36
大きな身体が、私をすっぽりと隠す。
直後、空気が動いた。クリフォードが、わざと背後を振り返ったのだとわかった。
「止まれ。何の用だ」
今まで私が耳にしたことのない、威圧感のある低い一声が、背後――扉のある方向へ放たれる。
扉を開けた二人が、息を呑んだようだった。
「これは、お楽しみのところを、我々が無粋だったようです。扉が少し開いていたので……しかし、まさか……」
「申し訳ありませんでした。他の部屋をあたることにします」
一人が、踵を返そうとした。だけど、もう一人がある問いを口にした。
「――あなたはオクタヴィア殿下の護衛の騎士殿では?」
「それが?」
だからどうした、とクリフォードが喉の奥で笑ってみせる。
「い、いや……」
「噂にでもしたいのか。そのために先客がいるか、お前たちはわざわざ『じっくり顔を見に』きたのだったか?」
「おい、よせ。余計なことを言うな。――護衛の騎士殿。悪ふざけが過ぎました。滅相もない話です。このような場での邂逅は互いに一夜の夢のようなもの。……我々もすぐに忘れます」
扉が閉まる音がした。足音も、遠ざかる。
それを受けて、クリフォードが私のお腹に回していた手を、外そうとした。
意図は、わかってる。
全部、演技だった。私の姿を見られないようにして、よくある逢引きの一つだと目撃者に思わせるための。クリフォードは自分にだけ、注意が行くようにしていた。クリフォードの足を引っ張らないように、私は嗚咽をこらえて、大人しくする。
用が済めば、離れるのは当然。
――それなのに、何故か、私はその手が離れていかないように、咄嗟に掴んでいた。
抱きしめるように上から握る。私の力じゃあたかが知れている。ほとんど抑止力なんかない。無視できたはず。
だけど、クリフォードはそうしなかった。
「…………」
「…………」
無言で私を抱きしめ直したクリフォードの手に、涙がボロボロ落ちる。
小さな子どもみたいに、私は人肌が恋しかった?
なんで、あたたかさに安心するんだろう。
自然と、言葉が出てきた。涙声でも、取り繕う必要は、もうなかった。
「……泣いているわたくしを、隠してくれたのね」
「お約束しましたので」
静かな応えが返ってくる。ほんの少し、いつもより優しく聞こえた。
「……ええ、そうだったわね」
泣くっていっても、こんな事態は、全然想定していなかったんだけどなあ。
「私の不手際でもあります」
「……不手際?」
「あの者たちの興味をひいたのは、私が扉を開けて入室したせいです」
「あなたは職務に沿った行動をとっただけでしょう」
王城の自室に、私がクリフォードを呼んだときみたいにはいかない。
ただし、こういう部屋に二人きりでも、扉を開けてさえいれば、目撃されたところで後ろ暗いところはないと主張できる。実際、入って来られても、私とクリフォードは同じ部屋の中にいただけ。
――私が、普段通りだったら、なんてことのない、場面だった。
「それに加え、判断が遅れました」
「……それは、わたくしが泣いていて、使い物にならなかったからだわ」
ギリギリまで、クリフォードは私の命令を待っていたんだと思う。
なのに、この体たらく。
「『主』失格ね」
「――いいえ。殿下は私の選んだ『主』です」
沈黙が落ちる。誰が、とクリフォードがそれを破った。
「誰――何が、私の『主』を泣かせたのですか?」
「教えたらやっつけてくれるの?」
「ご命令なら、喜んで」
ふふ、と涙混じりの、複雑な笑いが浮かんだ。
お互いに顔が見えないから、こんな風に話せるのかもしれない。
「ありがとう。とても嬉しいわ。……けれど、無理よ」
「何故ですか?」
「――絶対に敵わない相手だから」
「敵わずとも、挑むことはできるのでは?」
「負けるとわかっていて?」
「戦では、負け戦でも戦わなければならないことがあります」
「……そうね。勝てる戦いばかりでは、ないものね」
負ける戦いだとわかっていても、避けられないことがある。
「――それなら、負け戦でも、一撃ぐらいは返したいわ」
何をすれば、あいつに挑むことになるんだろう。一矢報えるんだろう。
あいつ……この呼び方も、駄目なのかもしれない。私情が入って、私が客観的になれていない証拠だから。
背中越しに、クリフォードの鼓動が伝わってくる。
命の音だ。
私より、ずっと落ち着いている。
――客観的に、考える。
あいつ――あの青年は、世界を作っただけ。
この世界には、ちゃんと天空神という、一番に信仰されている神がいる。
あの青年に挑もうにも、青年自身が、この世界に介入とか、そういうことは……。
……介入?
何かが、引っ掛かった。
じゃあ、あの青年そっくりのルストが、この世界に存在しているのは?
それだけじゃない。
随分久しぶりに、細部まで掘り起こすことになった、私が生まれ変わるまでの、クソ忌々しい記憶。
あの青年と交わした、会話の内容。
――ここは、『高潔の王』の世界だから。BLファンタジーの世界だから。
王子が国王に即位して、その国王が同性と結婚することは、普通なんだって、私はずっと思ってた。
男同士では子どもは生まれないから、王家の血脈を継ぐ、姉や妹の子どもを世継ぎにすえるのも。クソッタレとしか言い様のない歴史だし、歪だけど、そういうものなんだって。
でも、一昨日、父上から、私は重要なことを聞いた
女王もいたって。
四度目の女王となった、ウス王の姉君は、天空神の怒りをかって、ウス王に討たれた。
「――天空神が」
呟きが漏れる。私の、クリフォードの手を握る力が、無意識に強まった。
『書かれていない空白をぼくなりに埋めておいただけだよ。ちゃんと、君が生まれる頃には、寸分違わずあの小説の世界になっているはずだから。そこは保証するよ』
『多少過程は変わっても、結果が同じなら問題ないはずだよね? 男同士で恋愛するのが許容される国になっていればさ』
……結果が同じなら。
私の知る、『高潔の王』の世界になるように?
一巻の始まり。エスフィアの王家には、兄のセリウスと私とアレクが生まれていて――バークス男爵家にはシル様がいる。兄とシル様が出会い、二人は恋に落ち、問題が立ちふさがっても、祝福される。
次期国王の同性との一途な恋愛が、許容される。
エスフィアにおける女王の即位が、その土台を築くためには、否定されるべきことだったとしたら?
小説には書かれていない歴史の空白。あの青年が埋めたもの。
何か、していたのだったとしたら?
この世界を作ってから、ちゃんと様子を逐一見守るような、そんなタイプじゃない。『たいしたことのない魂』のために、無駄な労力を使って介入なんて、わざわざしないと思う。作ったら、作りっぱなし。……でも。
『約束は守るよ』
でも、何らかの形で、仕掛けは、残しているかもしれない。
たとえば、それが、天空神の怒り。
舞台を整えるため。あの青年から見た、間違いが、修正されるように。
――いまも?
……確証は、ないけど。辻褄は、合うよね。
この、エスフィアの歴史は、あの青年が作ったもので、本来の『高潔の王』とは、まったく関係ない? 原作者が、想像していたものですら、ない?
『高潔の王』の既刊分には、過去の国王の結婚事情については書かれていない。単に、反対派がいても、男同士の恋愛がある程度は受け入れられている国なんだって、程度。父上……イーノック王も同性婚をしている人物として登場するけど、それだけ。
物語のメインは、シル様とセリウスの恋愛模様と、彼らを巡り起こる出来事だから、読者としては、さして重要ではなかった。私が、あの青年に答えたように。
現実になったら?
『相当無理をして、何かを犠牲にしないとそんな歴史は作れないけど』
物語だから、省略しても良かった部分。
現実に当てはめるために、あの青年が、補完した部分が、この世界には、ある。
そこは、原作の『高潔の王』とは、たぶん、別物。
二つが、混じり合っているのが、この世界?
原作のオクタヴィアは強制されたから、仕方なく、自分の子をって兄に提案する感じじゃあ、なかった。
それまで王女たちに強いられていた過去があったからこそって感じでも、なかった。
何故か?
原作のオクタヴィアと、いま、ここにいる私。
私のほうは、原作の展開を知っているから。小説のオクタヴィアとは、中身が違うから。
その差だと、思っていたけど。
……違ったんじゃ?
原作では、オクタヴィアは優しくて温厚な少女で、兄とシル様のカップルが大好きだった。そういうキャラ設定と言えばそれまでだけど、近親者からの養子で繋いできた王家の過去は、漂ってこなかった。
代々、王女が王となった兄弟に子どもを取られる――ときには、母体に負担がかかる薬を飲んでまで――って歴史が、そもそも原作では考えられていなかったことだとしたら?
前世の記憶とかじゃなくて、そんな歴史の上に生きてきた王女なら、原作の妹ちゃんも、いくら優しい子だって、兄大好きにはならないはず。兄とシル様にも、複雑な気持ちを抱いていてもおかしくはない。――でも、そうじゃなかった。
国王が同性婚をしても、姉妹の子どもを次代の世継ぎとして王家を存続させてきたという歴史。
……これは、原作では、なかったことなんだ。
だから、小説のオクタヴィアは、献身的にセリウスとシル様を応援できた。
唇を噛む。
自分に対する、悔し涙が溢れた。
まただ。あの空間にいたときみたいに、気づけていいはずのことを、また見逃してた。
考えたくないからって、クソ忌々しい記憶から、逃げ続けたツケ。
――十六年も経った、今頃になって。
ちゃんと向き合っていれば、もっとはやくに、思い当たれたはずだった。
『セリウスが王になり、シル・バークスとだけ結ばれる』
原作の妹ちゃんが、お世継ぎ問題に関して、セリウスにする提案をベースにしたんだろう、とは思う。でも、もっと別の方法だってあったはず。
『高潔の王』を元にした、シル様と兄のための、ハッピーエンドの世界。
物語をそのまま当てはめるために、あの青年が想像して、原作を無理矢理ねじ曲げた世界。
――私が、望んだ、通りに。
主役二人の幸せは、私にとって当然のものだった。
自分がオクタヴィアになるなんて、想像していなかった。
私がきっかけで生まれた世界でも、私を中心に回るわけじゃない。ほんのちょっと名前が出るぐらいの登場人物だろうって。
ところが、私はオクタヴィアで。
兄とシル様たちの、原作通りの幸せと、私――麻紀の記憶を持つオクタヴィアの幸せは、どうしたって対立する。そういう、構造。
『君は、登場人物のセリウスが王になり、シル・バークスとだけ結ばれる。それを望むんでしょ?』
『「高潔の王」は二人の物語だし……』
あのとき私は、反射的に、ただ答えた。
私の予想が当たっているなら、やっぱり、私は、結婚して子どもを生んでも、国王になった兄にその子を取られるのが、正しい結末ってこと?
これも、あの青年による、多少経緯は変わっても、結果は同じこと。その一つ。
私は、どこまでも、駒なんだ。
――冗談じゃ、ない。
きっと、あの青年は、わざと私を、オクタヴィアにした。その上で、私がどうなっても、構わない。原作通りでも、そうじゃなくても。
そして、私はどうせ原作通りにオクタヴィアの役目を終えると、予想されている。
もう、過去は、変えられない。だけど。
……可能性、見せてやろうじゃない。
兄が、世継ぎ問題について、納得できる答えを提示してくれるなら、私は兄とシル様の結婚を心から祝福する。
でも、そうじゃなかったら。
抵抗することも、辞さない。
兄は、シル様と愛し合っていても、原作と違う道を選ぶかもしれない。まだ、決まっていないって、私は、自分を誤魔化してきた。
そりゃ、仲は良くないけど。兄だから。そう思っているのは確かだから。
できるなら、敵対なんて、したくなかった。ただの兄妹喧嘩じゃすまない面がある。
――覚悟を、決めるんだ。
私の代で、こんなことは、終わりにする。
同性婚をした兄弟のために、姉妹が子孫を繋ぐこと。
……BLの世界だから、じゃないんだ。
単純に、誰かの恋愛の結果を、その都合の悪い部分を、他の人間が背負うのも、違う。
心の中で思ってはいても、公の場で口に出すことは、出来なかったこと。
兄は、国王に即位するなら、シル様と結婚しても、新しい法を制定してでも女性の側室を娶るべきだし、どうしてもそれが嫌なら、即位すべきじゃない。
兄だけじゃない。父上だって、その前の王だって。
王女である私がこんな発言をすれば、それで成り立ってきた国が根幹から揺らぎかねない。でも、兄の出方によっては、言う。その結果が、争いを呼んでも。
綺麗事は言わない。当事者になってしまったから、自分のための行動だ。
私があの青年に安易に答えたことが始まりになったなら、終わらせる責任も、私にある。
事態がどう転んでも、せめて、私の後の代にまで、続かないように。
気づくのが遅すぎたけど……いまからでも。
――やることは、同じ。まずは、(偽装の)恋人を見つけること。それが、活路を見出すための第一歩。
それから――王家の過去の歴史を、調べ直そう。ヒントがあるかも。
そうだ。兄が忘れている、子どもの頃の記憶については?
あの青年が残したもののせい?
それは、天空神? それとも、他の何かか、誰か?
真っ先に思いつくのは、あの青年そっくりの、ルスト・バーン。
まだ、あの顔を思い浮かべると、全身が怖じ気づく。
でも、改めて、ルストと話をしなきゃ。
今度は、取り乱したりしないように。ルストが何者なのか、見極めなきゃならない。
思いとは裏腹に、身体が震える。
――そのためにも、自分の心に、ケリをつける。
私は、握りしめていたクリフォードの手を解放した。
それが合図になった。離れたクリフォードが後ろに下がる。
金色の仮面を外し、私は頭を下げている彼に向き直った。
「『主』として、命令するわ」
「――は」
「理由は言わない。わたくし、泣きたりないの。これから大泣きするから、胸を貸しなさい、クリフォード」
クリフォードが顔を上げた。
濃い青い瞳に浮かんでいるのは何だろう。困惑? 戸惑い?
もう充分みっともないところを見せているから、命令を下しているくせに様になっていないのは承知の上。泣きはらした顔で堂々とクリフォードを見上げる。
見上げていた時間は、長く感じた。
「…………」
ふっとクリフォードが小さな笑みを見せた。
「どうぞ。殿下」
両手が私に向かって広げられる。
クリフォードに勢いよく抱きついて、私はそこで思いっきり泣き出した。
十六年前に押し込めてしまったものを、ぜんぶ涙で洗い流せば、逃げ出さずにいられる。でも、たぶん、一人で泣いても駄目なんだと思った。……クリフォードは、いい迷惑だろうけど。
私の好きにさせてくれていたクリフォードの手が、ふと私の頭に載った。
撫でられて、ピクリと反応してしまう。そのせいか、すぐに手は離れた。
――不器用で、慣れていない手つき。
揺れる、馬車の中。
これって……準舞踏会に行く途中の、あの夢の?
クリフォードの顔を見る。クリフォードは自分の右手を眺めていた。すぐに視線が向けられる。
「……申し訳ありません。余計なことを」
「いいえ。そうじゃないの。少し、驚いただけよ」
再び顔を伏せる。
あのときも、クリフォードだったの? って。そう訊ねるのは、できなかった。
泣き続ける私の頭に、しばらくして、クリフォードが躊躇いがちに手を置いた。どこか不器用な手つきで撫でる。今度は私も変に反応したりしなかった。私が反応して、クリフォードが撫でるのを止めてしまうのが、嫌だった。
どれくらい経ったろう。きっと整えてもらった化粧はぐちゃぐちゃで、目は真っ赤だよね。だけど――ある瞬間に、もう大丈夫だって感じた。
――ルストと会っても、私は怖じ気づかない。
借りっぱなしだったクリフォードの胸を、本人に返す。
いまさらながらに恥ずかしくなってきて、泣くために外した金色の仮面を、つけた。
十六年、溜め込んでいた分。
思う存分泣いたから、自分を哀れむのも、逃げるのも、終わり。発散は、できた。
空元気じゃなくて、前向きにね!
でも、逃げ道を作っておくと、クソ忌々しい記憶を封印したときみたいに逃げてしまいそうだから、私はクリフォードに宣言した。
「わたくしは、目的を遂げるまで、もう泣かないわ。クリフォード。それをあなたも覚えていて」
次は嬉し泣きにしてみせる。
うん。大泣きした後だから、格好付かないけど。
「――は。我が『主』。しかと」
答えたクリフォードへ、自然と、いつもみたいに、笑うことができた。