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「――は。御意」
応えたクリフォードに、私へと集中していた視線がかなり分散され、向かう。
扇……『黒扇』を持ったクリフォードが歩き出した。
妙にシンとしている広間内で、硬い靴音が響く。
分散されていた視線の数は、互いの距離が近づくにつれ、結局戻ってきた。
私が伸ばしたままの右手を前に、クリフォードが歩みを止め、片膝をついた。
……ん? あれ?
その体勢で、両手で持ち閉じた『黒扇』を丁寧に私へ差し出す。
……間違ってない。間違ってはいないんだよ!
これ――公の場で、臣下が主君に物を渡すときの正式な方法っていえば、そうなんだけどね!
いかんせん、仰々しい。
簡略化されるケースがほとんどだし、そっちのほうでいいのに。
いや、クリフォードってこういう伝統を重んじるほうなんだっけ……。
ほら、案の定、息を呑んだ音が広間のどこからか聞こえてきた。
……だよね! こう、もうちょっと気軽に渡されるのを想像してたんだよ、私も!
「……クリフォード」
小声で抗議の意味を込めて呟いてしまう。
クリフォードが同程度の声量で即座に答えた。
「このような場で殿下の『黒扇』をみだりに扱うことはできません。お返しするのですから、なおさらです」
背が高いクリフォードだから、こうして私から見下ろす形になるのは新鮮。逆に、私を見上げたクリフォードが、さらに言葉を続けた。
ほんの僅かな間、その口元が歪む。
「――私が殿下にこそお仕えしているのだということも、周知されましょう」
周知? 末永く護衛の騎士として私に仕えるってことがかあ……。
たしかに周知されてしまったほうがいいのかも?
――それはそれとして。
クリフォードが口にした言葉のある部分を私は繰り返した。
「わたくしにこそ?」
「はい」
私にこそ……。
たぶん『主』と『従』だからって意味もあるからなんだろうけど!
わかっていても、なんとも乙女心をくすぐられるフレーズ!
だって、それって。
まさに、騎士に傅かれているというシチュエーションの賜だった。
「……まるで、あなたがわたくしのものであるかのようね」
なーんて論理の飛躍かつ、自意識過剰すぎる小っ恥ずかしいことを、ここがどこかも忘れ、私は口走っていた。
言ったそばから、我に返る。
距離的に、デ、デレクには聞こえているかもしれないけど、い、一応小声でのやり取りだし、はっきり私たちが何を話しているか、聞き取れている人のほうが少ない……よね? でないと羞恥で私の心が死ぬ!
「――ええ。殿下のおっしゃる通りです」
しかも、こちらを見上げたまま、本人が肯定したものだから、恥ずかしさが半端ない!
でも、私の『わたくしのもの発言』を聞いて、一瞬だけど、クリフォードが面白そうに笑ったのを私はしっかりと見た! からかいも混じっているような気がする……!
真っ赤になりそうな顔を隠すためにも、さっさと扇を受け取ってしまおう!
捧げ物のように、私へ差し出されていた扇を手に取る。
広間中の注目が、その一点に集まったのがわかった。
片手でさっと開く。
広げた扇を顔の前に持ってくる。
ふー。羽根のふわふわもあいまって、落ち着く。レヴ鳥様々。
たとえ『黒扇』という中二病な名前をつけられていようとも、火照った顔を隠し、あらゆる視線をカットしてくれる重要アイテムが、この扇!
扇ゲットで仕切り直し!
「ありがとう。――立って良いわ、クリフォード」
跪いたままのクリフォードに許可を出す。従ったクリフォードに、私は再度声をかけた。
「わたくしが話を終えるまで側に留まりなさい」
私のダンスにまつわる通説と、『黒扇』について、ここで誤解を解いてしまおうっていう心づもりだけど、『黒扇』に関してはクリフォードがいるほうが話も早いんだよね。
そして、私は正面――当初、話しかけていた招待客たちへ向き直った。
「お待たせいたしました、皆様。……ごめんなさい。わたくし、『黒扇』がないと落ち着かないのです」
扇を軽く扇いでみせる。
視線の集中度は変わっていないけど、笑顔を浮かべる余裕も出てきた。
うん、そうそう。朗らかに言うべきだしね。
「――はっきりさせておきましょう。わたくしと踊った殿方が、それが原因で破滅することなどありえませんわ。もちろん、デレク様も」
顔だけで、デレクのほうを向く。
「デレク様は、ご自分が破滅するとお思いかしら?」
「いまのところ、わたしにその予定はありませんね」
デレクはにこやかな笑みを浮かべた。
その返答を受け、
「――ね?」
扇で口元を覆い、招待客へ私は王女スマイルで訴えかけた。
だいたいね、いままで誰と踊ったか、初舞踏会のときや、相手がアレクだった場合はともかく、私、ほとんどの人のこと、はっきり覚えてません!
――う、これは王女失格だったと思う。
でも言い訳もしたい。だって、あれ、ダンスのときに自己紹介とか一切ないんだよ?
名札が欲しいっていつも切望してる!
名前だけでも、顔だけでもダメ。両方一致させておくのは至難の業。
重要どころはさすがに頭に叩き込むんだけど、そういう人たちはダンスに誘ってくれないお約束! ……のくせに、ただの挨拶だけの人はひっきりなしに来るんだよね……。
さすがに最初から知っている人なら忘れないけど、元々知り合いで同年齢の殿方にはダンスに誘われたことがなかったっていう……。
それに、複数回踊った人なら、私もさすがに記憶に留めていると思うのよ。
が、しかし――どの人も一回ぽっきり!
私が覚えているほうの人が少ないのは、仕方ないと言えないこともない……はず!
ともかく、全員が破滅か栄光か、明暗が分かれているっていうのも変でしょ! 錯覚や思い込みの可能性も考えられるし!
さらにいえば、人生は死なない限り続くんだよ? 浮き沈みがあるのは当然!
どん底から這い上がる人もいるし、頂点から転がり落ちる人もいる。
だから、絶対なんて、ない!
「どうか、いらぬ心配などなさらぬよう。……わたくしと踊ったぐらいでどうして相手の方が破滅を? ――あるいはどうしてその逆を行くというのでしょう?」
どちらも、と言いかけて、思い直した。ヒューイは、デレクによると、私とダンスをして栄光を掴んだように見えるらしいから……。
「わたくし、少なくとも、破滅に関与したことはありませんわ」
これはまごう事なき真実!
派閥や身分で固まっている招待客の面々が、近場の人々と顔を見合わせ出した。
信じてもらえてない感がヒシヒシと……!
ただ否定するだけじゃ払拭できない?
くっ。でも、当事者の私が否定しているのに……! 通説、強し……!
ならこれでどうだ!
私は言葉を重ねた。
「信用に足らないというのなら、わたくしと踊ってみれば良いのです。……どうぞお誘いを。その身で結果をお知りになることができるでしょう」
何でもないってことがね!
「――ただし」
これを言うのは忘れてはならない!
「エスフィアの第一王女である以上、わたくしも誰とでも踊るわけにはまいりませんけれど。……わたくしに足を踏まれたくはないでしょう?」
王女なのに醜態を晒すのはNG! ダンスが上手い人を希望!
そこのところをよろしくお願いします!
本当は、これをそのまま言えたらいいんだけど、婉曲表現を使うのが貴族社会の嗜みなのが辛いところ。
私はとっておきの王女スマイルを披露した。
広間の中央で踊っていた私とデレクを中心に開いている空間。私から見て正面端に集まっていた人々が、呼応するかのように笑みを浮かべてくれた。
成果を感じる。
うん。ダンスにまつわる通説については、ひとまずこんなものでOKかな。
あとは、と。
「……それから、この、『黒扇』についてもお伝えしておかなければ」
一息に扇を閉じる。
「この扇は『黒扇』。そしてわたくしは『黒扇の姫』と呼ばれているのだとか。――素材にレヴ鳥の羽根を使っているがために。はじめて目にして、驚いた方もいらっしゃるのでしょうね?」
閉じたままの扇を、胸の前で傾ける。
開いていないと、視線に対してすごい無防備になるなあ……。
「レヴ鳥は、死の象徴。不吉の鳥。ですが、こうして『黒扇』を持っていても、わたくしは無事ですわ。むしろ、わたくしを守ってくれていると言えるほど」
まさにいまも!
私は扇を開いた。突き刺さる視線が扇バリアーで明らかに緩和された。
「これも、今後のわたくしを見守っていてくださればわかることです。生きることで証明いたしましょう」
病気とか、不慮の事故に遭わない限り、死ぬ予定はない……と思うし、私が五体満足で長生きすればするほど、レヴ鳥への迷信もちょっとは払拭されるんじゃないかな。
そして、ここで駄目押し!
「――もし、わたくしだけでは不安だというのなら、わたくしの護衛の騎士が死に囚われるか否かでも、判断なさると宜しいわ」
私は扇でクリフォードを示した。
このためにクリフォードにも戻らずに留まってもらったんだよね。
「彼は、わたくしがいましがたこの『黒扇』を預けていた者です。レヴ鳥により死が訪れるというのなら、彼も同様でしょう。ましてやわたくしの護衛の騎士。あるとするならば、わたくしの次に、影響を受けやすいはず」
一人よりは二人。判断するためのサンプル数は多いほうが良い。そして、本人がレヴ鳥の迷信をへとも思っていない! これも大切! 巻き込んだのは後で謝るよクリフォード!
「お話の途中、口を挟むことをお許しください」
と、ここでローザ様から質問の声があがった。
「……ですけれど殿下? 『黒扇』をご携帯されている殿下とは違い、アルダートン様は短時間『黒扇』に触れたのみ。殿下に比べれば、及ぶと考えられる影響は限定的ではありませんか?」
クリフォードをサンプルに含めるには弱いって指摘だった……。
あ、でも。
私は扇を顔の前でゆっくりと振った。
このふわふわ羽根の使い途は、何も扇だけではない!
「――いいえ。近く、クリフォードにはレヴ鳥の羽根を用いた剣用の飾り房を与える予定です。わたくし同様、羽根を携帯することになりますわ」
そうですの、とローザ様が柔らかく微笑んで頷いた。
私も頷き返した。締めに入る。
「エスフィアの民が抱く、レヴ鳥への恐怖が薄れることを願っています」
王女教育によって習得した礼儀作法を総動員して、一礼した。
楽団に向かって、私は合図を出した。
私が話し出して中断させてしまった流れを再開してもらう。
間を置かず、宮廷舞踏曲が奏でられはじめる。
今度こそ、手に手を取った招待客たちが広間で踊り出した。
――で、現在。
男男や、男女が、密着しつつ楽しげにダンスに興じる中、私は王族席でひっきりなしに現れる招待客からの挨拶対応に追われていた。
でも、普通はここまで大人数じゃない。
たぶん、招待客に新興貴族や、貴族ではないけど有力者、が多いせい。超のつく有名どころは、おじ様やデレクぐらい。それと変則的にシル様かな。
私が覚えていないからだけじゃなく! ……知らない人々が多数を占めている。
そして、お近づきになりたい、身分が高い人物への挨拶は、まず身分が低い人が先。優先されるっていう暗黙の了解がある。
合理的な対処法なのかな?
現に招待主であるローザ様、ナイトフェロー公爵であるおじ様、その息子のデレクは人垣に囲まれている。シル様も身分という意味では当てはまらないけど、兄の恋人という立ち位置でもって、高位貴族扱い。
これが準舞踏会が進むと、高い身分の者同士でも派閥を越えて挨拶するようになる。
基本的にはってことで、気にしない人もいるけどね!
――ところで、いまだ、私へ挨拶しに来てくれる人の中に、ルスト・バーンらしき貴族男性の姿がない。
……ダンスに、誘ってくる人も、いない!
どうぞお誘いをって言ってみたし、私へのダンスの申し込みが殺到……なんて、儚い夢だったかあ……。足を踏むかもって付け加えたのが不味かった?
失望を押し殺し、扇を盾に、笑顔を顔に貼り付けて、怒濤の挨拶攻撃を捌くことしばし。
ようやく人の波が途切れて、待ちの体勢を私は止めることにした。
受け身じゃ駄目だ。自分から行かないとね!
ルスト探し――ルストじゃなくても、偽の恋人候補を探しに!
と、奮起した私の耳に、聞き覚えのある声が届いた。
「ヴィア様!」
「まあ……シシィ?」
淡いクリーム色のドレスを着た、同い年の少女。冷たい美人系の顔立ちで、艶のある黒髪に、アレクより濃い碧色の目をしている。
認めるのは癪だけど、たぶん、私にダンスにまつわる通説があったおかげで、友達になれた、シシィ・レウレー。
彼女の姿がそこにあった。
わーい、シシィだ!
――シシィがいるってことは……。
「シシィ。殿下にいきなり話しかけるなんて、いくら君が友人であっても不敬だよ」
シシィの婚約者であるヒューイ・ウィンフェルもやっぱりいた。




