2-6
この日は珍しく雨が降っていた。ほどよい雨音は、心を落ち着かせる効果があるらしいが、それは人にもよるのだろう。
人によっては、憂鬱な気分になる場合もあるのだろう。
この雨音が今の俺に与えている効果は、そのどちらだろうか――。
俺は〈アズマデン〉にある旅館の縁側に腰掛け、雨に濡れて色濃くなった枯山水を眺めていた。その幾本もの溝を視線でなぞりながら、けれど頭の中では、地下都市を出発してからの四人で過ごした日々に思いを馳せていた。
これから語るのは、『未知のクエスト調査計画』の全容。
そして、この世界の欠陥についてである。
* * *
この新しい世界を散策しながら、まったり〈アズマデン〉に向かう。
そんな方針が決まり、ハルバハーラの小屋を出たところで、
「それじゃあ、まずはマイホームまで歩くにゃ!」
ミドちんが意気揚々と言った。
「ん? 忘れ物でもしたの?」
ここからマイホームに戻れば目的地から遠ざかってしまう。だから俺は、収納棚にでも用があるのかと思ったのだが、
「チッチッ。違うにゃ~」
ミドちんは指を左右に振って否定した。その憎たらしげな笑みを見る限り、ここで答えを教える気はないらしい。
しかしエイジは、
「なるほど、俺はミドのやりたいことがわかったぜ」
すでに相方の思惑を察したようで、顎をさすりながら頷く。
「むむ」
エイジがわかってるのに自分はわかっていない、というのが納得いかず、俺はマイホームに戻る理由に頭をひねらせる。
「ははは、そんな真剣に考えんでも到着すればすぐにわかるさ。まあ、一つヒントをやるとしたら、大事なのはマイホームに行くことじゃなくて、単にここから移動する必要があるってことだな」
エイジはそう言って周囲の森を見渡し、最後に葉で覆われた空を見上げた。
「――――あ、もしかしてお前ら、ゲットしてたのか!?」
驚く俺に満足したように、現役組だった二人がにやにやする。
そこでアリシアが、
「ねえ、さっきから何の話をしているの?」
しびれを切らしたように訊ねた。
俺は仲間外れにしてるようで悪いとは思ったが、
「到着したらすぐわかるから、楽しみにしてて」
ネタバレするのを控えて、自分が言われたことと同じことを言い返した。
「……ふうん」
しばらくして俺たちは森を抜け、湖に面したログハウスに戻ってきた。空は明るく、穏やかで心地良い風が吹いている。
「やっぱ陽の下のほうが気持ちいいな」
と、伸びをするエイジの手には、いかつい形の角笛が。
「引きこもりのエイジには似合わない言葉だにゃー」
ミドちんの首からは、小さな白いホイッスルがぶら下がっていた。
俺は言う。
「アリシア、〈マウント〉はわかるだろ?」
「もちろん。今のライネみたいに、優位な立場からいい気なることでしょう」
「……あー、えっと……」
即座に鋭い言葉が返ってきて、俺はひるんでしまった。
アリシアはなおもツンとしていたが、一つ息を吐いたのちに再度口を開いた。
「わかるも何も、〈アガルタ〉にいる時に〈マウント〉に乗れるかどうかも試したじゃない」
俺は頷き返す。
〈マウント〉とは、RSOの世界で乗れる動物やモンスターの総称だ。
いずれかのクラスレベルが30になると騎乗クエストが発生し、それをクリアすることでまずは平凡な馬がもらえる。それだけでもフィールドの移動がかなり楽になるのだが、レベルを上げて同系統のクエストを進めることにより、自分で育てた動物にも乗れるようになっていく。
そして最終的には、野生のモンスターを懐かせてペットにする〈テイム〉も可能になり、そのペットに乗ってフィールドを駆け回れるようになる。
――というのが、俺とアリシアが現役だった頃の情報だ。
「そう。だけどアリシアが知ってる〈マウント〉は、地上しか移動できなかっただろ? それが最新バージョンだと、〈飛行マウント〉も登場してるんだよ」
「……それって、空が飛べるってこと?」
質問に答えるよりも先に、ピィィィというホイッスルの高音と、ぶぉぉぉぉぉんという角笛の重低音が同時に鳴り響いた。
まず変化があったのは西の空。太陽を背にして、小さな黒点が現れた。それは、ぐんぐんと大きさを増していき、やがて輪郭と色が判明する。二つの翼と細長い尾を揺らめかせた、青い翼竜だった。
続いていつの間にそこにいたのか、湖の上には翼の生えた美しい白馬が。気品のある動作で一度空を見上げると、水上に軌跡を残しながら滑るように駆けてくる。
どすりと着地して、爪で軽く地面をえぐるワイバーン。
「……おおっ」
その飼い主であるエイジは、感動と恐怖が入り混じったような声を出していた。
一方、ミドちんは上陸したペガサスに駆け寄って、
「きれー!」
純粋な感嘆の声を上げる。
「しかし凄いな……」
この世界でしか味わえない翼竜の迫力と白馬の美しさ――それも凄いのだが、俺が呟いた意味はそれだけではない。
〈飛行マウント〉の取得、すなわち飛行モンスターの〈テイム〉は、高額なエサと希少アイテムが途方もなく必要な上、最短でも半年はかかるというハイエンドコンテンツなのだ。
俺が苦労して手に入れた〈エクスカリバー〉の、二本分にも値する労力。プレイを続けていたらきっと俺も手を出していただろうが、エイジとミドちんの情熱にはあっぱれだった。
「こんなの持ってるんだったら、“あの時”に見せてくれよ」
俺が笑いながら言うと、
「ゲームで見せてもただの自慢にしかならんからな。だが、この世界ならおそらくお前らも乗れるだろ?」
この数秒で慣れたのか、エイジもワイバーンの頭を撫でながら笑った。
(人生が終わるかもって時くらい、好き勝手に自慢したら良かったのに)
だけど逆の立場だったら俺もそうしただろうし、だから俺たちは気が合うのだ。
「お馬さんも二人乗りはできたからね~。ウチのペガサスとエイジのワイバーンに二人ずつ乗れば丁度いいにゃ。――ほらアリシア! こっち来てこっち! この子すっごい手触りがいいよ!」
「う、うん」
翼竜の接近からぽかんとしていたアリシアは、ミドちんに急かされてペガサスのもとへ走った。
「ほんと、シルクを触ってるみたい」
「ね! ずっと触ってたいよね~」
白馬が嫌がらないのをいいことに、楽しそうに撫でまわす女子たち。
そんな感想を聞かされると俺も触ってみたくて仕方なかったが、この男子禁制の雰囲気では、言ったところで無理に思われた。
(ああ、二人ずつ乗るって流れにちょっと期待してしまったけれど、俺はエイジとむさ苦しく、翼竜にまたがることになるのか)
そう諦めた時、
「じゃあ、ウチはあっちのワイバーンに乗るから~」
ミドちんがアリシアに手を振って、エイジのもとへと走っていく――その途中で俺に目を合わせ、ウインクすることも忘れない。
俺は無表情のまま、アリシアから見えない位置で親指を立てて返すのだった。
* * *
「――素敵ね」
アリシアが声を漏らした。
それはそうだ。俺たちは今、ペガサスの背中から異世界を見下ろしているのだ。こんな非現実的な時を過ごせるなんて素晴らしいに決まっている。
「素敵……うん、素敵だ」
何度でも言う。素敵だ。だって俺のすぐ後ろに――うなじに息がかかるほど近くにアリシアがいるのだ。こんな非現実的な時を過ごせるなんて、なんて素晴らしい日だろうか。これだけでもこの世界に来た甲斐が……いや、今まで生きてきた甲斐があったと思えた。
少し離れたところでは、エイジとミドちんを乗せたワイバーンが遊覧飛行をしている。あっちはあっちで楽しんでいるようで、なんというか、観覧車とかカヌーに乗ってダブルデートしているみたいだった。
(……この感じ、いい感じだ!)
一つ悔しいのは、アリシアの腕が腰に回されているにもかかわらず、俺の装備が鎧のせいであまり密着感がないということ。
くそう! 下心が見透かされるのを覚悟で浴衣に着替えるべきだったか……? それとも鎧を脱ぐか……? 今、ここで!? ……ダメだ。それは流石にラインを超えている気がする。……ううむ。こんな風に考えるだけで結局なんの行動も起こさない辺りが、俺のダメなところなのかもしれない。いやでも、そう思って行動を起こした結果がアレだったわけだし――。
「ライネ」
ヒヒン! と俺の代わりにペガサスが返事をして、前進するのをやめた。驚いた俺が手綱を強く引いたせいだ。
「な、なんでしょうか?」
まさか二人きりの時しかできない大事なお話か!? とそわそわしながら訊ねると、返ってきたのは真剣かつ憂いを帯びた声色だった。
「ライネは実際のところ、未知のクエストなんてあると思う?」
「…………」
俺は答えに詰まった。
なんと言い返すか少しだけ考えて、だが結局は嘘偽りない気持ちを告げる。
「……俺は正直、そんな都合のいいものはないんじゃないかと思ってる。俺たちがこの世界にやってきたのは、単なる偶然か、神様の気まぐれか、そんなところじゃないかな。俺の両親の間に生まれたのが、俺だったってのと、同じ感じでね」
だから俺個人の調査のモチベーションは、クエストの発見を期待しているというよりは、暇つぶし感覚でやってる部分が大きい。
「……なるほどね。じゃあ、未知のクエストがあったらいいなって思う?」
「うーん……クエストの内容によるかな。つまらないお使いクエストが増えててもしょうがないし」
「……確かに。じゃあ例えば、クエスト自体はもの凄い高難度だけど、報酬として地球が救える――なんてクエストがあったら?」
思わず俺は息を呑んだ。
「それは……そんなものがあったら素晴らしいね。俺たちは世界を救うヒーローになれるってわけか……。夢のような展開だ」
「でしょう? そんなクエストがあったら、本当に素敵なのに。そしたら私たちはきっといくらでも頑張れるから。……望みは薄いでしょうけどね」
そう言うアリシアの表情は、俺から窺い知ることは叶わない。
ダブルデート気分もつかの間、ノスタルジーになってしまった。
とそこへ、鎧の上からでもわかるほど俺はきつく抱きしめられた。
「……アリシア?」
「飛ばして。なんだか風を感じたい気分だわ」
「――わかった」
俺は手綱を軽く引いて、ペガサスを発進させた。手綱を引くたびに速度は増し、顔面に受ける風圧は強くなる。だが仕様上、目に痛みはなかった。
美しくも合成のような世界――その上空で感じているこれは、本当に風と言えるのだろうか。
わからないものがわからないまま、胸の奥にどんどん積み重なっていく。
* * *
それから俺たちは、道中にあった〈キヌタ〉という小さな村の調査も行いつつ、陸路も楽しみながらのんびりと〈アズマデン〉に向かった。
そうして到着した頃にはすっかり夜が更けていたが、現地で調査を開始していた人々はなおも活動を続けていた。彼らによるとすでに領主館は調査済みで、しかし成果は得られなかったらしい。
調査の計画を緩くする。
そう告げたツァラさんの意に反して、作業に没頭する人は多かった。
元来、MMORPGというのは、その自由度の高さから自分で目標を決めて活動することがほとんどになる。
今月中にレベルをいくつまで上げよう。
お金をこのくらい貯めたい。
今日はどこどこに行ってみよう。
〈製作スキル〉を上げるためにあの素材をたくさん集めよう。
そういったことをプレイできない時間に考えるのもまた、楽しみの一つだった。
だから指揮官がいなくとも、このエリアの調査を今日中に終わらせよう、と自分たちなりに目標を決め、きっちりこなす勤勉な人が多かったのだ。
アズマの調査隊に合流した俺たちは、担当の区画をもらい、自分たちで設定したノルマを守った。その一方で、ミドちんの提案もあって俺とアリシアのレベル上げも手伝ってもらった。
このゲームでレベルを上げる手段はいくつかあるが、最もポピュラーで経験値を稼ぎやすいのは、パーティを組んでのモブモンスター狩りだ。
モブとは言うが、獲物に選ぶのは自分たちよりレベルが5~10は高い格上モンスターのため油断はできない。ソロが苦手なクラスなら、同格のモブモンスターにだって普通に倒される。それがこのゲームのバランスだ。
ちなみにパーティ内のレベル差が10以上あると、いくらモンスターを倒しても経験値が入らない仕組みだったが、RSOには〈レベルシンク〉システムが導入されていたので、パーティ全員のレベルを70に合わせることができた。
「やっと盾として役に立てるな」
俺と同レベルになったエイジが笑う。
「任せとけ。聖剣〈エクスカリバー〉と神盾〈イージス〉の力、今こそ存分に発揮してやるさ」
その言葉に誇張はなく、有りがちなフラグにもならず、真正面からトラの牙と爪を受け止め、そしてアタッカー並みの攻撃力で毛皮を斬り裂いた。俺だって伊達に七年もプレイしていない。このレベル帯であれば最高水準の装備で固められているのだ。
パーティ人数と構成の関係でサクサク敵を倒していくとまではいかなかったが、俺たちは順調に経験値を稼いでいった。
俺たちが到着してから丸三日間続いた、アズマとレベル上げの狩場を行き来する日々。それは調査の完遂をもって終わりを告げた。その間に俺とアリシアのレベルは71になっていた。
似たようなタイミングで四大都市すべての調査が終わったらしいが、残念ながらというべきか、未知のクエストは発見されなかった。
また、〈マウント〉を駆使して〈アトランダム大陸〉の外周を全て走破した猛者もいたが、ゲームの時と同じで見えない壁にはばまれ、それ以上先に行けなかったという報告があった。
こうして一つ一つ、可能性が消えていった。
その後も俺たちは、都市間に点在する小さな町や村、遺跡の調査に赴いた。
探索の合間にも息抜きといった感じでレベル上げは続行され、アリシアのレベルがめでたく72になったところで、
「きたきた――!!」
と、ミドちんがやけに嬉しそうに声を上げた。
「え? なになに?」
レベルアップのエフェクトがキラキラと輝く中で、魔女が戸惑う。
「はいアリシア! おめでとにゃ!」
構わずミドちんは、亜空間から取り出した古びた巻物をアリシアに押し付けた。
「これって、魔法スクロール?」
「そう! これはね、アリシアが引退したあとに追加された、唯一無二のとってもすごーい魔法なんだよ!」
「とってもすごーい……?」
怪訝そうに眉をひそめ、巻物をまじまじと見つめるアリシア。メニュー画面からアイテム名を確認したのか、その正体の名を呟いた。
「〈メテオフォール〉……」
「うん! 隕石っていうと、ウチらにはちょっと縁起が悪いんだけど……でもこれはね、いつアリシアが復帰してもいいように、ウチがカバンにずっと入れてたものなんだ! だからこうしてプレゼントすることができて、すっごく嬉しいにゃ!」
ミドちんは満面の笑みだった。
「……そうなんだ。ありがとうね、ミドちん」
思わぬプレゼント受け取って、猫娘をぎゅっと抱きしめるアリシア。そんな二人を、俺とエイジは大人しく見守っていた。
「ほら、せっかくだから試し撃ちしてみようにゃ! きっといろいろ驚くよ!」
「うん。じゃあさっそく」
手から離れて空中に浮遊した巻物が、アリシアを囲むようにぐるりと開かれ――どこかへ消えていった。魔法を習得したことを表すエフェクトだった。
次いでアリシアはロッドを構え、川岸を歩く罪なき巨大ヤドカリ(しかしレベルは76と凶悪)に向けて言い放つ。
「〈メテオフォール〉」
ゴゴゴゴゴゴという地鳴りのような詠唱音。無属性を示す黒と白の光とともに、〈ウィザードコート〉の裾がひらひらと揺れ始める。
さて、メテオの詠唱が完了するまでの時間がもったいないので、ここでこの魔法のとってもすごーいところを解説しようと思う。
大抵のRPGで強いポジションにある隕石魔法。その実装は、おそらく大勢の〈ウィザード〉が待ち望んでいただろう。しかし彼らの期待に反して、RSO版のメテオは実戦での使用にまるで向かない、非常にピーキーな性能をしていた。
まず、燃費が悪すぎること。なんと術者の最大MPの半分という、破格の消費量なのだ。
次に、詠唱時間が20秒という圧巻の長さであること。それだけ長いなら、単純に考えて詠唱時間が半分である〈アイストルネード〉二発分のダメージが出なければ元が取れないのだが――。
やっとアリシアの詠唱が完了する。空を見上げればこの一帯だけ暗雲が立ち込めていて、その中心から直径10メートルほどの大岩が出現した。それは未だ呑気に歩いている巨大ヤドカリめがけて落下し、辺り一面に派手な地割れのエフェクトを発生させた。
そして、俺たち全員のHPが等しく減少する。
「……え?」
唖然とするアリシア。平穏を邪魔されて怒る巨大ヤドカリ。
「〈プロヴォーク〉!」
俺はひとまず敵の注意を引き付け、盾になった。
「〈ヒール〉! どう? 驚いたでしょ?」
味方に減らされたHPを回復しながら、ミドちんが笑った。
「〈ファイアストーム〉……これって、無差別攻撃なの?」
攻撃を加えながらアリシアが問う。
「うん、そうだよ! しかも範囲がかなり広いから、唱えた人も必ず食らっちゃうし、ダメージは頭割りになるっていう、クソ魔法なんだにゃ! でも、派手だったでしょ? 〈ヒール〉!」
「〈ウィンド〉……派手だったけど、MPがもったいないから二度と使いません」
「え~」
ちなみにだが、純粋なダメージで言えば〈アイストルネード〉の何倍もの威力がある。しかしまあ、この仕様では有効に使える場面は皆無だろう。
さらに蛇足で付け加えると、実装当時がっかりするユーザーは多かったものの、数十人の〈ウィザード〉が一斉にメテオを放って、敵味方もろとも全滅するという動画が有名になってからは、ネタ魔法として受け入れられた――なんていう歴史もあった。
実験台にされた可哀想なヤドカリの処理を終わらせ、俺は聖剣を鞘に戻す。
「なあエイジ。お前から俺には何かないのか? メテオみたいなプレゼントがさ」
今日はずっと静かな親友が気になって、軽口を投げかけた。
しかしヤツは、
「…………」
どこを見てるかもあやふやな視線で、ぼうっと突っ立ったままだった。
「エイジ……? 聞いてるか?」
「……あ? ああ! メテオすごかったな! やっぱこの世界で見ると迫力が違うぜ。つっても、〈ジュノー〉のほうが格段にヤバかったけどな。ははは」
「う、うん……。そうだな」
「それより、ライネのレベルもさっさと72にしちまおうぜ」
「……ああ、わかった」
湧き上がる不安な気持ちを抑えて、俺は平静を装って頷いた。
この世界に来てから何度か戦闘不能になった関係で、アリシアと差が開いていた経験値。そのぶんを稼いで俺のレベル72になったところで、その日のレベル上げは終わった。
思い返せば、この頃はまだみんな余裕があるほうだった。
地下都市を出発してから9日。〈アトランダム大陸〉に存在する村と町、さらには謎が隠されていそうな遺跡やダンジョンの調査が終わった。
予想に違わず、未知のクエストやエリアは発見されなかった。
ここから先は、いよいよしらみ潰しの調査になった。村や町は全て制圧したが、辺境、秘境を好む変わり者のNPCがまだ残っていたのだ。
とはいえ、終わりが間近に迫っているのは明白だった。何しろこちらの戦力は、睡眠不要で疲れ知らずの肉体を持った人間が200名以上もいるのだから。
ゆえに、『未知のクエスト調査計画』はすこぶる順調だった。
しかし、調査とは別のところで俺たちは窮地に立たされていた。
……この世界には、絶対に無視できない重大な欠陥が潜んでいた。
前述の通り、俺たちは疲れ知らずの肉体を持っている。だけど疲れ知らずなのは肉体部分だけであり、精神的な疲労は避けられなかったのだ。
そして積み重なった疲労は、どんな手を尽くそうとも解消できなかった。
あれは調査が終わる前日のこと。雪山の凍った池にのみ棲息する、幻の魚を狙う釣り人――という設定のNPCに会いに行った時だった。
お目当てのモコモコの服を着込んだおじさんは、ゲームの時と変わらず、
「今日こそ釣ってみせるぞ」
と意気込むだけだったのだが――。
その帰りに、エイジがぽつりと呟いた。
「……いい加減、疲れてきたな」
と。
俺たちは、誰も励ましの言葉をかけることができなかった。
まったくの同感だったからだ。
当のエイジは呟いてすぐ、バツの悪い顔になっていた。
「いや、こんなこと言っても仕方なかったな……。忘れてくれ」
「ううん、このところずっと頑張ってきたから……疲れるのも無理ないにゃ」
「……そうよ。私たち、十日以上働き続けてるわ。この辺で少しくらい休憩してもいいんじゃないかしら? ねえ、ライネ」
「あ、ああ……」
みんなで一斉に取り繕う感じが、ひどく痛々しかった。休憩と言ってもいったい何ができるというのか。アリシアもそれはわかっていて、でも言わずにはいられなかったのだろう。
俺たちが欲しているのは、何よりも睡眠だ。
この世界の俺たちは、睡眠の必要がない体を持っているわけではなかった。睡眠を取ることができない欠陥品だったのだ。
徹夜明けでつらいなんてものじゃない。もう300時間近くも起き続けていた。ギネスブックの不眠記録である264時間だって、とっくに追い越している。
もちろん現実のそれとは比べようがないことだけど、このままいけば自分がどうなってしまうかわからなかった。
確かに肉体的な疲労は一切ない。どれだけ動いても息は上がらない。体にだるさは微塵もなく、目蓋が重いとも感じない。肌は嘘みたいにつやつやだし、目の下に隈が浮き出ることもない。毒や病気といったゲーム上のステータス異常はあるものの、HPやパラメータに影響があるだけで、この肉体には何一つ関与しない。鼻水も咳も出ないし、お腹を壊すことも、関節が痛くなることも、頭痛に悩まされることもない。体は至って健康だ。
だが……眠れない。
疲れ知らずの機械だって、メンテナンスを怠ればいつか壊れてしまう。
俺たちは睡眠というメンテナンスを行えないまま、塵クズのような精神疲労を蓄積させていく一方だった。
睡眠の代わりに癒しの効果がありそうなものは、思いつく限り全て試した。
例えば、おいしいものを食べる。好きな飲み物やお酒を飲む。
幸いRSOにはたくさんの料理があり、お酒も数十種類が存在していた。しかしこの体は酔うことを許してくれなかった。また、空腹や口渇ゲージをどれだけ空にしても、実際の空腹感やのどの渇きは感じられなかった。だから、やっと飯にありつけた喜びや、お風呂上りに冷たい飲み物を流し込むといった快感はなかった。
現実で最後に飲んだ炭酸以上のおいしさは……どうやっても味わえなかった。
例えば、好きな曲を聴く。
これは音楽データがこの世界にない以上、叶わない願いだった。それでも、例外としてRSOの曲だけは聴くことができた。方法は単純で、〈コンフィグ〉の中にBGMの設定があり、そのつまみをゼロから上げれば、ゲーム内と同じ要領で曲が流れたのだ。なんといっても長年プレイしていたRSOである。思い入れのある曲は多い。
けれど、お気に入りのBGMを流してみても、ちょっとした気晴らし以上の効果は得られなかった。脳内で常に再生されるのも気に障るので、普段はオフにした。
例えば、この世界に存在する雄大な景色を見て回った。
轟音鳴り響く広大な滝の飛沫を浴びた。溶岩湧き出る火口の目の前まで降りた。ジャングルの中で幻想的に輝く湖があった。だだっ広い砂漠に忽然と佇む巨大岩に登った。空中に浮かぶ機械城から、それら全てを見下ろした。
どれも大迫力の絶景で――だけど、何か物足りなかった。
この雪山だって、インドア派の俺では一生かかっても見られなかったような素晴らしい光景だ。夜になればオーロラだって現れる。しかし、マイナス15度という気温設定のこの過酷な環境に対し、俺たちは念入りに準備を重ねたわけでも、危険を冒して登ってきたわけでもない。
やったことといえば、事前に体を温める作用があるドリンクを飲んだだけだ。
たとえそれを飲まなかったとしても、寒さを感じることはなく、状態異常としてHPが徐々に減っていくのみ。万が一HPが尽きた場合は言わずもがな、蘇生してもらうか復活地点に戻ればいい。
そんなだから、当初にあった感動はいつの間にか消えていて、どんな絶景もVRゴーグルで眺めているのような感覚しかなかった。
何であれ、達成感や充実感というものは苦労の先にあるのだ。大した苦労がなければ、それは味気ないものでしかない。登山のドキュメンタリー映画でも見ていたほうが、まだ感動できそうだと思った。
そのほかにも気を紛らわせるためにいろいろ試した。
お手製のボールでスポーツの真似事をしてみた。駒を作ってチェスや将棋をしてみた。子猫のような愛らしい動物を撫でてみた。竪琴を借りて鳴らしてみた。絵を描いてみた。歌ってみた。叫んでみた。
疲労は解消されなかった。
俺たちは、どうしようもないほど疲れていた。
労働のあとの心地良い疲労感は人の心を広くする――いつかのエイジの言葉だ。
ならば、じわじわと降り積もった疲労は、人の心をどう変えてしまうのか――。
「いや……大丈夫だって」
休憩しようというアリシアの提案を、エイジはかぶりを振って拒否した。
「それより、この調査ももう佳境だろ? ぐだぐだ言ってないで、さっさと終わらせようぜ? ……まあ、ぐだぐだ言っちまったのは俺なんだが。ははは」
力なくエイジに、俺は上手く微笑み返せたのだろうか。
「そうだな、頑張ろう――」
そして、各地に調査隊が散らばってから11日が経過して――
シャンデルナ公園に再び集まった俺たちを前に、ツァラさんは宣言した。
『ありがとう。みなの協力のおかげで、この〈アトランダム大陸〉にいるNPC、総勢10,128人にコンタクトが取れた。しかし、残念ながら未知のクエストの発見には至らなかった。これ以上はキリがないから、現時点をもって調査は終了とする。――アタシの妄想に付き合ってくれて、本当にありがとう』
こうして、俺たちの一大プロジェクトだった『未知のクエスト調査計画』は幕を閉じた。
その次の日の、珍しく雨が降っていた午前5時2分のこと。
俺は〈アズマデン〉にある旅館の畳に寝そべって、雨音を耳に入れながら、ぼんやりと天井を見ていた。浴衣の格好も、この場所では似合っている。時間を正確に記憶しているのは、手癖のようにメニューをいじり、時刻を確認していたからだ。
『ライネっ!! アリシアっ!!』
突如ミドちんの声が頭に響いて、俺は飛び起きた。
一瞬で重大な何かが起こったと察せられる悲痛な叫びだった。
『どうしよう……、どうしよう……』
『ミドちん……?』
「ミド? どうした? 何があった?」
応答しつつも、ああ……俺は反射的に理解していた。
ミドちんが呼んだのは俺とアリシアだけで、
ミドちんの叫びに応えたのも、俺とアリシアだけ――。
だから、何が起こったのかわかってしまう。
いつかこうなってしまうことは、流石の俺でも勘付いていた。
だけどまだ……昨日の今日じゃないか。
今にも泣き出しそうな声で、ミドちんが不可逆の事実を告げる。
『どうしよう……、エイジが……エイジが消えちゃった……』
R歴58年、4月28日、光曜日、5時4分。
俺たちの終わりが幕を開けた。