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2-30. スミレの記憶②

抜け殻になっていた、とは今だからこそわかること。

当時の私は祖父に何が起きたのか全くわかるはずもなかった。

ただ単に黒服に身を包んだ正体不明の人物の前で、さっきと変わらずベンチの上に腰掛けている、それだけだった。

しかしこの時既に祖父は抜け殻になっていたのである。

それは当時の私にはわかり得ない紛れもない事実なのである。


「お祖父様!」


それでも咄嗟に何かの危機感は感じたのだろうか、私は大声を上げ祖父のいる別荘へ駆け出した。

だが黒服の声に足は止まる。


「大丈夫だよ。スミレちゃん。おじいちゃんはちょっと疲れただけみたいだから」


「そ、そうなの……?」


内心そうではないことは薄々わかっていた。

祖父が叫んでまで私を逃がそうとしていたことは背中を向けていても伝わってきていた。


「だから、おじいちゃんのそばに、いてあげてくれないかな?」


明らかに誘っている。

私が逃げないように、誘っている。

そしてその誘いに私は乗る。

いざとなれば私の魔法でなんとかなると思っていた。

下級学校の生徒とはいえ、私の実力は日頃の厳しい鍛錬のおかげか既にAランク手前まできていたのだ。

こんな奴、軽々とあしらってやる。そう思っていた。その時まではそう思っていた。


「う、うん……」


別荘に慎重に足を踏み入れると、どうしてだろういつもは使用人がうろうろしているのに今は誰も見当たらない。

無音。キッチンからもお風呂場の方からも何の音も聞こえてこなかった。

ギシギシと木でできた階段がいつもより悲鳴をあげているように聞こえた。

音の反響は開けた二階へと私を導く。


「お、お祖父様……」


ベランダには祖父がベンチで座っている。

そして黒服に身を包んだ人物が手すりに手をかけ夕日の沈みかけた海を眺めていた。

何もしないのか?この時既に私は油断していたんだと思う。


私は祖父に手をかける。

瞑っていた目を祖父はゆっくりと開いて辺りを少し見渡したあと、隣にいた私の方をじっと見つめてこう言った。


「おやおや、可愛いお嬢ちゃん。こんなところで何をしているんだい?」


私には祖父が何を言っているのか素直に耳に入ってこなかった。

可愛いお嬢ちゃん?祖父が私のことをそう呼称することなんて今までにあっただろうか。

いつもスミレ、スミレと名前で呼ばれていたのに。


「お、お祖父様……?身体は大丈夫なの?なんともないの?」


気遣う私に祖父はこれまでに見せたことのないような不思議な顔をして答えた。


「おかしなことを言う子だねぇ。私はなんともないさ。でも、はて……」


そして一言。


「一体ここはどこなのだろうか」


別荘よ。ここは私の一家が所有する別荘よ。

なんでそんなこともわからないの。

そういった類の気持ちはさらさら私の頭には沸いてこず。

訪れたのは再び無音。


絶句。


言葉を失うという気持ちを私は初めて経験した。


「はーっはっは!傑作だ!こりゃあ傑作だ!」


そして突如私にぶつかってきた男が声高らかに笑いあげる。

耳を劈く嫌味な笑い声に私は明らかに敵対心を覚えた。

この男、なにをした。


「残念だったねぇ、スミレちゃん。もう、君の隣にいるお祖父様は君のお祖父様ではなくなっているんだよ。いや、お祖父様という言い方もおかしいなぁ。もはやそいつは誰でもない。自分のことすらわからない、ただの人だぁ」


この時初めて理解した。コイツは祖父の記憶を消し去ったのだと。

原理や理論はわからないが、結果がそれを証明している。

そして私は身に溢れた怒りに任せて、ありったけの魔力を右手に集中させ男に穿つ。


ことが、できなかった。


「ぐっ……」


私が魔法を放つ前に、私の隣にいる祖父に穴があいた。

隣にいた私には祖父から飛び散った生暖かい雫が無数に降り注いだ。

それを血と理解するのにも数刻を要したが。

ただ、それでも。

私から戦意と呼ぶものを喪失させるには十分だったのだ。


「これはね。僕の優しさなんだよ?君の横にいるのは君のお祖父様ではなくて真っ赤な他人なんだ。そんな人間を僕が殺してしまっても、君には何の後悔も失望も絶望も生まれないだろう?」


男は私の方へ歩み寄ってきた。

私は魔法を放とうと振りかざした右手を下ろすこともなく、ただそのままの格好でまるで金縛りにあったかのように、無抵抗な羊のように、その場を動くことができなかった。


後悔も失望も絶望も。

確かにそういった感情は今の私には生まれていない。

それを越える恐怖。

目の前の男に恐れ慄いているだけだったんだ。


「スミレちゃん。可愛いねぇ」


男が私の耳元で囁く。

何も動かなかった私の身体は小刻みに震え始めた。

それは私の意思によるものでは決してない。反射的に私の体が恐怖を体現しているに過ぎない。


「ローズマリー家の一人娘ってさぁ、どんな味がするのかなぁ?ね?」


私は頬に伝った祖父の血が、男に舐め取られるのを感じた。

そして男の右手が私の反対側の頬を支え、もう片方は肩から腰まで伝っていく。

夕日はとうの昔に沈んでしまっていて、微かな月明かりが別荘をテラスのみ。

男の顔なんて見る余裕もなく、見たとしてもそれはただの人の塊と形容するほかないものだった。


「……ぃ……ゃ」


ようやくでた声は、もはや声とも言えず言葉とした形すら持たないもので。

むしろその声に欲情したのか男はさらに加速する。

私はそのまま押し倒され、身にまとっていたものは徐々に全てはがされていった。


「声、出してもいいんだよ?むしろ僕としては心からの叫びっていうのも見てみたいんだけれどなぁ」


私はこれからこの身に起きることを察した。

済んだ後はそのままにされるのか、殺されるのか。

そんなのどっちでもいい。私という存在はここで終わるのだ。

そう、思うほかなかった。


「優しく、してあげるから、ほら、笑って?」


さよなら、私。さよなら、スミレ。

私は実力がありながら目の前の恐怖に押しつぶされ抵抗することすらできない自分を最後の最後まで悔いた。




「目標確認。直ちに制圧を開始」




ふと人の気配がした。

男の手も止まり一体何事かと全てを諦めた目をもう一度開くと、目の前がまるで昼間のように明るくなっていることがわかった。


「ちっ……冗談だろ」


「白虎は後方から。朱雀と玄武で敵を穿つ。青龍は対象の保護を最優先」


「はっ!」


煌々と照らされた夜の海に突如現れ上空から飛んでくる複数の影。

それぞれ別の色をしたマントを羽織っているようで、簡潔な命令とともに隊列を形成、動いているのがわかった。


「ついに、エド様のお出ましかよ……!」


男は先程まで弄んでいた私などに目も呉れず鬼のような速さでその場から離れた。

その刹那、男の居た場所にはおそらく巨大な魔法で大きな穴が空いたのだから、彼の行動は間違いではないのだろうが。

肝心の私は一体なにが起こっているのか状況把握もできないまま、ただ身体を起こすことがやっとだった。


そして私の後ろに物音一つ立てず誰かが降り立ったのを風圧で感じたんだ。


「後ろを振り向いてはいけないよ。振り向いたら顔が見えちゃうからね。そしてこれからは前だけを向いて歩いてね。過去に沈むことのないように」


頭の後ろで囁くとても暖かくて優しい声に私の不安や恐怖は全て吹き飛ばされたようだった。

私にはふわりと毛布がかけられ、その横を風の速さで彼は通り過ぎていった。


青いフードで顔を隠し、青いコートを纏ったおそらく青龍と呼ばれていた人物。

あの一瞬。微かに感じた暖かさを、そして彼が創り出した煌々と輝く龍を、私は今でも覚えている。



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