1-2 放課後
「ねーねー、礼はどっち派?」
「つぶあん派」
「いや今食べてるあんぱんの話じゃなくてね?」
何でもない遥の問いは、礼の右耳から左耳へと抜けていった。彼女の言葉が足りないこともあり、互いに話題が噛み合わない。しかしそれが日常であり、そこから軌道修正をするのもいつものことだ。
「転校生のことだろ」
「そ!転校初日であの盛り上がり方はすごいよ。それが行き過ぎて『本宮さん派か折原さん派か』で派閥が出来てるらしいよ」
「あ、そ。で、お前は?」
「どっちも!食べちゃいたいくらい」
きっと、今彼女が頬張っているコッペパンのように噛みちぎられ、舌で蹂躙され、養分にされるのだろう。そんな程度に考え、咀嚼していたあんぱんを飲み込む。
「で、礼は?」
「どうでもいい」
「だろうね、その手の話に興味ないだろうし」
分かりきった回答であっても、彼女は聞いてくる。考えるより口が動いてしまうのを、理解しているのに直さない。現代社会に適応できるのだろうか、だなんてらしくない心配をしてみる。
「でもさ」
だから、踏み込んでほしくない領域を踏み抜き、怒りを買うのだろう。
「さっき、折原ちゃんのこと聞いてきたよね?なぜなぜ?」
怒りこそ湧かなかったものの、先程の名状しがたい感覚が再び込み上げてくる。礼の背中を蛆のように這い回るそれは、彼自身どう制御すればいいか分からない。その混乱が、彼の眼球からも滲み出ている。
「あれ、聞いちゃいけなかったやつ?ごめん」
「いや、別に」
謝罪だったり感謝だったり、そういう言葉もすぐ言うから、こうして昼食を食べる程度の関係は保てているのだろう。少しだけ落着きを取り戻した礼から、大きな溜め息が落ちる。
「ただ、変な感じがしたんだ。化け物か何かに見られている、っていうのかな」
「なにそれ、わっけわかんない」
「だろうな」
当の本人ですらそうなのだから、他人に理解しろという方が難しい。ましてや遥のような人間に、そんな技術を求めることこそ愚かだ。
「まあ、気のせいじゃない?確かにお人形さんみたいだけど、髪が急に伸びたりなんてしないだろうし」
「どっちかってとオートマタじゃない?」
「どうでもよくない?」
「どうでもいいな」
話していくうちに、最終的にはどうでもよくなる。不安なことも、歓びも、心配も。彼女と話しているとどうでもよくなる。無気力で無駄で惰性のまま転がるこの関係に、礼は身を任せている。どこに転がるかなんて、考えることもやめた。
「……なんで放課後の教室で飯食ってんだろうな俺たち」
「そこにご飯があるから?」
しかし、今回ばかりは違った。得体の知れない感情は、未だに礼を諦めない。彼女とのやり取りがありながら捨て去れないだなんて、まるで彼自身が手放そうとしていないのではないか。まあ、そんなことを話そうと聞いたところで意味はない。礼こそ、聞きたいぐらいだろう。
「そこに飯があるから、昼間からパン12個食うのか?」
「なくても食べるよ?」
「……こういうのをどうでもいいって言うんだった」
消そうとしても消えない、不快な違和感が喉にへばり付いてとれない。何とか飲み込めないかと牛乳を飲み干す礼であったが、洗い流してくれたのは餡子の甘さだけだった。
*
「おぅいーっす!礼いる?いるよね!いたぁ!」
昼食が終わった瞬間、教室にミサイルが撃ち込まれた。スライド式の扉は乱暴に叩き付けられ、着弾した爆音が壁を貫く。隣の教室にも被害が出ていることだろう。人がいないことを願うばかりだ。
「うるさい」
「右に同じくー」
耳を塞いでいた二人の視線の先には、この惨状を作り上げた元凶が笑っていた。無邪気な子供の笑顔は気持ちを穏やかにさせてくれるものだが、この女の笑顔は礼から怒りを引きずり出すばかりだ。そんなことも気にせず、元凶である瀬戸祀は最高の笑顔を見せるのであった。
「ごめんちゃーい、ダッシュで来たからその勢いで」
「廊下を走るな。突然大声を出すな。扉は静かに開けろ。それと隣の教室に謝りに行ってこい」
「お前はあたしのお母さんか!」
「どっちかと言うと生徒指導の先生じゃない?」
苛立ちを隠さない礼に祀の的外れな反応、そこに遥の無駄な突っ込みが入る。この一連のやり取りはいつものことではあるが、真面目に会話をする面々は今ここにいない。彼らがいないと、礼たちの会話はあってないようなものになる。
「そんなことよりさー、このクラスに転校生が来たんでしょ?それも二人も」
さも当然のように、祀は礼の後ろから手を回す。背後から抱き着く形になるも、特に反応はない。当たり前に祀がくっつき、礼は反応せず、遥はただ眺めている。限りなく近いのに、二人の心は一定の距離を保っている。10年近い付き合いが、彼らをここまで変えたのだろうか。
「あれ、祀たちのクラスでも知られてるっけ?」
「いんや、あたしのクラスに自慢しにきた猿がいて、それをチラッと聞いただけだよ」
「猿はお前だ」
「礼こそ性の獣のくせにー」
礼は心底気怠そうに、祀は心底楽しそうに言葉を交わす。否定してもエスカレートすることを知っているから反応を示さず、その反応を知ってるから彼女も話すことをやめようとしない。長いことこの関係を続けているため、不自然な関係がとても自然なのだろう。
「なあ、伊織と大志は?」
「入学式の片づけらしーよ。大志が強引に伊織を引っ張ったみたいだけど」
この場にいない友人の居場所を聞くも、どうやら強制労働に駆り出されていたようだ。意外だ、と反応する礼と、食後の余韻に浸る遥。反応に差が出たのは、伊織と大志の二人との交流の差だろう。元々関係があった礼と比べると、まあ当然だろう。
「終わるのはどれくらい?」
「んー、けっこーかかるらしいよ。『先帰ってろ鬱陶しい』って言ってたからこれから帰ろうと思って」
「なるほど、大志らしい」
冷たく乱暴な言い方が実に彼らしい。その真似をするのが祀だから、かなり強調されているだろうが。結局のところ、祀の仕草が馬鹿みたいなので実のところはあまり伝わらない。
「じゃあ、帰るか」
「そだね!ハルはどうする?」
「あたしも帰るよ。帰って間食しないと」
「お前の胃袋はブラックホールか」
「吸引力増してるあたり掃除機以上だよね」
祀と遥は、普段から「ハル」「まつりん」と呼び合うほど割と、いやかなり仲がいい。違うクラスなのだが、礼を呼びに祀が来たところ、遥と意気投合したことが始まりだ。今では互いにべっとりと濃厚な関係にある。やたら距離の近い友人であって、それこそ汁まみれの関係ではない。
「んじゃ早速帰ろ!二人ともはやく!」
「まってよまつりん、まだ食後の余韻がぁ」
「間食するなら大差ないだろ」
既に準備が整っていた礼は、教室を飛び出した祀を追う。遥を置いていっても、祀は外で待ってるだろうから問題ない。周りが見えていないようで、大事なところはちゃんと見ている。瀬戸祀がそういう人間だということを、礼は嫌でも知っている。
*
「ただいま」
「あれ、礼?早かったね」
二人と別れ、家の扉を開けると、そこには靴を脱いでる空李がいた。扉の音に少しばかり過剰に反応していたものの、そこにいた人物が礼だと分かると肩を撫でおろした。
「早く終わったから学校で昼済ませた。姉さんは?」
「あたしも。これなら弁当準備しなくてよかったじゃーん……」
早朝の労働が徒労に終わり、落胆する空李。入学式に、緊張感のあるスーツ姿。身体に蓄積した疲労は、高校生活のそれとは段違いだろう。普段の空李では考えられない、力の抜けた姿勢がその証拠だ。しかし遥のそれより上品ではある。
「まあまあ。それで、大学はどうだった?」
「今日は簡単な説明で終わったよ。明後日からガイダンス続きだし、本格的にはそこからかなー?」
リビングに着いた瞬間に、空李はソファーに身を投げ出す。力の抜けた体は、柔らかなソファーにみるみる沈んでいく。人をダメにするのではなく、人がダメになるのだと礼は悟った。
「ま、とにかくお疲れさま。今日は休んでよ」
「ありがと」
礼の差し出した麦茶を、空李が勢いよく飲み干す。喉から荒々しい音の聞こえたのち、爽やかな吐息が漂った。勢いそのままに、小さめのテーブルにコップを叩き付ける。仕事終わりに生を飲むサラリーマンが容易に想像できる。
「とりあえず着替えてきたら?そのままだと辛そうだし」
「そうする。礼も着替えたらいいよ、そのまま洗濯するから」
「いいよ、今日くらい俺がやる」
「お、なんか優しいね」
別に、と零す礼に、温かな視線が向けられる。それ自体に不服はないものの、当然のことを「優しさ」と言われてしまうことには違和感を感じてしまう。そのズレを、彼はどうしても気にしてしまう。
「じゃあ、さっさと着替えてきて。早いうちに済ませたいから」
「了解であります」
敬礼をする姿に威厳はなく、顔も緩んでいる。受け入れられていることに安堵し、違和感を頭の片隅に片付けてしまう。しかし、これは悪手である。隅から徐々に蝕まれていくことを、彼は知っていたであろうに。
「それじゃあ、少し待っててね。あ、洗濯物に変なことしないでよ?」
「別に、今更下着を見ても何も感じないよ」
「それはそれでどうなんだろ」
二階から届く声は、少しばかり残念そうであった。女としての魅力を弟に問われても、帰ってくるのは冷ややかな返事だというのに、分かっていながらも空李は繰り返す。きっとそれは、望む返答が得られても続くだろう。それを礼は理解しているのだろうか。
「着替えたらカゴに入れといて。あとはやっとくから」
「ありがと」
礼自身も二階に上り、部屋で着替えを始める。壁越しに伝わる声はどこまでも優しく、そのせいで内側が見えてこない。表面の好意に甘えていれば、きっと何も悩まずにいられるだろう。しかし、彼はそれを拒む。内側まで知って不安を拭わないと、礼は空李に踏み出せないのだろう。
繋がりに意味などないと理解していても、それを得て安堵したい自分がいる。自分の感情を咀嚼する程に、礼は自身への殺意を滲ませる。
「……死ね」
空李に聞こえないように、自分への呪詛を吐く。そうやって自分への殺意を放ったところで、結局は自分自身へと返ってくる。それを分かっていながらもやめられない。何度自分を殺そうとしても、今の今まで成功した試しがない。つまりは、そういうことだ。
「……はあ」
溜め息と共に、Yシャツから腕を外す。こうやって脱ぎ捨てられたら、どれだけ楽だろうか。叶うことのない願いが、溜め息となり落ちていった。
*
洗濯機に汚れた衣服を投げ入れ、すすぎ1回を選択する。決まりきったパターンに沿って素早くボタンを押すと、内側に水が流れる音がする。ビチャビチャと下品だが、それが衣服の清潔を保っていることを知っている。ある意味、家の中で一番信用できる物かもしれない。
「おつかれ。なんかごめんね」
「昨日は姉さんがやってたでしょ。なら今日は俺がやるべきでしょ」
「まあ、そうだけど」
リビングには、Tシャツとジーパンに身を包んだ空李が、ソファーにちょこんと座っている。先程よりもラフなイメージを受けるものの、礼にとっては大した差でもない。彼女が緩めの人間ということは、共に過ごした時間に教えられた。だから、彼女がソファーに座り、クッションを抱えて、テレビを見ながら、1リットルパックの豆乳を一気飲みしている姿に何の感想も抱かない。
「そうだ、今日の晩御飯どうしようか?せっかくだしどこかに食べにいく?」
「いいけど、姉さんどこか希望あるの?」
「特にないけど、体力のつくものがいいな」
「余程疲れたんだね」
礼も隣に座り、互いの距離は近くなる。しかし互いに触れはせず、視線も合わせない。決して仲が悪いわけではなく、むしろ過剰なまでに良いと言ってもいい。だからといって、過去の清算にはならない。もしくは、あるいは。
「……礼」
「何?」
「やっぱ何でもない」
「そう」
二人の意思疎通は、多くの言葉を必要としない。言葉を交わさずとも、互いの意図は容易に汲み取れる。それは相手を想うが故か、それとも恐れるが故か。そこだけは、互いに理解できていないだろう。そこに、深く暗い溝があるのかもしれない。
「………」
「………」
そして沈黙で埋め尽くされる。二人は自然に振る舞うものの、第三者がこの場にいたとしたら「妻の妹との不倫がバレて迎えた修羅場」程度には空気の重さを感じるのだろう。重く、重く、肺にのしかかり、言葉を奪う。そんな空気が、二人の間に蔓延していた。春の暖かさも、柔らかな日差しも、この濃霧の前には無力であった。
しかし、その濃霧はチャイムによって払われた。
「……客?」
「みたいだね。俺が出るよ」
重い腰を上げ、礼が玄関へと向かう。立ち上がった瞬間に重さが消え、得体の知れない解放感が礼を包み込む。数ヶ月ぶりに吸う地上の空気よろしく、監獄を出た囚人のように、自由による浮遊感を漂っている。
浮ついた心でも、玄関まで歩く作業は難しいものではない。所要時間は15秒。平均的なタイムと比較すると3秒ほど遅く、本人の不調が露わになっている。
「はい、ただいまー」
リビングから廊下に出て、小走りで玄関へと向かう。パタパタとサンダルが鳴り、どこか忙しない。半ば反射的に動いていた礼だが、空っぽだった頭にはある疑問が浮かんでいた。
「そういや、誰か来る予定あったっけ」
玄関にいる人物のことを想像するが、選択肢が予想以上に多かった。宅配便や郵便、空李の友人や宗教勧誘など、数えたらきりがない。両親が家に帰ってくる際は必ず連絡があるし、祀達とてそれは同じだ。考えた結果、特に重要な人物でもなさそうなので、考えることを放棄した。
そうして玄関に到着した礼だが、玄関の扉は開いていなかった。この時点で親しい人物の可能性は否定できる。そうなると郵便物の可能性が高いか。印鑑でも容易しておけばよかったかな、と扉を開ける礼は呑気だった。
それも、ここまで。
「こんにちは、秋月君」
「お前、は」
春風に長髪を靡かせて、その女は笑みを浮かべる。その笑みは、教室で礼に向けられたものには劣るが、それでも言葉を詰まらせる程度の危険性を孕んでいた。風景と女の対比が互いを鮮明にしているのだろうが、貧弱な春など、彼女の悪意に塗りつぶされてしまう。
「あら?反応がないけど、覚えていないのかしら?」
戯ける姿は可憐。しかし視線は礼を捕らえて逃がさない。捕らわれた礼は為す術もなく、例えるならまさしく「蛇に見込まれた蛙」。飲み込まれるのを、待つばかり。
「なら、もう一度自己紹介から始めましょうか」
礼の反応を楽しむ様は、まるで食事。舌の上で丹念に転がし、ゆっくりと嗜虐的に咀嚼する。だから、混乱気味の礼を見ると、興奮を覚えてしまう。彼女の在り方は、紛れもなく捕食者のそれだ。舌で唇を舐め、白く鋭い牙を剥き出しにする。舐めまわすような視線は、品定めでもしているのだろうか。
「ああ、いや、そうね。見惚れていたから覚えてないのね」
クスクス、と笑ってみせるが、奥底にある泥を隠しきれていない。彼女の深淵を、礼は見てしまう。見えてしまうからこそ、彼には立ち向かう勇気が湧いてこない。いや、教室で目を合わせた時点で、そんな陳腐なものは削ぎ落されていたのだろう。
「では、改めて。」
今更かわいこぶってももう遅い。この人外が。心の中で呪詛を吐くと、気持ちが少し軽くなる。悪意の濁流から抜け出した礼は、どうにか彼女を見据える。今度は、ちゃんと視線に敵意を含めて。
「私は、折原藍乃。どうぞよろしくね、秋月礼君?」
互いに殺さんと、醜い感情を剥き出しにする。その状況すら、藍乃にとっては快楽でしかなかった。
瀬戸祀
伊藤伊織
藤村大志
礼と関わりがある人物の名前です。一応書いておきます。