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それは丸二日という短い期間で終わりを迎えることになったが、新たに始まった三人での生活は、俺が忘れて久しい穏やかな時間だった。
大きな変化として、まず食事の在り方が挙げられた。もそもそと腹に物を詰めるだけだった作業が、ナエが手作りしてくれるようになったおかげで楽しい食卓へと生まれ変わったのだ。
小さな手によって〈調理〉され、テーブルに並べられていくキノコ料理たち。
もちろん実際の複雑な工程とは違って、この世界の〈調理〉は素材と器具を選択するだけでいい。すると少女の前に器具がぽわんと出現して、その器具を扱う動作を体が勝手に繰り返して――それで料理が完成する。
そんな単純な作業でも、ナエは鼻歌を歌いながら楽しそうにやっていた。そして楽しそうに作っているのを見たあとだと、平凡なキノコシチューも違った味わいに感じるから不思議なのだった。
自分だけの部屋を持つのが夢だった――とナエが呟けば、俺とアリシアはすぐにログハウスの一画を明け渡し、自由にレイアウトしていいと告げた。
マイホームの中は、仕切りになっている壁すらも自在に変更することができる。ああでもない、こうでもないと、建築デザイナーのように頭を悩ませるナエの様子を見るのは、俺たちも楽しかった。
約束していたレベル上げにも行った。この世界でのレベル上げは、俺とアリシアが72になったあの時以来だった。
パーティの構成が〈パラディン〉〈ウィザード〉〈モンク〉と攻撃に偏っているのは致し方なかった。“俺がやられる前に何とか敵を倒してくれ”作戦でモンスターとぶつかり、一戦終えるごとに休憩が必要だったが、それもまた一興だった。
休憩用の焚き火を囲みながら、いろいろな話をした。途中、俺がRSOを作っている会社に勤めていたことを教えると、ナエは崇拝するようなまなざしを向けて、こんなすごいゲームを作ってくれてありがとう、とお礼を言ってきた。
嬉しい言葉だったが、俺は終盤の開発にちょこっと関わっただけで本当にすごい人たちはほかにいるんだ、と告げて、ささやかな誤解を解いた。
でもお兄ちゃんもすごいよ――そう言ってくれたのは、少女なりの優しさだったのかもしれない。
それ以外の時間を利用して、学校の授業の真似事みたいなこともやってみた。
教師はもっぱらアリシアで、俺は出来の悪い生徒役を演じる。今やタブレットやパソコンを使わない小学校のほうが珍しい時代だが、生憎この世界にそんなものはなかった。
だから俺たちは、ホワイトボードを使って授業をした。教えるのは漢字や算数がメインで、合間にRSOの歴史も挟んだ。歴史といっても、仕様変更やプレイヤー視点での話が主で、ストーリーにはあまり触れないでおいた。
ナエはメインミッションには手をつけてなかったらしいので、今後やる可能性を考えてネタバレに配慮したのだ。
ナエは最初の印象通り利発的で、どんどん知識を吸収していった。
そうやって、姑息な手段を講じて気を紛らわそうとするのではなく、自然な会話と能動的な行動のうちに時間は流れていった。まるでRSOに熱中していたあの頃みたいに、気づけば陽が落ち、気づけば空が明るんでいた。
出会って二日目の夜――ナエが控えめに言った。
「ねえ、三人で一緒に、川の字になって寝たらダメかな……?」
それはおそらく現実でも望み、されど叶わなかった夢だったのだろう。
少女のそんな慎ましやかな頼みを、無下にするつもりなんてなかったが、しかし俺は、アリシアと同じベッドで寝るという事態に完全に腰が引けていた。
どうしたものか……とアリシアに視線を送ると、
「いいわ。ナエちゃんを真ん中にして、三人で一緒に寝ましょうか」
彼女はこちらを見もせず、呆気なく了承してしまった。
複雑な表情で固まっている男はさておかれ、アリシアとナエはお揃いのパジャマっぽいシャツに着替え、並んでキングサイズのベッドに身を預けた。
アリシアの反対側に、俺はいつもの浴衣姿でおずおずと寝転ぶ。
ベッドの上、男女二人――ではないので、まあ何かが起こるはずもないのだが、それでもやっぱり意識してしまうのだった。
「そうだナエちゃん。明日はこの世界で一番すごい人のところに行ってみない?」
「一番すごい人? って誰?」
天井を一心に見つめる俺の右側から、そんな会話が聞こえた。
アリシアが“すごい人”と呼称する人物なんて、一人しか考えられない。
確かにこの二日間は、ハルバの小屋に行く時間も惜しんでナエと過ごしていた。だからこの辺りで、観光がてら会いに行こうと思ったのかもしれない。
「どんな人かは、明日会ってからのお楽しみで」
「わかった、楽しみにしとく!」
「じゃあ朝ご飯を食べて、9時になったら出発しましょうね」
「うん!」
(俺も子供の頃、家族と出かける予定があるとその日が待ち遠しかったな……)
明日は晴れますように――と目を閉じてお祈りしてみた。明日の天気を気にするなんて、この世界に来て初めてのことだ。そう思うと何だかおかしくて、少し噴き出してしまった。
「どうしたの? お兄ちゃん」
顔を右に向けると、ナエが不思議そうに見ていた。俺は笑って誤魔化す。
「いや、なんでもないよ」
「うん?」
「明日は晴れるといいな」
俺が言うと、ナエは元気いっぱいに返事した。
「うん!」
* * *
朝食にナエお手製のサンドウィッチを食べ、俺たち三人は予定通りの9時にログハウスを発った。この世界に神様がいるかどうかはともかく、天気は快晴だった。
木漏れ日の中を、三人で仲良く歩く。
そういえばこの小道はアリシアが一人で作ったんだよ、とナエに教えたら、お兄ちゃんは手伝ってあげなかったの? と責めるように言われてしまった。
それにアリシアが悪乗りして、みんなお金稼ぎに夢中でね……、なんて悲しげな声を漏らす。
慌てて俺が真相を告げると、アリシアは一転して笑顔になり、それを見てナエも楽しそうに笑った。
「なんか、げんそーてき……」
古びた小屋と咲き乱れる無数の光を前に、ナエはそんな感想を口にした。
「綺麗でしょう? でも、住んでいる人はもっと綺麗なのよ」
「本当!? 早く会いたい!」
ナエの言に従ってさっそく中に入ると、ハルバハーラは飾られた彫像のように、相も変わらずそこにいた。いつもの椅子にいつもと同じ格好で腰掛け、無心で本に目を落としている。
その視線が、おそらく二日ぶりに上がった。
とことこ近づいてきた少女に反応したのだ。
「こんにちは。お邪魔してます」
礼儀正しく挨拶するナエ。
無礼にも挨拶を返さず、
「世界が安定を取り戻したのは、キミたちヒトの力によるものだ。私はほんの少し知恵を貸したに過ぎない。これからの未来をどう創ってゆくのか、それはキミたちの手に委ねられた。日々悩み、研鑽して生きたまえ」
と、まったく関係のない講釈を垂れる大賢者。
本当に無礼なのは、他人の住み家を観光目的で訪れている俺たちのほうだが……この辺のシュールさは、この世界では如何ともしがたく、こういうものだと受け入れるしかなかった。
ナエは村で生活していたからか、NPCの挙動には慣れているらしい。
「すごく綺麗でかっこいい人だね!」
賢者の長台詞を聞き流して、そう褒めたたえた。
となれば、アリシアが自分のことのように喜ぶのは確定的に明らかで、
「ナエちゃんは人を見る目があるわ。しかもこの御方は、魔法の腕も超一流でね。レベルで言ったら120はあるんじゃないかしら」
「120!?」
特に根拠のない妄言に、ナエは本気で驚いていた。
「ま、全力を出した時の俺と同じくらいだな」
という俺の冗談は、二人から同時に「はいはい」とあしらわれてしまった。
お姉ちゃんの影響を受けて、すくすくと育っている少女だった。
さて、この小屋を訪れるため、わざわざ予定まで立てた俺たちだったが、ここはレジャーランドと違って遊べる場所がなく、見るべきところもあまりなかった。
ナエは煮えたぎる大釜を覗き込むと、続いて壁一面の本棚の前に立った。
「私知ってる! こういう本棚には隠し扉があるの!」
それは、俺にとってデジャブを感じる台詞だった。
「……」
あの日の調査の思い出に浸る男をよそに、小さな探偵は本を数冊ずつどかして、あるかもしれないスイッチの在り処を探し始める。
しかし、そんな都合のいいものは存在しないのだ。
達観したような気持ちで、俺は幼い探索者を見ていた。
ナエは、一番下の段を調べ終わったところで飽きたのか、おもむろに一冊の本を手に取ってページをめくった。
「ねえお兄ちゃん、これなんて書いてあるの?」
小首を傾げて訊いてくるナエに、俺は苦笑いしつつ身も蓋もない仕様を告げる。
「RSOの本は、この世界のオリジナル文字が書いてあるんだ。雰囲気とか世界観を出すためにね。でもこれは適当に並べられてるだけだから……残念だけど読んでも意味はないよ」
(もしかしたら、アリシアならまだ読めるだろうか?)
そう思いつつ本を覗き込んだ俺は、己の目を疑うことになる。
「これは……。ナエちゃん、この本はどこにあった?」
ナエが本棚の一番下を指さす。
「ここにあった本の裏に、これだけ隠してあったよ?」
(最下段の本の裏――ゲーム時代のプレイヤー視点では絶対に見つけられなかった場所に、これが……?)
「……ごめん、ちょっと貸して」
俺はナエから本を奪い取った。いや……これは本じゃない。書類をまとめる時に使うファイルだ。その中に書かれているものを、まじまじと見つめる。
「隠してあったって、何が書いて……、英語?」
ファイルを覗き込んできたアリシアが言った。
確かに英単語は書いてある。だが、それ以外にも複数の記号が目立つ。
「これは、プログラムだ……。だけど、何の……?」
多人数で扱うことを前提としていないプログラムほど難解なものはない。注釈のコメントもゼロとなれば、なおさら解読は困難だ。
(というよりこれ、わざとわかりにくくしているんじゃないか……? おそらく、何かをした時、ハルバハーラが何かをする……?)
俺は解読を諦めて、紙をめくる。ファイルに挟まれているそれは数枚しかなく、すぐに最後のページに辿り着いた。
「――――」
俺の目は極限まで開かれた。
最後の行に、それまでとはまた違う種類の言語を見つけたのだ。
【コードを入力せよ[ ]】
「アリシア……ペン、持ってるか?」
「え、ええ。あるけど……」
ホワイトボード用の赤ペンを受け取り、まさかとは思いつつペン先を当てる。
書き込んだのは、会社の決まりで出社時に毎回打たされる、12個の英数字。
俺の社員コード――。
直後、俺の周囲に青い閃光が降り注いだ。
それが転移のエフェクトだと気づいた時には、俺の体は透明になっていて――
「ライネ!?」
「お兄ちゃん!」
愕然とした表情でこちらを見つめる二人――
その名を呼び返す暇さえ与えられず、俺の視界は白に染め上げられた。
* * *
強制転移によって招かれたエリアは、狭く、薄暗く、そして見覚えがなかった。
俺も知らないエリアが存在した。それだけでもかなりの異常事態だ。
だというのに、さらに見知らぬ人物が一人、物言わぬ姿で佇んでいたのだった。