1-3 おうちデート
「お邪魔します」
「はいはーい、どちらさま……で……」
あまりにも礼儀正しすぎる仕草と貼り付けた笑顔に、空李は言葉を失う。その美貌に驚いたのか、藍乃の無機質さに恐怖を覚えたのか。そのどちらか、あるいは。
「折原藍乃です。鏑木高校に今日転校して、秋月君と同じクラスになりました」
「……あ、そうなんだ!でも何でウチなんかに?もしかして礼が何かやらかしちゃった?」
「いえ、校内の案内や勉強のことを教えてもらったんです。とても親切だったので、もっと親交を深めようと、秋月君のお宅にお邪魔させていただくことになったのです」
呼吸をするように嘘を吐く。平然を事実を捻じ曲げ、都合のいい現実を作り上げていく。彼女にとっては赤子の手を捩るようなことだろう。藍乃の後ろで話を聞いていた礼は、苛立ちを隠せずにいた。
「なるほどね……。もー、礼ったら、お客さんが来るなら先に言ってよねー」
「……ごめん、忘れてた」
「だめよ秋月君、お姉さんを困らせるだなんて」
「どの口が」と言いたい衝動を抑えて、辻褄を合わせるべく嘘をつく。彼女の思うがままに動かされるのは屈辱でしかなかったが、不要な心配を姉に与えたくなかった。礼がそう考えることも、藍乃は容易く理解しているのだろう。
「もっと言ってやってよ折原さん!あっ、あたしは秋月空李。礼の姉やってます」
「空李さんですね、改めてよろしくお願いします」
深々と頭を下げる藍乃の表情は、空李にも礼にも見えない。それでも、どこまでも汚らしい面をしているのだろうと、礼はそればかり考えている。そんな醜い礼を、空李は知る由もない。
「折原さん、先に部屋に行ってて。二階に上がって左の奥の部屋だから」
「あら、あたしはお姉さんとも親睦を深めたいのだけど」
「いいから早く」
「ふふ、照れ屋さんなのね」
それだけ言い残し、藍乃は二階へと上がっていく。自分を玩具のように扱う彼女に、礼は怒りを隠せない。それでも悟られないよう、最大限の演技を顔面に張り付ける。藍乃への怒りは、空李に本性を晒す恐怖には及ばない。
「……礼、いつの間に友達できてたの?」
「……学校の中を案内しただけだよ。友達は大袈裟」
「そうかな?少なくとも、どうでもいい人を家に呼ばないでしょ?」
「勉強の進み具合とかの確認を頼まれた。それだけだよ」
「へぇー?」
弟の交友関係に興味津々な空李は、無邪気な視線を礼に向ける。敵意のないナイフほど、奥底に突き刺さるものはない。
「別に、期待してるようなものじゃないよ」
「ふ~ん?」
「弟が女の子と親密な関係になるのではないか」という空李の期待は全くもって的外れだ。彼が恋愛感情を抱く可能性があるのは、目の前の一人にしかない。
「お茶とかこっちで用意するから」
「はいはい、関係ない人は退散しますよーだ」
さぞ残念そうに諦める空李。空李の根本が礼への愛情であるため、藍乃の侮辱とはわけが違う。だからこそ礼が空李に殺意を向けることはない。これが藍乃なら、今頃彼女は無惨に引き裂かれていただろう。
「はあ、憂鬱」
冷蔵庫から麦茶を取り出し、氷も入れずにグラスに注ぐ。皿の上には湿気た煎餅。気遣いの感じられない形式だけのもてなしをお盆に乗せて、礼は階段を上がっていく。
*
「客に対するもてなしとしては下の中ね」
「客だったらな」
「ねえ、あなたは私を何だと思っているのかしら?」
「何か思われているとでも思っているのか?」
粗末な菓子をつまみながら、礼と藍乃は会話をする。主に藍乃が話題を提供し、それに礼が返答する形式になっているが、どうしても一方通行になってしまう。その様子を、にこやかに話す藍乃と張りのない礼の声が物語っている。
「あなたって、意外と口が悪いのね」
「俺の何を知っているつもりだ」
「ああ、そうね。出会ってから1日も経ってないものね」
「なのに家に押しかけられるのかお前は」
礼にとって、彼女の行動は何から何まで不可解だった。教室で目を合わせた瞬間も、面識のない礼に対してあそこまで情熱的で猟奇的な眼差しを向けられることがおかしかった。そして、話したことも、大した関わりのないはずの彼女が、当然のように押しかけてくる。単なるストーカーならいいものの、個人情報を握られていたとしたら。
「まあ、親御さんに対して失礼かとは思ったわ。そう言えば親御さんは?」
「答える義務もないだろ」
「ええ、答える必要はないわ」
それはどういう意味だ、と聞きたい衝動を必死に抑える。聞いたところで、返ってきた返答が望むものだという保証はない。むしろ、礼が最も望まない結果を与えるだろう。それが、どこか恐ろしい。
「……で、何で家に来た?」
この時間を終わらせたい一心で、礼は声を絞り出す。
「そうね。『あなたに会うため』とでも言っておきましょうか」
苛立ちを隠せない礼を見て、渋々藍乃が答える。「もう少し遊びたかったのに」とでも言いたそうに。
「……その先は?」
それでも見えない藍乃の意図は、礼を苛立たせるためだけに作られたもののように。
「その先、ねえ」
これも、一つの愛の形と言えるのだろうか。歪で、歪んでて、捻じ曲がってて、それでも真っすぐに狙いを定めている。きっと、これが彼女の在り方なのだろう。限りなく、傷つけるためのものではあるが。
「いえ、必要ないわ。今こうして、会えているだけで十分よ」
テーブルに手をつき、礼の眼前に乗り出す。手の付けられていない麦茶が、グラスの中で波を起こす。
「こうして、視るだけで理解るもの」
瞳と瞳が向き合うだけで、彼女には十分だった。全てが透けて見える。影が払われる。彼女の眼を遮るものなど無い。藍乃に跪き、全てを曝け出さなければならない。ダメだ、耐えられない。
「……!」
自分を塗り替えられそうな恐怖が礼を震えさせた。身体を駆け巡る警報に従い、藍乃の顔面を鷲掴みにする。両目を覆い、頭蓋を砕かんと力を込める。彼は逃げるのではなく、敵意を込めて傷つけることを選んだ。
「クフ、フフフフフ!」
なのに、藍乃は笑った。隠されていない口が、歯茎まで露出させながら笑っている。喉の奥からは、楽し気な声が漏れ出している。隠されている眼も、きっとあの時のように。
「ああ、いいわ!あなたは私が見た通りの人間なのね!」
顔を握りつぶされようとしてなお、礼へと詰め寄る。涎を垂らして、餌にかぶりつかんとしている。今度こそ、礼の心は恐怖で支配された。凍った背筋が、後ろに引っ張られた。
「く、ふふ」
咄嗟に遠ざかった際に、藍乃の顔面を掴んでいた手を離してしまう。今思えば、彼が彼女の顔面を鷲掴みにしたのは、ただ傷つけるためではないのかもしれない。
「何なんだよ、お前は」
必死に絞り出した言葉がこれだった。獣のような彼女の表情を目の当たりにして、それしか言葉が出なかった。しかし、それで十分なのだろう。伝えたようとしたことは、そのまま彼女が受け止めるのだから。
「そうね。きっと、あなたの想像みたいに優しいものではないでしょうね」
お前は私の掌の上だ。そう主張する藍乃に恐怖と憤怒が入り混じる視線を向ける。何を考えているのか、藍乃は顔を蕩けさせている。その感覚は、甘い蜜を舌で舐るようなもの。彼女以外には理解不能な快楽で満たされている。
「例えば、『化け物』とか?」
陳腐で安っぽい言葉だが、それでも彼女を例えるにはお似合いの言葉だと、礼は思った。
「まあ、私のことはいいわ。大事なのはあなたの方よ」
藍乃はするりと、這うように礼との距離を詰める。獲物へと忍び寄る蛇が適当だろう。その意図は、斑模様のように複雑か、それとも単純に真っ白か。理解しようとする方が、愚かである。
「ねえ、秋月礼君。あなたは―」
結局、彼には何も理解できていない。彼女が家を特定した方法も、教室で見せた悪意の意味も、今この部屋で起こっている何もかも、礼は理解できずにいた。それはそうだ、彼女は自分で勝手に満足しているだけなのだから。「藍乃の自慰行為」で、片付けられる程度のものだ。
しかし、礼はそうやって片付けようとはしなかった。自分の中にある違和感を拭いきれず、そのせいであのような汚物への関心を捨てきれない。頭の螺子が外れた藍乃を、理解しようとしてしまった。その根幹にあるものを、礼は未だに理解できていないが。
ともあれ、礼は藍乃に敗北してしまった。礼が抱いた感情が畏怖であれ、怒りであれ、折原藍乃へ関心を向けてしまった。彼女を知ろうと、理解しようと思ってしまった。それは、彼女の中で甘い言葉へと変換されている。
「あなたは、一体何なのかしら?」
その感情が何であろうと、彼女にとっての「愛」を向けてしまった時点で、礼の敗北は確定しているのだ。
*
「ねえ、礼ってば」
突然聞こえた声に驚く礼だが、空李が突然喋ったわけではない。1分ほど話しかけても、礼が全く反応を見せなかっただけだ。何もかも上の空で、空李の呼びかけですら頭に届いていなかった。
「……ごめん、ぼーっとしてた」
「いや、急ぎでもないからいいんだけどさ」
空李を見るに不安はあるものの、礼を見る目は変わっていない。不機嫌そうな様子もなく、単に心配しているようだった。その事実にまずは胸を撫で下ろす。
「えっと、それで何の話だっけ」
「これから晩御飯どこにしよっかなーって。あたしは田中屋でいくら丼とネバヌル丼を食べたいんだけど、礼は希望ある?」
「特にないや。じゃあ田中屋にしよう」
「やった!決まりね!」
控えめに跳ね、抑えながらも喜びを見せる空李。彼女を見ていると、どこか意識が明瞭になっていいくようだ。非現実的な浮遊感も、徐々に治まる。
「ところでさ、ボーっとしてたけど何かあった?」
「……へ?」
死角からの問いに、一瞬思考が止まる。ぽん、と弾け、どこかに飛んでしまった。それでも一瞬で見つかった。近くのソファーあたりにでも落ちていたのだろう。
「もしかして、折原さんのこと?部屋で遊んだのが楽しかったとか?」
ニヤニヤと口角を上げる空李だが、その期待は的外れだ。礼が抱いているのは、恋心のような淡く爽やかな感情ではない。もっと底。透明な上澄みの下に沈んでる澱み。泥。彼の心臓は、その程度のものだ。
「別に、そんなんじゃないよ。姉さんは何を期待してるの?」
「まあ、ね?人と人との絡み合いとかさ?ウザいとは思うけどきになっちゃうんだよねー!ましてや折原さんみたいな綺麗な人が相手だとしたらってもー!」
「……漫画の読みすぎじゃない?」
空李の言葉を全ては否定できない。確かに彼女の容姿は綺麗なのだろう。真っ白な人形のように透き通っていて、美しいの一言に尽きる。そこは認めよう。
しかし、いや、だからこそ恐ろしいのだろう。あれほどまでに嫌悪感を抱いてしまうのだろう。血の通わないような白い肌が、光を失った眼が、歪に歪む口元が、彼女をより猟奇的にみせる。藍乃の美しさは、内側のヘドロを際立たせるものでしかない。
「そんなことより早く行くよ。ネバヌル丼って数量限定だったよね?」
「しまった!折原さんとかどうでもいいから早く行こう!あれ逃したら1週間は立ち直れない!」
「一応聞くけど、折原とネバ」
「ネバヌル一択!」
「そういうところ好き」
どちらかと聞かれると、大抵はネバヌル丼に勝らない。空李との会話を中断する際に、礼が用いる手段の一つだ。空李と過ごした時間による賜物だ。
「なら早く行こう。準備はできた?」
「準備万端待っててネバヌル!」
パタパタと駆けてく空李を他所に、礼は自分の頭の中に目を向ける。今日ここまでに起こったことを一度整理しないと、何が何だか彼自身分からないだろう。
「……折原藍乃」
全ては、折原藍乃の襲来から始まった。教室に入ってきた瞬間こそ何も感じなかった。日本人形のような、陰鬱で静かな人間だと思っていた。しかし、彼女の内側を覗いた瞬間にそんな幻想は打ち砕かれた。
彼女がこちらを見ただけ。それだけで自分が犯し崩されていった。理由など分からない。意味などないかもしれない。それでも、あの猟奇的で貪欲な眼差しを、無かったことになんてできなかった。その時点で、藍乃という存在が自身に刻み付けられた。
そして、先程の出来事。突如家に押しかけ、ごく自然に嘘を吐き、当然のように客として振る舞うまではよかった。いや、それも許容できるものではなかったのだが、あれに比べたら些細なことに思えてくる。
折原藍乃は、何なのだろうか。獣のように血走りながらも、己の全てを見透かそうとするあの眼は、一体何なのか。三日月の如く歪み、白い牙を光らせ、涎を垂らすあの口は何なのか。突然家に押しかけ、嘘で塗り固めてまで部屋に侵入してきたのに、そこでの行為は凝視と問い一つ。何のために、彼女はここまでするのだろうか。想像など、意味のない行為をしても無駄ではあるのだろうけど。
それでも考えることを放棄しようとはしなかった。例え意味のない行為だとしても、放置し忘れていいものではないと思ったからだ。確信などない。ただ漠然と「致命的な出来事が起こってしまう」と予感しているだけだ。
その程度のことだと思考を放棄してしまえばいい。無理やりにでも関わりを断てばいい。なのに、彼女への違和感が消えてくれない。心の臓の内側で燻り、やがて燃え上がる。礼は、その熱に焼かれているとでも言おうか。
「礼、早く早く!」
「急いで転ばないようにね」
空李の言葉すら碌に聞かない礼こそ、転びそうで不安である。返事、動作共に正常であるからいいものの、いつ失敗を犯してもおかしくはない状況だった。今も礼は、藍乃以外のことを考えようとしない。
考えに考えた成果か、ある程度整理はできた。彼女が起こした行動の全て、言動と動作の連動、そして彼女の目的に対する推測と解釈。曖昧なものではあるが、頭の中を整理できただけでも収穫と彼は認識していた。
それだけクリアになった頭でも、導き出せなかった答えはあるが。例えば、先程藍乃の頭蓋を握りつぶそうと掴んだときのこと。
「……そういえば」
どうして、折原藍乃を殺そうと思ったんだろう。
先走る空李を追いかけようと走り出したときには、そんな些細な疑問は頭の中から消えてしまった。
遅くなり申し訳ありません。次回はもっと遅れると思います。ほんとすんません。
今回は自分でも何書いてるか分からないぐらいには余裕ありませんでした。まあ伏線とかもないし多少はね。