第二話
この世界にも夜が来るようだ。
空を見上げると、そこにあるのは紫色の夜空と黄緑色の月。
夜になっても月と空の色が反転するだけで、この目に悪そうな配色は変わらないらしい。
「……やっぱ、夜は暗いんだな」
「当たり前じゃないですか、そんなの」
街の中には街灯の類はほとんどなく、あるのは家々の窓からこぼれる明かりのみ。
それもランプやロウソクによるものらしく、ゆらゆらと揺れて非常に頼りない。
「おまえにとっては当たり前でも、俺にとっては夜でも明るいもんなんだよ」
「勇者様、私の事は『おまえ』じゃなくて、メルって呼んでください。でないと、返事しません」
さっき、してたじゃねーか。
「おい」
「つーん」
俺の隣でそっぽを向いてるのは、俺をこの異世界へと連れてきた張本人。
メルー……何つったっけ?
まあいいや、メルと呼べって言うんだからメルでいいだろう。
「こら」
「つんつーん」
いちいち擬音を口に出すなよ。
ったく、しょうがねーな。
「……メル」
「ひゃっ!? ひゃいっ! 何でしょうか、勇者様!」
いや、おまえ、何だそのリアクションは?
何故、そこで声が裏返る。
俺の冷たい視線に気付いたのか、メルが言い訳がましく弁解し始める。
「い、いえ、まさかあっさりと名前で呼び始めるとは思わなくて……」
てっきり、『見習い』とか『お子様』とか呼ばれると思っていたらしい。
コイツがどんな目で俺を見てるかが良く分かるセリフだな、おい。
「そ、それに、あの……」
メルが顔を真っ赤にして、言いよどむ。
嫌な予感がしたが、ここまで来たら聞いておくべきだろう。
「何だよ?」
「……男の人に名前を呼び捨てにされるのって、結構恥ずかしいんですね。初めて知りました」
こ、このガキは……。
俺はメルのほっぺたを摘むと左右に引っ張る。。
「お前みたいなガキを女とは呼ばないんだよ! もう少し、ドーンとかバーンな感じになってから言いやがれ!」
「ひ、ひろいでふぅ。わらひ、もうころもじゃないれすう」
おーおー良く伸びんなー、このほっぺた。
拙い言葉で必死に抗弁するメルを無視してほっぺの感触を楽しむ。
すると、彼女は思わぬ反撃に出て来た。
「ゆーひゃはまもこーしてやう」
「ふむっ! みゃさか、ほれのこーげきをしゃかてにとられるとは」
俺の両手が塞がっているのを良いことに、メルの両手が俺のほっぺたを捕らえる。
だが、力の強さでは俺の方が断然上だ。
「こーにゃったらもう、どっちぎゃさきにゅてをはなしゅかしょうびゅだ!」
「のじょむところれす!」
彼女の身体は小さく華奢で、背も低い。
ついこないだまでランドセルを背負っていたとしても不思議ではないくらいだ。
対して俺は日本人の平均身長よりもやや高い。
メルとは頭ふたつ分は差がある。
よって、リーチの差で俺の勝ちだ!
彼女に気付かれないようにゆっくりと背伸びをしていく。
案の定、俺の手は固定されたままで彼女の手がジリジリと滑っていく。
ずっと無言だった少女がそれに気付いたらしく、声を上げる。
「あー! ひきょーれすよ、ゆーひゃひゃまー!」
「はっはっはー! じべたにはいじゅりまわってまきぇをみとめるがよいわー!」
メルの手が俺のほっぺたからゆっくりと滑っていく。
俺が勝利を確信した瞬間、背後から突然の声。
「何をしてるんです、あなた方は……」
呆れるような若い女性の声に驚いて、思わず手を離す。
「「あっ」」
その時、メルと俺の声が重なった。
「くっそー、あと少しだったのに……」
ひりひりするほっぺたを押さえながら、地面にひざまずく俺。
一方の対戦相手は飛び上がって喜び、俺の敗因となった若い女に抱きついている。
「アローラのおかげで勝つことが出来ました! さすが、私の親友です!」
この女が前に話していたアローラらしい。
一言で言うと、美人だ。
少し切れ長の目が冷たい印象を与えるものの、美しい顔立ちであることは間違いない。
長い黒髪を後ろでまとめ、凛とした涼やかな雰囲気をかもし出している。
この点はお日様のような雰囲気のメルとは対照的だ。
背は俺より少し低いくらいか。
すらっとした体型でありながら、出るトコは出てる。
メルと同じような装飾の体型が分かりづらい服装でありながら、そこまで分かるのはメルの頭がちょうど胸の辺りに埋まっているためである。
両手は腰回りをがっちり捕らえているし。
正直、メルがうらやましい。
「……メル、メル。もうわかったから離れなさい」
俺の視線に気付いたのか、アローラがメルの両肩をつかんで剥がす。
でも、もう遅い。
今の光景は俺のメモリーにしっかり焼き付かせてもらった。
ローアングルから捉えた、美少女2人の絡み合い。
俺の心のアルバムに深く刻み付けておくとしよう。
「ところで、メル。この男の方は?」
アローラの目は激しく俺を見下している。
口調は穏やかなままでありながら、限りなく視線が冷たい。
一体俺が何をしたというのだろう?
……いや、さっきたっぷりと視姦させてもらったけど。
「はっ?! ま、まさか……」
メルが答えようとするのをさえぎるようにして、突然アローラが狼狽しはじめる。
一体、何だというのだろう?
メルも何が起こったのか分からないという顔で首をかしげている。
「なんてこと……、私が少し都を離れていたばっかりに、メルがこんな男の毒牙にかかるなんて……」
ちょっと待て。
何で俺がこんな子供に毒牙を掛けなきゃならん。
というか、俺がそんな人間に見えるのか?
「こんな事になるなら、さっさと私が……ダメ! ダメよ、そんなの! 神の教えに背くような事……でも」
アローラは俺達を無視したまま、自問自答を繰り返す。
端から見ていると係わってはいけない人にしか見えない。
「アローラ……。私で出来る事なら何でもしますから、元に戻ってください」
メルがそんな様子のアローラに近付き、腕にすがり付く。
勇気あるな、コイツ。
親友と呼ぶのは伊達では無いらしい。
「……何でも?」
「ハイ! 何でもです!」
メルのそんな言葉にアローラの眼の色が変わる。
「じゃ、じゃあ、私とつきあっ……ダメ! 自重しなさい、アローラ! この子の優しさに付け込む様な事をしてはいけないわ!」
再び、自分を叱り付けるように声を荒げる親友の姿に、メルが困惑の表情を見せる。
この女、もしかして……?
「なあ、メル。俺が勇者だって説明してくれ。多分、それで止まるから」
「? はい、わかりました」
何が何だかさっぱりわかっていないメルは首を傾げながら、地面にひざまずいて祈りをささげ始めたアローラに近付いて行く。
「あの、アローラ? この方は、私の勇者様ですよ?」
「ああ、聖女様お許しを…………勇者?」
一言呟いたきり、呆けた様な表情で動きが止まる。
それから、いくらかの時間が流れ、痺れを切らしたメルが再び呼びかける。
「アローラ?」
その呼び掛けに応えるように、アローラは顔を引き締め、メルの両肩を掴む。
「メル! そんな大切な事はもっと早く言いなさい!」
「ご、ごめんなさい」
反射的に謝るメルの姿に、ついつい口を出してしまう。
「お前が勝手に暴走したんだろうが」
「そこ! 今は私がメルと会話しているのです! 外野は黙ってなさい!」
へーへー、そうですか。
俺が黙った事に気を良くしたのか、再びメルに言い募る。
「それに『何でもします』なんて、若い娘が簡単に言ってはいけません!」
「そこに付け込んで、『恋人になってください』なんて言われたら、困るだろ?」
アローラが俺の方をキッと睨み付けてくる。
おー怖い怖い。
「心配しなくても大丈夫ですよ。こんな事、アローラくらいにしか言いませんし、アローラがそんな事言うはずがないじゃないですか」
さっき思いっ切り、言い掛けてたけどな。
「何か?」
「いや、別に」
アローラの冷たい視線を受け流す俺。
メルはそんな俺達の冷戦状態に気付かないまま、一つの疑問を口にする。
「それで、どうしてアローラがこんな所にいるんですか?」
言われてみればその通り。
この女も一応神官のはず。
ならば、勇者と共に旅をしていると考えるのが普通だ。
何故、こんな所に一人でいるのだろう?
「今日から、私が当直なのよ」
彼女はあっさりとそんな言葉を口にした。
「当直って何だ?」
彼女と別れた後、メルにさっきの言葉の意味を聞く。
「祭事を仕切るための当番ですよ」
この世界における神官の役割は二つ。
政事と祭事を取り仕切る事。
政治関係は上位の神官が受け持ち、下位の神官は主に祭事を受け持つのだそうだ。
祭事と言ってもそれほど大層な物ではなく、冠婚葬祭を取り仕切る役目らしい。
つまりは……。
「明日は結婚式の司会だそうです」
いや、違うだろ。
今、めちゃくちゃ神官って位が軽くなったぞ。
俺としては、神主とか巫女さんとか神父をイメージしてたんだが。
「私も早く正式な神官になりたいです。私の今の夢は妹の結婚式を取り仕切ることですね」
妹がいるのか。
そういえば、コイツのこと何にも知らないな。
これから一緒に旅することになるんだし、もう少しお互いの事を知っておく必要がありそうだな。
前を歩くメルの背中を見ながら、そんな事をふと考える。
こうして、異世界で迎えた初めての夜はゆっくりと更けていくのだった。