2-1 続・終章「新たな始まりと、終わりの始まり」
眠りから目が覚めたその瞬間、網膜にはどんな景色が映り込んでいるだろう?
それは閉じた目蓋の裏側か、それとも見慣れた天井や枕か。
俺は人生で一度も、そんなことを意識したことはなかった。
だから、今現在の俺が、目覚めたばかりという表現で正解なのかわからない。
だけど、気がつけば自分が別の場所にいたなんてことは、普通は眠りから覚めた場合しか、有り得ない。
ともかく――。
ともかく俺は、木目が鮮やかなテーブルに、ぼうっと視線を落としている自分を知覚していた。一つ息を吸えば、優しい木の香りが鼻に違和感なく馴染む。
炭酸飲料の甘ったるい匂いではなく。
そうだ。俺はさっきまで自分の部屋にいたはずだ。
自室の窓から、恐ろしいとしか言いようのない終末を眺めていた。
赤く染まった夜空。天高く巻き上がる瓦礫の津波。凄まじい熱と衝撃を纏った、逃れようのない死の嵐。
確かにあれは、現実に起こった災厄のはず。
(なのに、生きている――?)
ふと視界の端で何かが動いた気がして、俺はぎこちない動作で首を上げた。
見れば、テーブルを挟んだ向かい側に二人の人物が座っていた。質感は異なるが、何度も画面で見てきたから間違えようがない。
RSO内のプレイヤーキャラである、エイジとミドだ。
二人は戸惑いと放心が混ざった表情でこちらを見ていた。
きっと俺も、同じような顔をしていただろう。
「ライネ……か?」
緑の羽根付き帽子に、金色の長髪を煌めかせたエイジが、ぼんやりと口を開く。耳に届いたその声は、聞き馴染みのあるヤツのものだった。
「エイジ……だよな? それにミドちんも……」
「うん……。これ、ウチだよね……」
ピンクのボブカットを白い猫耳フードで覆ったミドが、自分の手を確認しながら呟く。その手の先っぽには、人間にしては長く鋭い爪が付いていた。猫耳と尻尾を有する〈ミャウラ〉族特有のものだ。
「じゃあここは……RSOの中なの? みんな、隕石で死んじゃったんじゃ……」
か細い声でミドちんが言って、全員が口を閉ざした。
その問いに対する答えは、ここにいる誰も持ち合わせてはいない。
わけのわからないことだらけの現状。それを少しでも把握するには――
「……いろいろと確認する必要があるな」
周囲に視線を配りつつ俺が言うと、エイジが小さく頷いた。
「そうだな……。これがリアルなら、ひとまず水でも飲んで落ち着きたいってところだが」
「水か……。もしここが本当にRSOの世界で、今いるのがあのマイホームなら、外に井戸があるはずだよな? それが使えれば水が飲めるかどうかの確認もできるし、行ってみよう」
「わかった」
「うん」
二人が頷いたのを見て、さっそく外に出ようと椅子から腰を上げた時だった。
がちゃり――という、耳慣れない重そうな金属音が、すぐ近くから聞こえた。
何を隠そう、それは俺の体を覆っている白銀の鎧が鳴らした音だった。
ここで初めて俺は、自分が大仰な重装備を身に纏っていたことに気づく。不思議と重みはほとんど感じないが、なんだか窮屈で動きづらい……気がする。
(これがRSOなら、装備画面から簡単に変更できるのに――)
そんな思いが巡ったところで突如、俺の視界の中央に半透明の青いウィンドウが現れた。
「……メニュー画面だ」
俺の呟きに、二人が足を止めて振り返る。
「んあ?」
こいつは何を言ってるんだ? というような、要領を得ない感じのエイジの声。それから察するに、このウィンドウは俺にしか見えていないらしい。
「今、鎧だと窮屈だから着替えたいって思ったんだ。それで装備画面を思い浮かべたら、目の前にメニュー画面が出てきた……」
「……本当か?」
眉をひそめ、訝しそうに宙を見つめるエイジ。
数秒後、ヤツは身を仰け反らせて驚きの声を上げた。
「って、ほんとに出てきやがった!」
「ウチも見えた……。すごい」
ミドちんも、あんぐりと開かれた口から驚嘆の息を漏らす。
眼前に浮かぶ、モニター上で何度も見たウィンドウ。何気なく触ろうと伸ばした手は、しかし何の反応もなくすり抜けていった。
よく見れば端のほうに矢印型のカーソルが出現していて、これでボタンを押せばいいのか――と理解した時には、思いを汲み取ったようにそれが動き出していた。
「カーソルは意識とリンクしてるのかな。そこに行けって念じるだけで動いてくれるみたいだ」
わかったことを口にしつつ、RSOプレイヤーにお馴染みのメインメニューを、一つずつ見ていく。
〈ステータス〉
〈装備変更〉
〈ミッション〉
〈クエスト〉
〈フレンドリスト〉
「あ!!」
俺の大声で、宙を見つめていたエイジとミドちんがびくっとしていた。
が、今はそれよりも――
「アリシアは!?」
その一言で、二人も“あっ”という顔になった。
「そうだ! 俺らがここにいるなら、あいつもハルバの小屋にいるはずだよな!」
「うん……! 一人で不安がってるかも……」
二人の言葉に頷きつつ、俺は急いでメニューを操作する。
「連絡取れないかやってみる」
俺としたことがなんたる失態か。アリシアの御身を心配するより先に、ぬくぬくとお着替えしようとしていたなんて。
メインチャットを〈Team〉に設定して、これでいいのかわからないまま、とりあえず声をかけてみる。
「アリシア、聞こえるか?」
その途端、
「うおっ!」
「にゃっ!?」
と声を上げ、両手で頭を守るような格好をとる、エイジとミドちん。
まるで大きな物音に驚いたといった様子の二人へ、何事かと視線を送ると、
「……あ、いや。お前の声が頭に直接きた感じがして、驚いちまった。な?」
「うん、びっくりしたー」
二人は顔を見合わせてそう言った。
「頭に直接……ってことは、チームチャットは成功してるっぽいのか?」
俺の疑問に、エイジが後頭部をさすりながら答える。
「たぶん、な。だけど聞こえていても、アリシアは返事の仕方がわからないんじゃないか?」
それは確かに。
と軽く頷いてから、俺は順序立てた説明を試みる。
「アリシア、これが聞こえているのなら驚かせてすまなかった。俺は今、RSOで言うところのチームチャットで話しかけてるんだ。返事をするには、ゲームと同じで、まずメニュー画面を開こうと念じてみてくれ。そうすれば目の前にウィンドウが出てくるはずだ。あとは、カーソルを〈コミュニケーション〉に合わせるように意識して、メインチャットを〈Team〉に設定してみてくれ。そうすれば、こっちにも聞こえると思う」
俺が長々と喋っている最中、エイジとミドちんは何もない宙に向けて視線を動かしていた。おそらく、今説明したチャットの設定をしているのだろう。
そんな仲間の存在があったからこそ、俺たちはこの得体の知れない状況下でも、なんとかパニックにならずに済んでいる。
だが、アリシアは一人だ。
彼女が現在絶賛抱えているであろう不安を、心細さを、張り詰めた緊張を、少しでも早く解消させてやりたかった。
『……ライネ、よね?』
なんの前触れもなく、脳内に美しい女性の声が響いた。
キャラクターの容姿からリアルの声を推測するなんて土台無理なことなのだが、その声は俺の想像していたものよりも高く、そして鈴の音のように澄んでいた。
(これが、アリシアの声――)
……と、聞き惚れている場合じゃない。
ひとまず安心させなければと俺は口を開く。
「そうだよ。アリ――」
『ねえ聞いてライネ。目の前に本物のハルバハーラ様がいるの……。ああ、ここは天国? ということはやっぱり、この御方が神様だったってことなのかしら……』
俺の返事をかき消して、アリシアは己の世界に夢中になっていた。
ああ……俺は勘違いしていた。彼女は決して一人ではなかった。
その隣に、熱狂的に崇拝する唯一神がいたのだ。
どれほどの異常事態も、それ以上の夢の前では取るに足らない些事になる。
……のか?
「……ははっ、ハルバ信者はたくましかったみたいだな」
「ねー。いつものアリシアで良かったー」
自分たちの思い過ごしに、笑うしかないといったエイジとミドちん。
「まあ、うん……良かったよね」
なんだか腑に落ちなかったが――ここでひとまずの結論。
どうやら俺たちは、四人揃ってRSOの世界に迷い込んだらしい。
それがどういう意味を持つのか。
そこにどういった未来が待つのか。
今はまだ、何もわからないことだらけ。