50 シルと閣下と赤毛の青年(前編)
名指しで、おれがナイトフェロー公爵から話しかけられたのははじめてだった。
「こんにちは、ナイトフェロー公爵。とんでもありません。ご子息にはお世話になっています。助けられてばかりです」
どうにか挨拶を返す。
「それなら何より」
「我が子をさして不肖の息子とは、またひどい言い草ではありませんか」
公爵の視線がおれから外れ、デレクへ向かう。顎を撫でながら、公爵が頷いた。
「ならば愚息が正しいか」
「……同じ意味でしょうが」
デレクがため息をついた。デレクとは友人付き合いをしていても、その父親であるナイトフェロー公爵とは数えるほどしか会話をしたことがない。その数えるほどの会話も、セリウスを介してだ。おれ自身がこんな風にナイトフェロー公爵に話しかけられたのもはじめてなら、デレクと公爵の親子の会話を目にしたのもはじめてだった。
「それで愚息よ。お前の婚約の件だが」
まったく脈絡のないことを、世間話でもするかのように公爵が切り出した。給仕が配って回っている飲み物入りの杯を一つ手に取り、口に運んでいたデレクがむせた。
「おお、大丈夫か?」
「……あの件は断わったはずですが」
「もちろん、きちんと断わった」
「なら……」
「だが、オクタヴィア殿下に恋人がいるという話に触発されたそうだ。再度の打診があった。お前が殿下と開幕のダンスを務めたのを見てなお、だ。もしくは、だからこそと言うべきか?」
顔の向きを変えた公爵が見つめる先には、中年の貴族男性と、その娘だろう令嬢の姿があった。貴族男性のほうには、見覚えがあった。最低限、覚えなくてはならない人物として頭に叩き込んだ――いわゆるセリウス派に属している伯爵だったはずだ。
「男の愛人についても織り込み済みだそうだ」
さらりと公爵が発した言葉に、動揺した。
おれの、定まっていない部分。
おれが、頭ではわかっているのに、感情で拒絶しそうになる事柄。そこを、突かれた気がした。
チラリとデレクがおれを見、公爵に返した。
「そんなもの、いませんが」
「女性の側から、愛人についてわざわざ言及したということを軽く考えるな。お前の口から断わらねば、先方は諦めそうもない」
「……わかりましたよ」
観念したようにデレクが息を吐く。
「シル、悪い。少し外す。――いいか。さっきも言ったが、誰が目を光らせているかわからない。警戒を怠るな」
「気をつけるよ」
おれに念を押してから、歩き出した。
そんなデレクの背中を見送って、公爵が苦笑した。
「我が息子ながら、まるでバークス殿の母親のようだ」
動揺が、尾を引いていた。返答するまで、ほんの少し、余計に時間がかかった。
「……おれが頼りないからだと思います。ご子息は面倒見が良いんです」
「息子は公爵家の跡取りとしては少々甘いところがある。情に流されやすいところが」
「おれは、長所だと思います」
「見方を変えれば、バークス殿の言うとおりだ。ときに、わたしも息子が羨ましくなるときがある。同時に、どうしようもなく歯がゆく感じることも」
――白か、黒か。
ナイトフェロー公爵――レイフ・ナイトフェローという人物に関して、よく言われている言葉が連想された。
公爵は、人によって評価が正反対にくっきり分かれる。
領民想いで慈悲深い。血も涙もない悪魔。
同じ人物を差しているとは思えない言葉が並ぶ。だからといって、公爵の人格が破綻しているわけじゃない。たぶん、単純なことだ。公爵は、味方には優しい。敵には容赦しない。
どちら側の人間になるかで、公爵を白と思えるか、黒と思えるかが決まる。
おれには、まだピンと来ない。おれがどちらでもないからだと思う。
オクタヴィア様についてデレクが一貫して中立だったように、公爵は、おれという存在に対して中立の立場を取っている。
……歓迎も否定もしていない。
そして、同じ中立でも、デレクのそれと公爵のそれは、意味合いが違うように感じる。もちろん、敵意はまったく感じない。だけどそれは――。
「ナイトフェロー公爵。こちらにおいででしたか! ぜひご挨拶をさせてください」
招待客の一人がそう呼びかけ、公爵に近づいた。すると、機会を窺っていたらしい人々が次々と続く。ナイトフェロー公爵と繋がりを持ちたいという人間は大勢いる。
その応対のため、公爵が人々を引き連れて移動を始めた。
「では、バークス殿。――また」
……また?
おれは会釈を返し、ただの社交辞令かもしれないその言葉が少し引っ掛かって、すぐに顔をあげた。ナイトフェロー公爵は、とうにこちらを見てはいなかった。
デレクや公爵と離れ、状況は振り出しに戻った。
一人だ。遠巻きに、出方を窺われているのを肌で感じる。その中に、実の家族か、それに繋がりそうな人間がいるのかどうか。
――気をつけろ。警戒を怠るな。
オクタヴィア様にも無理を言って協力してもらったんだ。必ず収穫を得て帰らなければ。
……でも、弱ったな。
依然として視線を感じながら、広間の隅まで歩く。
そこから、招待客たちを眺めた。
勘に頼ろうにも、実の家族……だと感じるような人は、いない。
おれに情報を寄越した『誰か』が、接触してくる気配も。
おれが人気のないところへ行くのを待っている? 広間を出て、どこかへ行ったほうがいいんだろうか。
それを実行するのは、デレクの目が離れたいまなら可能だ。
ただし、すんなり手がかりを掴んで家族に会えた場合は良いとして、罠だったときは?
一対一なら何とかなっても、複数で襲われでもしたらおれ一人で対処できるか?
人目のないところへ移動するにしても、相手が安全だとわかってからじゃないと……。
考え込んで、しばらく時間が過ぎた。
――カタン、と何かが落下した音が近くから聞こえた。音の発生した方向――右隣を見る。
杖だ。上品な作りをした木製の杖が、落ちていた。
水色のドレスを着た少女が、その杖を拾おうとしている。なのに、少女の手は中々杖のある場所へ行き当たらない。
「どうぞ」
近づいて、杖を拾い上げた。少女へ渡す。杖に触れると、ほっとしたように白い小さな手が杖を握った。
「ありがとうございます」
にこりと少女が笑った。声の位置から判断したんだろう。顔はおれのいる方向へ向いていた。ただ、顔を上げた、その碧色の瞳はおれを映してはいなかった。
年はせいぜい十一か、二歳といったところだと思う。
――招待客だとしても、まさか一人で?
この年頃の子が準舞踏会に出席しているときは、親や兄弟に連れてきてもらっている場合がほとんどだ。本人が招待されていても、必ず成人した同伴者がいる、はず……だった。
「君の付き添いの方は? 捜してこようか?」
今度は、首を傾げてくすりと少女が笑った。綿毛のような銀色の髪が揺れる。
「心配してくださっているんですね。従者がおりますので大丈夫です。いまは、飲み物を取りに行ってくれています。わたしはここでお留守番なんです」
「なら良かった」
でも、従者が来るまで一緒に待っていたほうがいいかもしれない。
「あの……わたしはリリーシャナと申します。あなたのお名前は?」
舞踏会や準舞踏会で、互いを知らない者同士が自己紹介をするとき、姓を述べず名前だけを口にするのは、身分を抜きにした会話をしたいときだ。仮面舞踏会で仮面をつけるのと似ている。
「おれはシルというんだ」
「シル様ですね!」
ぱっとリリーシャナの顔が輝いた。
シル、といえば誰なのか、もう良くも悪くも王都では――ましてや貴族なら、リリーシャナぐらいの年齢の子の間でも知れ渡っている。でも、リリーシャナは知らないようだった。諸侯会議のために遠方から来た貴族の子か。だから、最近の王都の事情には疎いんだろう。
そのことに対して、嬉しいと感じてしまった自分に気づいて、心の中で苦笑いが出た。……これじゃ、駄目なんだけどな。
「シル様は、このような準舞踏会には慣れていらっしゃいますか?」
「おれは……慣れたいとは思っているかな。リリーシャナは?」
「わたしははじめてです。――見えなくても、華やかな雰囲気が感じられて、楽しいです。ナイトフェロー公爵には何度お礼を言ってもたりません」
「ナイトフェロー公爵に?」
リリーシャナが頷いた。
「はい。公爵が空きが出たからと昨日招待してくださったんです」
……空きが? 昨日?
むしろ、今夜の準舞踏会はオクタヴィア様が出席すると決まってからは、招待状を手に入れようとした人間が殺到したほどのはずだ。
「……あ!」
リリーシャナが、声をあげた。待ちきれないという様子で、杖と足を動かし出す。
「リリーシャナ?」
「足音が。従者のものです。迎えに行ってきます」
「リリー――」
せめてリリーシャナと彼女の従者が再会するのを見届けようとして、追いかける。
その一歩目で、
「おっと、失礼」
わざとらしい謝罪の声と共に、飲み物がおれに振りかけられた。
杯を手に、おれにぶつかってきたのは、赤毛の青年だった。
身体が細めで、髪と同じ色の仮面をつけている。……仮面をつけて社交を楽しむ。今夜の準舞踏会では、饗宴の間で催されている趣向だ。中には饗宴の間限りのことではなく、好んで仮面姿のままでいる招待客もいる。青年はその一人のようだった。
杯の中身がかかった部分から、葡萄酒の匂いがする。
ただ、色はほとんどついていない。白葡萄酒だ。
酒で濡れたおれの礼服を見て、青年が仮面越しでもわかるぐらい顔をしかめた。
「これはひどいな。よそ見をしていました。――お詫びに着替えを用意させてください。シル・バークス様」
「…………」
ただの、嫌がらせか。
そうではなく、これが、『誰か』からの、おれへの接触、だとしたら。
目でリリーシャナの姿を捜す。若い男――従者らしき人物と無事合流できたようだ。信頼しきった笑顔で従者に話しかけている。リリーシャナは大丈夫だ。……おれは、どうする?
「――ま、これで迷わずついてくるなら、どんだけ頭足りないんだって話だよねえ」
赤毛の青年が、がらりと物言いを変え、小声で呟いた。
ついで、おれの服についた白葡萄酒を取り出した手巾で拭う振りをして囁く。
「俺はナイトフェロー公爵の使いだよ。閣下はバークス様にわざわざ『また』って言ったろ?」
……言っていた。
ただ、公爵と別れたとき、この青年は周囲にいなかったはずだ。
――公爵自身の本当の使いか。
――あの会話を聞いていた招待客から内容を知って、それを利用したか。
青年が、離れた。水分を含んだ手巾を振ってみせる。
「手巾で拭った程度ではどうにもならないようです。やはり着替えたほうがいいと思いますよ。私にお詫びさせてくださいませんか」
少しの間の後、おれは頷いた。
「――そうですね。お言葉に甘えます」
赤毛の青年に案内されて着いたのは、実際に『天空の楽園』で着替えのために使用されている男性専用の部屋だった。礼服に葡萄酒をかけられたおれが行っても、特別おかしくはない。ただ――中で待っていた人物は、いてはおかしい。
もし着替えのためなら、高位貴族専用の部屋を使ってしかるべき人物だ。この目で見ても、まだどこか信じられない気持ちがある。
「ようこそ、バークス殿」
「……お招き、ありがとうございます」
それに、何故、こんな方法でおれを呼ぶ必要がある? おれと話すだけなら、広間でも充分だった。
おれに向かって穏やかに微笑んだのは、黒髪に暗灰色の瞳をした――ナイトフェロー公爵だった。
「ね、閣下が呼んでるって嘘じゃなかったでしょ。あ、俺のことはお見知りおきせず、この場限りの通りすがりの人間だと思ってくれれば問題ないからね」
気の抜けるような声で言ったのは、仮面をつけた赤毛の青年だった。
「――言い方というものがあるだろう」
ナイトフェロー公爵が深いため息をつく。こういう仕草は、その面差しに加え、デレクとよく似ていて、親子だと感じさせる。
違うのは……デレクなら、たとえこんな風に呼び出されてもおれに疑いの気持ちは起こらない。その父親である公爵のことは――そこまで信じられない。
「いやあ、でも要するにそういうことでしょ? 閣下。あ、そうだ聞いてください。饗宴の間で、オクタヴィア殿下の護衛の騎士殿にダンスの誘いをかけたんですが、断られました!」
「お前は……何をしている」
「いやに職務を強調されたんで、俺が純粋な招待客じゃないってバレたのかって冷や冷やしましたね。いやあ、おっかないです。武器は一切なし。どこからどう見ても弱そうで繊細な貴公子な俺なのに。その後偶然殿下と踊っている間も生きた心地がしませんでした! 殿下には一回足を踏まれかけました! ……あれって俺、釘を刺されたんですかね? 閣下、どう思います?」
「偶然踊った? お前は命令外の行動が多すぎる」
「だって閣下。俺は常に出会いを求めているんです。男も女も歓迎です。ただし、美形限定で! 美形は人類の財産!」
「……バルドが嘆くぞ」
「親父殿なら庭園警備の指揮をとってる頃でしょう? 俺へ説教するために戻って……きかねないな……。いや、俺はああはなりたくないですね。堅物過ぎて。親父殿がああなのは閣下のせいですよ」
「バルドはあれでいい。人にはふさわしい役割がある」
「だから俺はこういう役回りってわけですか? いいですけどね。さーて、バークスちゃんの気分もほぐれたかな? ど?」
唾を飲み込む。おれは口を開いた。
「――ナイトフェロー公爵。どんな用があって、ここにおれを呼んだのですか。……デレクに知られては、不味いことなのですか」
あのときは、別のことに動揺していて、何とも思わなかった。いまは、デレクが離れおれが一人になるよう、公爵が誘導したように感じる。
「息子は貴公の友人だ。心情的に近すぎる。これからわたしが君に頼もうとしていることを知れば、きっと邪魔をするだろう。だから息子にはバークス殿から少々離れてもらった」
……おれに、頼もうとしていること?
「おれに、何をしろと?」
「その前に、幾つか確認しておかなければならないことがある。君は何故、単独でこの準舞踏会へ出席しようとした?」
それは、オクタヴィア殿下にしか打ち明けていないことだった。
おれが答えないことを何ら気にすることなく、公爵が話を続ける。
「何らかの情報が、君の元へ届いたからでは?」
「…………!」
公爵を凝視する。
――この人が、おれの本当の家族が、レディントン伯爵の準舞踏会へ出席すると、情報を?
静かに、公爵が首を横に振った。
「誤解のないよう言っておこう。その情報の内容はわたしも知らない。ただし、そちらへ情報が届くよう策は弄した」
「……おれの元へ、届くように?」
だとしたら。
「誰が、おれへ情報を渡したか、ご存じなんですか」
「――鼠の一種だよ」
「ねず、み」
「糾弾するのが難しい不穏分子。エスフィアに間接的に仇なす者。言い方は様々だが、一掃すべき敵であることは確かだ。放置していれば別種と交流を持ち、繁殖して巣を増やす。大元の巣を叩かねば減らしても微々たるものだ。だが、中々その巣からは出て来ないのが困りものだ」
「……なのに、巣から出て、鼠が、おれへ接触しようとしている」
公爵が、生徒に対して褒めるかのように小さく笑い頷いた。が、すぐに消える。
「――よもや、バークス殿も鼠の一種かと考えた」
デレクに似た面差しの公爵は、物腰が柔らかで穏やかな雰囲気を持つ男性だった。それは、表情のせいなのだと、気づいた。作った表情が消えると、彫像のように整った顔立ちには、刺すような冷たさしか残らない。
身体にぞくりと震えが走った。
「王族が恋に惑わされ国を傾ける――たとえば、バークス殿が鼠の指示でセリウス殿下と恋仲になったのだとすれば? 殿下を通して国政を乱れさせることができる」
瞬間、怒りが頭を占めた。
「セリウスは、そんな愚かなことはしません。おれへの愛情で政を曲げるような人間じゃない」
「……だと良いが」
拳を握りしめる。おれの訴えは、とくにナイトフェロー公爵の心には、響いていない。それが、何となくわかった。歯痒かった。
「公爵は、おれが鼠の一種かどうか、確かめるために、呼んだのですか」
「閣下。バークスちゃんを苛めすぎですよ。美形には優しく! 安心しなよバークスちゃん。疑いは綺麗さっぱり晴れてるから! 白か黒かで言えば白。単に向こうがバークスちゃんを狙ってるってだけだったわ。だからセリウス殿下があんな厳戒態勢なわけだ」
赤毛の青年が口を挟む。
これが事実なら、おれは不穏分子だと思われては……いない?
ナイトフェロー公爵が、苦笑を漏らした。
「セリウス殿下は、貴公を厳重に守っている。余計なものに一切煩わされることのないよう、怪しげなものは通さないよう。いくら鼠が餌をまこうとしても、取り付く島もないほどに」
おれに情報を届けた人間は、公爵の言う鼠の、たぶん末端だ。捕まえたところで大元には辿り着けない。――捕まえるより、目的を達成させることを公爵は選んだ。
「……公爵は、鼠の手助けをした。そういうことですか」
「普段なかなか尻尾を出さない者たちが、バークス殿には拘っている。そして情報が届き、君は準舞踏会への出席を急に決めた。情報には、君を動かす何かがあったのだろう。――わたしにとって重要なのは、君が鼠への餌となり得るということだ」




