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兄が、こめかみを押さえ首を強く振った。それが苦痛の元であるかのように、紙を折り畳んだ。私へと突き返す。
「…………」
「…………」
メモ用紙を手にはしたものの、私は半ば放心して兄を見つめていた。
だって、兄が口走った言葉……。
私がメモ用紙に書き込んだ日本語の一行目なんだってば!
『今回の視察のコンセプトは衣食住!』って。
私以外に読めない安心安全神話、破れたりっ?
いやいや、ていうか、なんで兄が……?
兄がため息をついた。
「悪かった。視察の予定が記してあるだけのようだな」
何が書いてあると思ったんですか! とは思ったけど、それよりも!
「兄上。読める、のですか?」
重要なのはこれ!
「……ああ。すべてではないが」
何ですと!
「どうして……」
呆然として、呟きが漏れた。
「俺は……」
何かを思い返すかのように、兄が口を開いた。
「お前が……その文字ばかり使うから」
また、こめかみを押さえる。
「覚えようと……昔、勉強して……?」
そこで言葉が途切れた。何度か首を振って、大きく息を吐く。
「――とにかく、読めるようだ」
「そう、なのですか……」
メモ用紙を思わず強く握っていた。紙にクシャリと皺が寄る。
ううう。もう、いまの兄に、記憶の障害があるのは確定として――。
紅茶のときも思ったけど、昔の兄に対しての罪悪感が。
幼少期の私、兄に対して塩対応だったのに、日本語を覚えようとまでしてくれていたとは……! いや、兄が私自作の「エスフィア語」と「日本語」対応表を興味深そうに見てたりしたのは覚えてるけど……!
私は全然気にしていませんでした……!
なのに、あれで日本語を読めるまでになるとは……! 主人公の一人だから? 完璧超人恐るべし……!
――でも。
完璧超人だからって、未知の言語を覚えるなんて、簡単には行かなかったはず。
私が、そのことを一番よく知ってる。
「……ごめんなさい、兄上」
「? 何故謝る?」
……だよね。
苦笑を返すしかなかった。
「何となく、ですわ」
たぶん、意味はない。
過去のことを忘れている兄に謝ってもしょうがないんだけど……遅いんだけど、やっぱり気持ちとして言葉が出てしまった。……デレクとの幼少期のこともそう。昔の私、もっとうまくやれたんじゃないかって思っちゃうなあ……。
いや、完全に開き直ったようで開き直れていない部分があったから、難しいか。原作への警戒心もあったし。
うーん、でも……。
引き続き反省していると、
「――その文字だが」
兄が口を開いた。
「…………?」
「数日前ならば、俺は見ても読めなかっただろう」
「では、わたくしの部屋で見た際は?」
「あれが、契機になった可能性はある」
つまり、兄の記憶の蓋が緩んだ……?
「――オクタヴィア。俺には、どうも昔の記憶に齟齬があるらしい」
「…………」
びっくりした。まさか兄から……。
「それを最初に指摘されたのは、七日前、デレクにだ」
で、不審に思ったデレクは準舞踏会で私にその話を振って来たんだよね。
「そのときは、あり得ないと判断した。……気のせいだと」
だが、と兄が自己分析を始めた。
「よく考えれば、些細であっても自分に関する異常を軽視するのはおかしい。……俺らしくない。にもかかわらず、お前に話しているいまも、『気のせい』だと結論づけようとしている自分が存在している」
「でしたら、何故わたくしに?」
「俺の記憶の齟齬は、オクタヴィア、お前に関することのようだからだ。――もう一つの理由としては、この記憶障害のせいで、今日の視察中に不都合が生じないとも限らないだろう。伝えておくべきだと……それを読んで考え直した」
考え直したってことは、当初は言うつもりはなかったってことだよね。でも、メモ用紙の日本語を見て……読めることに気づいて……気が変わった?
真向かいに座る兄の顔を見つめる。――本来の記憶の影響なのかな? 馬車に乗る前より、素直に話しやすい空気が兄にある……ような気がする。
「訊きたいことがあるのですが」
答えはなかったけど、表情は言ってみろって感じ。
「兄上には、何故こうなったのか、心当たりはありますか?」
「何故……原因か」
足を組んだ兄が顎に手をやる。何かを思い返しているようだけど、苦しみ出す兆候はない。ごく冷静? ただ、面には不快さが宿った。
「……人の仕業だろうな。だが、誰かはわからない。俺に近づくことができ、かつ俺が普段さほど警戒しない人間。人の記憶を操作するなど常識ではあり得ないのだが……」
「兄上こそが証拠ですものね」
兄のこの口ぶりだと、怪しい人間が隙をついて接近して何かをしたって風ではないのかな?
身近な……もしかしたら私も知っている人? ……まさかね。心の中で首を振る。だって、誰も思い浮かばない。
他に気になることといえば――。
「……兄上は、記憶に関して、いままで何の違和感もなく暮らしていたのでしょう?」
「そうだな」
「それなのに、急にここ数日で変化が訪れたのも不思議ですわ」
もしかして、デレクからの問いが契機だったとしても、他の要因があったりとか? 人が原因っていうなら、人の出入り?
私の知っている範囲で王城をしばらく留守にしている人間といえば弟のアレクしかいない。だけど、これは全然関係ないだろうし……。
いや、そもそも『デレクから』だったのが重要説も否めない。だってデレクは原作に登場しない人物。その辺が関係してる?
人の記憶をいじれそうな人外枠として、こいつの仕業じゃない? て真っ先に思い浮かぶのは『あの青年』だけど……。
『主人公たちの心……恋愛感情をいじったりはしないよ。心は難しいからね』
こう、言ってたんだよね。
まあ、感情と記憶は違うといえば違う。でも、主人公たちに手は出さないって意味なのかなって。要するに、セリウス……兄とシル様には。
言ったこと自体は守るんじゃないかなって。
だから、『あの青年』説にしても、自分で考えておいてなんだけど、犯人かっていうと……。
それでも無理矢理『あの青年』が関与している方向で進めると、顔が同じってことで、ルストの仕業? でもこれも、ルストが兄に近づけたかって話になるんだよね。ルストは、私や兄にとって、親しいわけでも、幼少期から現在に至るまで側にいた人間でもないし。
握ったままの手元のメモ用紙に視線を落とす。
できることは――。
ドレスの内ポケットから、これまた自作のキャップ付ミニ鉛筆を取り出す。日記を書くときのとは別で、持ち手が短いやつ。
まずできることは、メモに追記。
さらさらと『兄の記憶に注意! 念のため!』と書き込む。――とはいうものの、このせいで問題が起こる可能性は低い気がする。ちなみに、根拠はない!
そして、一行目から最後まで目を通す。
……何度見直しても、普通の視察としては、問題ない。全然OK。
ただし、囮になって、曲者を捕まえる、という観点から眺めると、足りないものがある。
チラっと兄を見る。兄は馬車の窓から外を見ていた。前世だったらこの横顔にキャーキャー言ってるよね!
私も、窓の外に目を向ける。
エスフィア橋はとっくに渡り終えているから、数分もしないうちに馬車は停まるはず。
視察時の馬車のルートは完全に決まっていた。すべて舗装された道=安全が確保された道ってね。往来する馬車は見えない。この街道を王家の馬車が通るから、他の馬車は一時往来禁止! 何なら通行止めもしてある!
王城周辺と城下を結ぶ橋は、一応エスフィア橋以外にもあるんだけど、他の橋は通れないようにしてあるって聞いたし。
すべては、曲者の動きを制限するため。
警戒を厳重にして、曲者たちがボロを出すのを狙うっていうのが兄の方向性なんだと思う。
だ・け・ど!
「――兄上」
「?」
兄が窓の外から私へと視線を戻す。
「一つ、兄上に確認したいことが」
「確認したいこと?」
「はい。今回の視察は、ただの視察ではありません。互いに、目的があってのものです」
少し、兄の視線が鋭さを帯びる。
そうそう。
味方だけど、ある一点においては、兄と私は敵同士だからね!
「そして、わたくしと兄上は、両方とも、囮ですわね?」
「……敵は王族を狙っているらしいからな」
「ですが、本来、標的はわたくし一人でしょう?」
胸元に、包帯を隠すための手袋をつけた左手を置く。
「なにしろ、わたくしの視察時を狙って計画されていたのですもの」
ヒューから聞き出した情報によると、王女狙い!
というか、襲撃しやすそうな……弱そうなほうを狙ったんじゃないかと予想! だって、私と兄だよ? 戦闘能力皆無と戦闘能力かなり有りだよ? 正直、私が曲者だったらね? 単体として見た場合、どっちを狙うかっていったら私一択! 完璧超人は避けます!
「――ですから、わたくし、囮として最大限の努力をしたいのです」
兄が困惑したように瞬きする。重ねて私は問いかけた。
「本日の警備体制は万全ですか?」
「当たり前だ。そうでなければ視察に臨めない」
即答だった。
よし! 期待通りの答え。
「では、何があっても、兄上はわたくしを守り切ってくださいますね?」




