間章「小惑星ジュノー」
『2032年に小惑星が衝突し人類滅亡!? イギリスの天文家が指摘』
およそ一年前の、2031年――そんな見出しで掲載されたネットニュースは、瞬く間に日本中を震撼させなかった。
それもそのはず。こういった“宇宙からの脅威で人類が滅ぶかもしれない”という話題は、決して珍しいものではなかったからだ。特に、隕石が衝突して人類が滅亡するなんて、もはや映画でも描かれなくなった陳腐なシナリオである。
このニュースも闇雲に危機を示唆するだけで、話題性には乏しかった。
2032年の5月頃、直径20キロメートルを超える比較的大きな彗星が、火星と木星の間に存在する〈ジュノー〉という小惑星に衝突する可能性がある。
仮に衝突した際、当たったのが〈ジュノー〉のクレーター部分であれば、小惑星がバラバラに粉砕される可能性がある。
もしそうなった場合、飛び散った破片が地球に降ってくる可能性がある。
その破片の大きさが直径10キロメートル以上ならば、人類滅亡クラスの大災害になる――といった内容だった。
そんな、もしもにもしもが重なって、さらに広大な宇宙の中からピンポイントに地球を直撃するなんて、まさに天文学的に確率の低い話だ。それを真に受けて騒ぐほうがどうかしている。
ネットニュースのコメント欄も、本気にしている人は誰もいなかった。
またこの手の話題かと呆れる人。冗談で慌てた振りをする人。
そして多くの人たちは、“明日地球が滅ぶとしたら何をして過ごす?”という仮定の話で盛り上がっていた。
だから、〈ジュノー〉なんていう名前が忘れ去られて久しい、2032年の6月20日。日本では午前三時という、深夜真っただ中の静かな時間のこと。
眠れずにベッドでSNSを眺めていた俺は、誰からともなく流れてきたURLを開いて、度肝を抜かれた。
画面の中で、見たことのある各国のトップたちが勢揃いしている。それだけでも十分異様だが、彼らの緊迫した雰囲気から、かつてないほどの異常事態であることが伝わってきたのだ。
俺はベッドから飛び起き、パソコンの大画面でその生中継を見た。
彼らが語った事実は、ネットニュースの何倍も信じがたいものだった。
一年前にイギリスの天文家が示唆した可能性。それは現実のものになっていて、このままであれば隕石は五日後に地球に衝突するということ。
地球に迫っている〈ジュノー〉の破片は予想より遥かに大きく、直径120キロメートルにも及ぶということ。
しかし我々は、人類の英知を終結させた〈ジュノー衝突阻止チーム〉を結成しており、すでに作戦は計画通りに進行していて、絶対に成功するだろうということ。
従って、これから数日間は空が騒がしくなるが、心配は無用であり、みなさんはいつも通りの生活を続けて欲しいということ。
全世界生中継が終わったあと、日本の首相が改めて自国民に向けて、しきりに汗を拭いながら説明をした。
俺は唖然とするしかなかった。その言葉の意味は理解できても、頭の想像が追いつかない。何より、そこで語られたことが真実だとしても、ただの会社員である俺にはなんの力もなかった。できたことと言えば、離れて暮らす両親に電話を入れるくらいだった。
やがて夜が明けて――
多くの日本国民が寝耳に水となった午前七時頃。
こういう時のマスコミの機敏さには目をみはるものがある。その日は日曜だったというのに、配信された映像内容を解説する特番が全チャンネルで放送された。
俺はその中でも最低限の人物しかおらず、ごちゃついてない番組を見ていた。
実は一か月も前から政府は隕石の接近を把握していた、という批判から始まり、続いて誰もが気になっていた“実際のところ隕石の衝突阻止は可能なのか?”という質問が、スタジオに招かれた天文学者に向けられた。
『無理ですね』
淡白な表情のまま、男は率直に答えた。
刑事物のドラマに登場する、“頭はいいけれど少々常識がなくて厄介がられている人物”――といった雰囲気の男だった。
『む、無理……ですか?』
困惑した様子の女性キャスターに、彼は重ねて言う。
『はい、無理です』
男の断言に、騒然とするスタジオ内。
俺も瞬きを忘れて、食い入るようにモニターを凝視していた。
急遽作られたらしい簡易的な3D映像を使い、学者が説明を開始する。
『まず隕石衝突の回避方法ですが、大きく分けて、粉々に粉砕してしまうか、軌道を逸らすかの二つがあります。どちらも隕石に対して絶大なエネルギーをぶつける必要があるわけですが、今回の隕石〈ジュノー〉は少しばかり大きすぎますね』
女性キャスターが補足を入れる。
『直径120キロメートルということでしたが……』
『はい。遥か大昔に地球に衝突し、恐竜を絶滅に追い込んだとされる隕石が、直径10キロメートルから15キロメートルと言われているんです。その程度ならまだなんとかなったかもしれませんが、〈ジュノー〉はおよそ十倍ですからね。物体が大きければ大きいほど破壊や軌道を逸らすのが困難だということは、感覚としてもわかるかと思います』
『……とある映画では、隕石に降り立って穴を掘り、その中で核爆弾を爆発させて破壊していましたが……』
『隕石に穴を掘って地中深くで爆弾を爆発させる――というのは、エネルギー効率的には一番の方法ですが、それも無理でしょうね。〈ジュノー〉の嫌らしいところはその大きさもそうですが、速さだって恐ろしく速いところなんです。
秒速28キロメートル。時速にして約10万キロメートル。これは一時間で地球を二周半できるほどのスピードです。この速度で迫る物体に宇宙船で張り付こうとするのも困難ですし、できたとしても中の人間は圧死してしまうでしょう』
『……では、実際に行われる〈ジュノー衝突阻止作戦〉はどういったものになると予想しますか?』
『〈ジュノー〉の表面に向けて、あらん限りの核ミサイルを撃ち込むと思います。ただ、この土壇場においても、各国が持ち得る兵器を全て公開し、全力で協力するかは疑問ですし、仮に世界中の全ての兵器をぶち込んだとしても、〈ジュノー〉の軌道を逸らすのに十分なエネルギーの1パーセントから、せいぜい10パーセントといったところではないでしょうか。
大きくて速いほど運動エネルギーは強くなりますからね。“彼”に勝つのは、相当に厳しいと思います』
『……では、あの映像で言っていた、絶対に成功するというのは……』
キャスターの質問に一度肩をすくめた学者は、飄々とした態度のまま答える。
『その言葉の意味を白日の下に晒すのは、僕には憚られますね。彼らは彼らなりに絶対に成功させるつもりでこの件に取り組んでいる、ということでしょう。
五年――いや、せめて三年早くこの事態を予知していれば、こちらから先んじて〈ジュノー〉を破壊するなりできたのでしょうが、まあこれは言っても栓のない話ですね』
諦観した感じの男の言葉に、放送事故と言ってもいい沈黙が降りる。
そこで、おずおずとした様子で女性キャスターが口を開いた。
『……あの、突拍子もない話なんですが……』
『はい』
『例えば……月を地球の盾として使えたとしたら、衝突は防げますか……?』
唐突に出された、まさに突拍子もない案に、
『おお、それはとてもいい発想ですね』
天文学者の男は初めて表情を変えて微笑んだ。
『月ほどの質量であれば、盾として十分に成り立つと思います。まあ衝突時の月や〈ジュノー〉の破片が、結局地球を襲ってしまう可能性は否めませんが、現状よりはマシになるかもしれません。
ただそれも、月を自在に操れる魔法使いでもいればの話ですが』
『そうですよね……失礼しました』
しゅんと頭を下げる女性へ、男は微笑んだまま続ける。
『いえいえ。先ほど衝突回避は無理だと断言しましたが、僕としたことが見落としがありました』
『……と、言いますと?』
『悟空やアラレちゃん並の力を持った人物や、ドラえもんと知り合いの少年がいるかもしれないという可能性です。僕は漫画やアニメを見るほうなんですよ。
そうだ、アクセラレータか、彼と同じ能力を持った人がいれば、一番綺麗に解決できそうですね。知っていますか? アクセラレータ』
と、一人で楽しげに語る学者の男。
一方、狼狽えた女性は、スタッフに困惑した視線を送りながら言う。
『えっと……あの、冗談ですよね?』
『もちろん冗談ですよ。ですが、もはや冗談を言うことくらいしかできないのが、今の状況なんです』
そう口にする男は、すでに悟りを開いているのか、穏やかな表情を崩さない。
対して、それでも何かあるのではないかと縋るように、女性が訊く。
『……衝突が止められなかった場合、私たちはどうすればいいのでしょう……?』
『どうすることもできませんね』
即答だった。
『軌道が塵ほども変わらなかった場合、衝突する場所は中国の北東部になると予測されていますが、たとえ地球の真反対になるアルゼンチン付近に逃げたとしても、地表が津波のように襲ってきます。地球上に逃げ場はありません』
『……では、火星や月に逃げるといった方法はどうでしょうか……?』
『延期に延期が重なり、未だ実現していない火星移住計画ですが、事ここに至れば急ピッチで準備が進められているでしょう。ただ、現在の地球と火星の位置関係は火星に向けてロケットを発射するには適していませんし、付け焼刃のような状態で実行しても、成功は厳しいかと思います。
月の場合はまだ望みがあるでしょうが、補給物資を送る地球自体がダメになってしまいますからね。悪夢が多少長引くだけではないでしょうか』
『なるほど……』
スタジオの空気。そしてそれを見ている俺の気分も、暗く憂鬱になっていく。
衝突は止められない。
逃げ場も存在しない。
ならば、どうあがいても死ぬしかない。
そんな少し先の未来を淡々と語る男は、しかし衝突の瞬間よりも恐ろしいことが起きるのではないか、と危惧する。
『番組の冒頭で、これまでこの事実を公表しなかった政府への批判の声がありましたが、僕としては最後の時までだんまりを通しても良かったのではと思います。
他局でも似たような話が放送されていると思うので、僕も楽観を排除した現実的な予測を述べたわけですが、やはり知ったところでどうしようもないことですからね。それなら知らずに済んだほうが、まだ幸せだったかもしれない。
あるいは――』
男の瞳がカメラを真っ直ぐに捉える。俺はじかに見つめられているような緊張感に縛られたまま、彼の切実な声を聞いた。
『あるいは、人類を信頼してこのタイミングで公表したのかもしれません。
25日の午前三時までは、まだ四日以上残っています。それは、穏やかに最期を迎えるための準備期間としては、十分ではないかもしれませんが、当日までの身の振り方をよく考え、正しい判断をすることはできるはずです。
ですからどうか……人としての誇りを少しでも持っているならば、決して自棄を起こさず、平穏を保つことに努めてください。
25日を待たずして世界が恐ろしいことにならないよう、僕は願っています』
深々と頭を下げる天文学者の男。
彼の沈痛な姿を見ていられず、俺はモニターの電源を切った。
その日の昼過ぎからだ。
男の願いを裏切る形で、国内は大荒れの模様となった。
国会議事堂前や首相官邸前に押し寄せるデモ隊の映像――彼らに関しては、事実を隠していたことへの批判の訴えや、正しい情報の開示を求めるといった明確な目的があったため、まだ秩序の中の行いと言えた。
しかし、次第に歯止めが利かなくなったのか、お金を払わずに物を持ち去ろうとする人が日本各地で現れ始める。それは交通機関にしても同じで、当たり前のように無賃乗車する人が出てくる。
そうすると、律儀にルールを守っている人との間でいさかいが起こる。流血沙汰の殴り合いも勃発していく。
窓ガラスが割られたコンビニ。
車同士が衝突した事故現場。
口論している若者と警察。
救急車で運ばれる女性。
悲惨な現実を映し出すライブ映像が、次々と切り替わっていく。
別のチャンネルでは、いきなり見知らぬ男が厨房に入ってきて暴れ、ボヤ騒ぎになったという飲食店が映し出されていた。憮然とした店主に話を聞くリポーターとカメラマン。そこへイライラした様子の青年が現れたと思ったら、突如リポーターに殴りかかった。
乱れる映像。怒声と悲鳴と苦悶の声。何を言ってるのか聞き取れない音声と物音だけが届く状態になると、中継はスタジオに戻された。
悲痛な面持ちの男性キャスターが、優しく言い聞かせるように口を開く。
『みなさん混乱の極みにあると思いますが、どうか馬鹿なことは考えず、他者を傷つけず、こんな時だからこそルールを守って穏やかに過ごしましょう』
その夜、複数のサイレンが巻き起こす大合唱は一度も途切れなかった。
混沌は日が変わっても収まらず、むしろ日を増すごとにひどくなる一方だった。
隕石の脅威が去るまで会社は休みとする――という報告を受け取った俺は、それなら実家に帰ってくるように、と両親からしつこくせがまれた。就職を期に、俺は四国の実家から関東に出ていたのだ。
帰ってあげたいのはやまやまだったけれど、しかし公共の交通機関が軒並み麻痺していて難しかった。車は免許からして持っていなかった。
結局、両親には申し訳ない限りだが、俺はマンションの一室で一人、運命の日を迎えることに決めた。
タクシーを乗り継ぐという方法があるにはあったものの、こんな時世に真面目に営業してる人がいるかどうかは怪しかったし、連日報道される痛々しいニュースの中には、タクシー運転手が奇声を上げながらアクセルを踏み込み、乗客もろともビルに突っ込んだ、なんてものもあったのだ。
そんな奇行に巻き込まれて死ぬのだけは、勘弁願いたかった。
そういった、普段なら大ごととして扱われるであろう大事件も、もはやまったく珍しいものではなくなっていた。日本中が事件や事故で溢れていた。
警察も全てに対処するのは無理ゲーなのだろう。ネットの『放置されている事故現場スレ』の勢いは、留まることを知らなかった。
ただ、日本は銃社会じゃなかったぶん、海外に比べればまだマシだったらしい。
あちらでは一般人の銃の乱射事件が相次ぎ、それにテロ組織の介入もあいまって戦場と化している都市もあったという。
自分の学校でテロが発生して、それを俺がかっこよく解決する――そんな妄想をしたことは過去に何度もあったけれど、今はただただ恐ろしかった。
そして、世界共通で最も増加が顕著な犯罪が、性犯罪だった。
どうせ人類は滅亡するのだから、と自棄になった人たちが、欲望に任せて女性や子供に暴力を振るう。日本国内でも、その発生件数は前年度の五倍をゆうに超えたという。この三日間だけでだ。しかもそれは警察が把握している数であり、実際の数は考えたくもなかった。
テレビでは一定時間置きに、『女性はできるだけ外出を控え、家にいる時も鍵とチェーンを掛けるのを忘れないように』と警告していた。
それを聞くたびに俺は、世の中はそこまで落ちぶれてしまったのかと気分が重くなった。
(こんなクソみたいな人類なら、滅んで正解なんじゃないか)
割と本気で、そう思った。
運命の日まであと一日と迫った、2032年6月24日。
世界各国で同様の変化が起こった。
もはや収拾不可能と思われていた騒乱と混沌が、一斉に落ち着いたのだ。
まるで好き勝手に暴れ回った子供が、やっと疲れて眠ってくれたみたいだ。
そんな風に考えたところで、俺はふと古い友人の言葉を思い出した。
『労働のあとの心地良い疲労感は人の心を広くする――って格言は本当なんだな。いつも上から目線でムカつくバイトの先輩も、今日のピークが終わったあとだけは労ってくれたぜ。いっつもああならいいんだがなー』
フレンドになってまだ半年といった頃――
愚痴のようにこぼしていたエイジの台詞だった。
実際に行われたのは労働じゃなく暴動だったし、そのあとに訪れたのは虚無感と罪悪感だったかもしれないが、ともあれ人は、疲労感には勝てない生き物なのかもしれない――なんて思うのだった。
同時に、今日RSOにログインすればもしかしたらヤツに会えるのではないか、と思い至る。
20日の映像以降、〈ジュノー衝突阻止チーム〉からの声明は上がっていない。つまりそれは、作戦がまだ成功していないことを裏付けている。あるいは、すでに失敗したあとなのか。
きっと映画で見るような、壮大なドラマがあったのだろう。もしくは、これから起こるのかもしれない。だけど、そんなスーパーヒーローの登場を本気で期待している人は、ほとんどいないだろう。この数日間で隕石についてかなり詳しくなった国民は、その阻止の難しさを十分に理解していたから。
『小惑星の名前の〈ジュノー〉ってさ、6月の女神の“Juno”から来てるらしいね。それが6月に落ちてくるって、なんか運命的じゃない? そりゃあ俺も悲しいし、寂しいけどさ、流石に運命相手じゃ勝てっこないし。それならまあ……受け入れるしかないよね。うん、受け入れようぜ!』
それは、動画サイトで一番チャンネル登録者数が多い人物の言葉だった。
その影響がどれほどあったのかは知らないが、久しぶりに外に出た俺は、街行く人々の表情からある種の晴れやかさを感じ取っていた。
きっとみんな、“明日世界が滅ぶとしたらどうする?”という問いかけの答えを、健気に実行中なのだろう。
家族とともに過ごす人がいれば、恋人とともに過ごす人もいるだろうし、ペットとともに過ごす人もいるだろう。
好きな景色を見て過ごす人。
好きな音楽を聴いて過ごす人。
好きな本を読んで過ごす人。
好きな歌を歌って過ごす人。
好きなアニメを、映画を、ドラマを視聴して過ごす人。
はたまた、好きなゲームをプレイして過ごす人だっているだろう。
まだ無事だった自販機で好物の炭酸飲料を手に入れた俺は、その引力に導かれたように空を見上げた。
昏さを帯びていく北西の空に、ひときわ強く輝く星が見える。
同じように立ち止まり、空を見上げる人たち。
世界は止まったかのように静かで、穏やかだった。
夜になって、その時を眠って迎えるという両親と最後の長電話をした。
生んでくれてありがとうなんて言葉を初めて伝えたし、生まれてきてくれてありがとうなんて言葉を、記憶にある限り初めて言われた。
胸が熱くなって、電話を切ったあともしばらくぼうっとしていた。
気づけば日付が変わっていて、俺は慌ててRSOを起動させた。
ログイン画面で俺を出迎えたのは、五年前から何も成長していないライネだ。
(じゃあ俺は、この五年で何か成長できただろうか?)
そんな無意味な自問をしつつ、〈ログイン〉と書かれたボタンを押す。
そして、三人の仲間と感動の再会を果たした俺は、間もなく――