94 ヒュー・ロバーツの後悔なき選択
手綱を引き、エスフィア橋に差し掛かったところでヒューは馬を止めた。飛び降り、視察のため、橋の出入りを監視していた兵士たちに歩み寄る。
「――ヒュー・ロバーツだ。橋を通りたい」
「は! 申し訳ありませんが、鑑札の確認をさせていただきます」
兵士もヒューの顔を知っているが、王族でない限り、規則が省略されることはない。
騎士用の鑑札を取り出す。確認しようとかがんだ兵士の懐にヒューは拳を叩き込んだ。くの字に身体を折り曲げ、そのまま意識を失った兵士を横たえる。
「ご苦労だった」
何が起こったのか理解するのが遅れ、よって行動が遅れたもう一人も気絶させる。そして橋の脇にある木々に向けて、ヒューは片手をあげた。
「正規の兵士たちを移動させて隠せ。……殺す必要はない。これより私は帰城する。私が橋を渡った後は、誰も通すな」
木々の中から、朝から待機させていた幾人もの『同志』たちが姿を現す。
王城に仕える兵士であり、理想に酔う反王家派の人間であり――いずれも、自分の命令通りに動く部下だ。
ふいにヒューは笑い出したくなった。『同志』と定義し、そう口にも出してはいるが、ヒュー自身は、彼らを引き入れるために語った志など何一つ信じていないのだ。
いや、むしろ信じていないからこそ、いくらでもよりらしく語れたのだろう。耳触り良く、実質の裏切りを、正義であるかのように装飾できてしまう。
加えて、そうして語る人間が、ある程度の地位を得ているならば、さらなる説得力を持たせることができる。
第一王子セリウスの最側近。右腕。信頼の厚い護衛の騎士。
――自分のように。
そうして、多くの『同志』を――内部からも――ヒューは得た。
――何故だ。
胸中に常にあった『同志』たちへの疑問が湧き起こる。何故お前たちはセリウス殿下を裏切った?
よりにもよって自分が言うべきことではないとわかっている。
おそらくは、想像以上に人は揺らぎやすいのだということを、ヒューが理解していなかっただけなのだろう。
思考を、切り替える。不要なそれだ。
城下の方向を顧みる。
後を追ってくる者はいない。……いまのところは。
確実性を期すなら、いっそ、橋をあげてしまうべきか。
いや、とすぐに考え直す。
エスフィア橋が可動した場合は、王城にも自動で伝わる仕組みだ。ウス王の施した改良のなせるわざ。原理はヒューもわからないが、こちら側からは伝達を止めることはできない。
馬に乗り、ヒューは『同志』たちに再度命令を下した。
「もし侵入を防ぐことができないと判断した場合は、橋をあげろ」
「は!」
「任せたぞ」
頷き返し、馬の腹を蹴る。
エスフィア橋を渡れば、王城が見えてくる。
――狙いは、シル・バークス。彼を排除すること。
主君の命に従うために。
ヒューは覚えている。いまも鮮明に。しかし――忘れてはいなかったが、ずっと記憶の奥底に沈んでいたものだった。
セリウス殿下が、シル・バークスを愛するまで。
かつての主君の危惧が、的中するまでは。
『……父上のおっしゃっていたことが、気にかかる』
『国王陛下の?』
『父上は、王太子時代と、国王になったいまとでは……』
宙を見つめ、殿下が呟いた。
『エスフィアには、何が巣くっているんだ?』
目を閉じ、かぶりを振った後に、命令を下した。
『ヒュー。もし俺が変わってしまったら、道を正せ』
『…………?』
その意図が、当時は汲み取れなかった。
『殿下が、道を違えるというのですか? 私にはそのようには……』
『俺も、できることなら杞憂であって欲しい。……未来の自分を信じたい。だが、ヒュー。本当に俺が父上のようにならないと言えるか?』
その答えを、自分は持たなかった。
『父上を見ていると、わからなくなる』
拳を握りしめ、殿下が呟いた。
『俺は、このエスフィアの制度を壊したい。同性と結ばれるのは良い。しかし本来、権利を得るなら、同時に果たすべき責任を負わなければならないはずだ。責任を放棄したまま権利だけを享受することなど許されないんだ。それが王ならば、なおさら。見本となるべき王が誤っていては話にならない』
自問するかのように、宣言した。
『王の同性婚をいびつな形で存続させる必要は、あるのか? ――むしろ、何故いままで続いたのか不思議でならない。俺の代では、この流れを断ち切る』
――ヒュー。もし俺がこの意志に反しそうになったら、必ず止めろ。
『私などではなく……』
デレク・ナイトフェロー。
殿下の親友とでも呼べるだろう少年の顔が真っ先に浮かんだ。
『デレクには、頼めない』
何故なのか、当時はわからなかった。
しかしいまはわかるような気がする。
デレク・ナイトフェローという、殿下の友人は、優しいのだ。父親であるナイトフェロー公爵の、ある種の思い切りの良い冷酷さを受け継いでいない。
だから、何度も、思いとどまれ、とヒューにも伝えてきていた。直接言われたわけではない。しかし、機会を与えられているのはよくわかった。
――それは、オクタヴィア殿下にもか。
食堂で――おそらく自白剤だったのだろう――を飲むのを避けようとしたとき。効果が弱いのは飲んだ後でわかったが。おかげで、『同志』への対処も容易かった。
準舞踏会後に彼が飲まされた自白剤とは、雲泥の差だった。同じ物を使うこともできたろうに。
――止めろ、か。
嗤う。
「いまさら、止めるはずがない」
断念する機会は、いくらでもあったのだ。
城下視察時の襲撃計画を乗っ取った後でも、馬車への細工が失敗に終わった後でも、視察の前でも、最中でも。
いまも。
『わたくしなら、従いたいほうの命令を選ぶわ』
――そうですね、オクタヴィア殿下。
胸の内で、同意する。
「私も、従いたいほうを、選びます」
従いたいほうの命令を選び、そして望み通りの結末を迎える。
そう決めた。
悔いはない。
この計画自体が成功しても失敗しても、自分の目的は必ず達成されるのだから。




