は緩慢だった。
この軽さならスパスパと切り刻んでバラバラにできると思ったのに、なぜか腕が動いてくれない……と思ったら、勝手に動いた腕が木人に向かって聖剣を振るい、俺のHPが減少する。
(なるほど。きっとこれは、エイジの指が自動演奏したのと同じなんだ)
今の俺の攻撃間隔は、ゲーム内で何度も振るってきた〈エクスカリバー〉の攻撃間隔と同じだった。そしてその行動は、俺の意思や身体能力に関係なく行われた。
(つまり、仮に俺がリアルで剣の達人だったとしても、剣を振る速度はゲーム上で設定された速さ以上にはならない。逆もまた然りってことか)
判明したこの仕様を仲間に伝えるためにも、俺はここで一度死に、それから華麗に復活しなければならない。
この世界を気軽に楽しむために必要不可欠なもの。
それは、“ここがデスゲームの舞台じゃない”という証明だった。
背後から仲間たちの焦った声が聞こえるような気がする。だが俺は構わず戦闘を続行し、三撃目、四撃目と木人に食らわせた。
〈アタックカバー〉の発動から9秒と少し。
ギリギリのところで、俺のHPはめでたく底を尽いた。
体の力が抜ける感覚もなかったのに、俺はその場で仰向けになって倒れる。
慌てた様子の足音。悲痛な声。それが、水中にいるみたいに不明瞭に聞こえる。
視界はサングラス越しのように暗くなっていた。だけど仰ぐ空は、それ以上暗くはならなかった。
やがて出現する、ゲームの時と変わらないメッセージ。
【戦闘不能になりました。復活地点に戻りますか?
はい】
すぐに俺の体に無数の天使の羽が降り注ぎ、メッセージが上書きされる。
【ミドルファスからリライフを受けました。生き返りますか?
はい/いいえ】
安堵とともに、俺は迷わず“はい”を選択するのだった。
* * *
「私は怒ってます。その理由は言わなくてもわかるわよね? ライネ?」
腕を組み、無表情で問いかけてくるアリシア。
その威圧感といえば、エイジを脅していた時よりも怖い。
「はい、私は身勝手なことをしました。反省しております……」
俺は三人に囲まれ、訊問と詰問を受けているところだった。
エイジから「正座しろ」と命じられるまでもなく進んで正座する所存だったが、しかし格好が浴衣のせいで、あまり誠意は伝わってないかもしれない。
「まったくもう! 〈ヒール〉も届かなかったしさ! これで蘇生ができない世界だったらどうする気だったのにゃ!」
両手棍を地面にザクザク刺しながらミドちんが怒鳴った。
回復魔法が届かなかった――というのは俺が木人を殴っていた際のことで、その理由はRSOの機能の一つ、〈ブロックエイド〉の効果だった。
〈ブロックエイド〉をオンにすれば、ほかのプレイヤーからの支援や回復魔法を、遮断することができるのだ。
そんな機能がなぜあるの? と思うかもしれないが、これがごく一部の状況では役に立ったりする。例えば、完全なソロで強敵と戦ってみたい時などが使いどころで、通りがかったほかのプレイヤーの、善意による支援を断る――といった機能を果たすのだ。
ただ、戦闘不能になってしまえば、頑なに支援を拒む必要もないというわけで、〈ブロックエイド〉は自動でオフになってくれる。
今回はこの機能を利用して、ミドちんの回復をシャットアウトし、果たしてこの世界で戦闘不能になっても死なないのか? という実験をおこなったのだった。
その結果、万が一でも蘇生できなかったらどうするつもりだったのか。
仲間のごもっともな指摘に俺は、
「まあほら、ウチらはもう死んじゃってるんだし……」
と彼女の台詞を引用して言い訳してみたら、やっぱり逆効果だった。
ミドちんは杖を地面深くに突き立て、尻尾も逆立たせ、指をビシビシさしながら声を荒らげる。
「ウチらはもう死んじゃってるかもしれないけど、今は地縛霊みたいになぜか生きてるの! ライネはさっさと成仏するつもりだったのかにゃ!?」
「いえ、そんなつもりは……」
「まあまあ、ミド」
言い淀む俺を見かねてか、エイジが宥めるように口を開いた。
「俺も納得はできないし、騙されたみたいでいい気はしてないが、こいつの気持ちもわからんでもないだろ? 戦闘不能=死ってなるなら、おちおち冒険にも出られない。だから、戦闘不能になっても死なないことを先に確認したかった。しかし、そんな危険な実験を誰かにやらせるわけにもいかない。それなら黙ったまま自分でやってしまおう。大方、そんなとこだろ」
寸分の狂いもなくその通りだった。
俺は目を伏せ、黙って頷く。
もしエイジが、ミドちんが、アリシアが――俺と同じことをして、そのまま消え去ってしまったら。俺はなぜ止められなかったのかと後悔し続けるだろう。
そこまでわかっていて、それでも実行した俺は、ただ自己犠牲に酔っているだけだった。仲間の怒りは、むしろ有難いことだと思わなければ。
「……悪かった。たぶん大丈夫だと踏んでやったけど、もしダメだったらみんなに責任を負わせてしまうところだった。もう勝手なことはしないと誓うよ」
やれやれ、まったく、と聞こえてきそうなため息が頭上で吐かれる。
それでこの場は収まった――かと思われたが、まだ一人怒りの炎をくすぶらせている人物がいた。
「今度似たような真似したら、永遠に寝かしキープしてあげるから」
恐ろしいことを冷たく言い放つアリシア。三人の中で彼女が一番怒っている理由は察することができた。たぶん、自分自身に対しても怒っているからなのだ。
救援遮断は、その名の通り支援と回復魔法しか遮らない。
だから、ミドちんの〈ヒール〉が発動しなかった時点で、アリシアが〈サンダーショック〉を放っていれば、俺の愚行は阻止できたのだ。
あの数秒で、しかもこの慣れない世界で、そう機転を効かせるのは無茶な話だと思うが、できなかった自分に苛立たずにはいられないのだろう。
心底悪いことをしてしまったと反省しつつも、あえて俺は、
「覚悟しておきます」
と言って頭を下げた。ここで素直に謝っても、きっとアリシアは留飲を下げてはくれないから。
「はあ……」
疲れと呆れがまざったようなアリシアのため息。
それを釈放の許しだと解釈して、俺が立ち上がろうとした時だ。
「ほらよ」
声のしたほうを見れば、エイジが気を利かせるように手を差し出していた。
別に立つのに苦労はなかったけれど、差し出されれば使わせてもらおうと思うのが普通だ。だから俺は、手を伸ばして掴もうとしたのだが――直前になってヤツは手を引っ込めやがった。
「おい」
「はははっ」
所在なげな俺の右手を見て、してやったりと笑うエイジ。勝手なことをした俺へのちょっとした仕返しなのだろう。
結局、右手を情けなく振りながら俺は一人で立ち上がった。
「――でだ。本当に死ぬ心配っつーのも、もはやおかしな話だが、戦闘不能は別に恐れることじゃないってのは証明できたわけだ。それで、これからどうする?」
エイジの言葉は全体に向けられたものだったが、視線は俺に集中していた。
「ちょっと待って、確認したいことがある――って、エリア人数を検索したいだけだから、ロッドをこっちに向けないで……」
隙なく武器を構えたアリシアに断りを入れてから、俺はメニューを開いた。他人の画面は視認できないため、調べた結果を説明しながらメニュー操作を続ける。
「全エリアの人数は――333人。俺がインした時も確かそのくらいだったから、あの時プレイしていた全員がこの世界にいるみたいだ」
「333人の、幸運を手にした者ってとこか」
「まあ、そんなとこかな」
エイジの呟きにとりあえずの同意を示しつつ、先を話す。
「けど、その中には戦闘不能になることを恐れて、過剰に不安になってる人もいるかもしれない。MMOの世界に突然迷い込んだら、SAOを思い浮かべる人は多いだろうからな」
「ふむ、確かにな。――それで?」
「だから俺は〈アガルタ〉に飛んで、わかった情報を多くの人に伝えたいと思う。今、主要都市の人数を調べたけど、やっぱり〈アガルタ〉が一番多かったから」
「なるほど。オーケー、俺はそれで異論ないぜ」
「もちろん、ウチもいいにゃ」
「私も賛成。ライネの死を無駄にしないためにもね」
やや冷たく感じるアリシアの言い草に、まだ怒ってるのかなと心配しながら反論してみる。
「いや、死んでないから……」
しかしそれは見事に無視され、アリシアは続けて口を開いた。
「でも、〈アガルタ〉に向かうなら一つだけ条件があるわ」
表情は真剣そのもので、その条件とやらを呑むまで譲らないことが察せられた。
エイジが生えてない顎髭をいじるような仕草をしながら訊き返す。
「条件ってのは?」
「テレポート系のアイテムは、まだ正しく機能するのか試していないでしょう? なので、飛ぶ時は全員で一緒に使いましょう」
早くも決定事項として提示された条件は、至極妥当だった。
俺が先走らないよう注意しつつ、誰か一人を実験台にすることもない。
〈アガルタ〉の人口が一番多かったのは、みんながすでにテレポートした結果かもしれなかったが、“あの時”最期を迎える場所として、故郷である地下都市を選んだプレイヤーが多かったとも推測できた。
エイジが俺とミドちんに向かって、“だとよ?”という視線を寄こす。
頷き返すのは二人同時だった。
「満場一致だな。んじゃ、アイテムの選択肢のとこでいったんストップだ」
仲間たちが視線を宙に遣ったのを見て、俺もメニュー画面を操る。
【〈アガルタの御石の欠片〉を使用しますか?
はい/いいえ】
「できたか?」
周囲を窺うエイジへ、それぞれ
「ああ」
「ええ」
「にゃ」
と返事する。
「じゃあ、せーのっ、で行くぜ? せーのっ――て言ったら行くんだからな、ってあ!」
男のマヌケな声が響く直前――天空から幾本もの青い光線が降り注いでくるのが見えた。その光が一つの大きな束となって、俺たち三人を包んでいく。
数秒遅れでエイジにも光が舞い降りて、次第に全員の体が透け始めた。
俺は視界が白に染まっていくのを感じながら、アリシアに向けて言った己の言葉を思い返していた。
(死んでないから……)
確かに俺たちはまだ、見て、聞いて、話をして、考えもするし、土や草木の匂いも感じるし、食べ物の味だってわかる。そんな状態は死んでるとは言いがたい。
しかし、死んではいないだけで、これは生きていると言えるのだろうか?
ミドちんが使った、地縛霊という言葉。
実に的確な例えだが、そこにはどうしても不穏で悲しい気配を感じてしまう。
ここは俺たちにとって夢のような世界なのか、それとも――。
(まあ……なるようにしかならないか)
結局そんな結論に至った瞬間、俺の視界は完全な白になった。