164 『オンガルヌの使者』が見る世界・11(Web版)
コミックス6巻発売記念のおまけ更新です。
Web版仕様のクリフォード視点となります。
「媚薬が、効き出したみたい……。わたくしを気絶させて、くれる、かしら?」
苦しげにオクタヴィアが訴える。
――否やはないはずだった。造作もないことだ。
抱き留めたオクタヴィアを見下ろし――しかし、そこで躊躇が生まれた。
「それは……」
気絶させる。媚薬を飲んだ人間への措置として、一つの解だった。
だが言葉の通りに実行することも、かといって明確に拒否することもできず、発したのは意味のない言葉だった。
すべきことは理解しているのに、何故自分は動けない?
オクタヴィアが抗議のためか、叩いてくる。
そうされたところで、クリフォードにとっては何の害ともならない。だというのに、そのたびに困惑が強まった。害というより――。
息を吐く。
叩くのを止め、こちらを睨み付けるかのように直視したオクタヴィアが、再び言葉を紡いだ。
「……じゃあ、『祈りの間』から出て行きなさい」
先程とは異なる内容の。
そして、はっきりとした命令でもある。
「…………」
にもかかわらず、やはりクリフォードは動けなかった。
オクタヴィアは『主』だ。
『主』の望み通り、そして命令通りに、退出することが正しいというのに。
以前、準舞踏会において部屋の外での待機を命じられた、あのときのように。結果的には命令通りはならなかったが――。
「承知しました」と退出するだけのことだ。
あのときはできていたことが、何故、できない?
薄い水色の瞳を見返す。
そこに答えがある気がした。
「……やっぱり駄目よ」
オクタヴィアがかぶりを振った。
「――一人は嫌」
呟きのように、しかし強い響きでもって、言葉が発せられる。
「…………」
わずかな驚きと共に、クリフォードが覚えたのは安堵だった。
口を開く。
「――では、お側に」
「――ええ」
抱き留めたままのオクタヴィアから、肯定が返される。……だが、媚薬を飲んだ状態であることに変わりはない。悪化してもいないようだが――。
そのとき、媚薬の効果を打ち消す、一つの方法が脳裏をよぎった。条件を満たす『主』と『従』であれば、可能であるかもしれない方法だ。
……馬鹿な。
だが、すぐにクリォードはそれを除外した。成功するという確証はない。いや、むしろ失敗する確率のほうが高いだろう。そんな不確かなものを試すわけにはいかなかった。加えて、失敗したとき、オクタヴィアの症状が悪化しないとも限らない。『従』だけでなく、『主』にも悪影響がある。
……耐えているようだったオクタヴィアに、変化があった。
手が、己の首元へ向かっているのに気づき、呼びかける。
「――殿下」
媚薬の影響による行動だったのか、はっとした様子でオクタヴィアが手を戻した。
「これを外したいのですか?」
問いながら、釦に手を掛ける。
意図を確認するためでもあったが、想像通りであれば、オクタヴィアを煩わせないためでもあった。
オクタヴィアが頷いたのを見、片手で釦を外す。
これで良かったようだ。
少しの間、満足げな微笑みを浮かべていたオクタヴィアだったが、何かを思いついた様子で、
「……邪魔しないで」
と言い置いた。
そして、すぐにクリフォードの制服の上着を強く引く。その引いた方向と、視線の向かう先から、目的が首筋にある傷痕だったとわかった。
傷痕を目にしたオクタヴィアが顔をしかめる。
「……お目汚しを」
「……違うわ」
首を横に振ると、オクタヴィアが呟くように言った。
何が違というのか。顔をしかめた理由は、この傷痕の見た目のせいではない?
「……消せそうだったのに。刺青」
後悔を滲ませ、オクタヴィアが呟いた。
――夢のことを思い出す。本来、起こるはずのない、意識の共鳴。
「どうして、間に合わなかったのかしら」
何故、あんな夢のことをオクタヴィアが気にかけるのか。クリフォードにとっては、いまの己とは切り離されたものにすぎないというのに。すべて終わったことだ。
捨て置けばいい。
同時に、矛盾した思いが浮かぶ。
忠実に過去が再現されるのみだった夢が、オクタヴィアによって変化した。
――間に合わなくとも、それだけで充分だったと。
オクタヴィアが、背伸びをした。邪魔をしないようにと言い含められていたため、様子を見守るに留める。だが、何をしたいのかまでは不明だ。
クリフォードがオクタヴィアの意図を察したのは、その直前のことだった。
醜い傷痕に、唇が触れる。
熱が、傷痕に宿った。唇が離れた後も、それは感じられた。
オクタヴィアの右手の甲に『徴』が浮かび上がり、光を放つ。
右手。夢では左手に浮かんでいたものだ。
……繋がりの深い『主』と『従』の間で起こりうることは、夢以外にもある。
かつて、『主』の苦痛や怪我を、自身へ移した『従』が存在した。
――いまだ、それが自分に可能なのかどうか、確証はない。確信もない。
しかし、オクタヴィアに害のないように試すならば?
浮かび出、光を放つ『徴』に目を見開いているオクタヴィアの、その手をクリフォードは取った。
おそらく効果は低くなるが、そのかわり、より安全でもある。この段階なら、失敗しても、反動が自分にだけ来るように調整もできるだろう。
――オクタヴィアの右手の甲に輝く『徴』に、口づける。
なるほど、と思う。移動させる、とはこういうことか。
光が収まり、『徴』が消えた。
手を離すと、オクタヴィアが不思議そうに瞬きをした。……どこか苦しげだった様子が、少し変わっている。媚薬の効果が薄れたのだろう。
完全に、とは行かなかったが。
そうするためには、別の方法を取らなければならなかった。
「クリフォード、あなた、何かした?」
「――いいえ」
かぶりを振る。偽りを口にしたわけではない。
実際、行ったのはオクタヴィアも同然だったからだ。
『主』の行動があったからこそ、可能になった。
「――そう」
大きくオクタヴィアが頷いた。
ついで、抱きついてきたオクタヴィアを受け止める。
少しの躊躇いの後、クリフォードはその背に両手を回した。




