159 王配エドガーの述懐(後編)
……なんの茶番だ。俺の抱いている怒りをどこまで増やすつもりだ。
『何だ? 実は俺を愛してたのか?』
そんなはずはないと知っている。だからこそ、妹を愚弄するかのような申し出に腸が煮えくり返った。
『いいや』
俺は、奴の胸倉を掴んでいた。
『――だったら! アイリーンをいまでも愛しているなら、ふざけたことを抜かすな!』
『男と結婚するつもりはなかった。……変えられる、と信じていた』
『俺はお前を殺したいほど憎いんだぞ……! それをしないのは、お前が王子だからだ! 王太子だからだ!』
こいつが王子でさえなければ。あらゆる手を使って追い落としてやった。商人だからこそ、ツテはある。決して手を出さないようにしてきた、汚いことだって、いくらでも。
何だって。
『なあ、俺の話を聞いてたか? 自分を憎んでいる奴と結婚? 正気か?』
『――私が男と結婚することが、重要なのだ。……その、事実が』
嘲笑うかのように告げられた言葉に、わずかに俺は冷静さを取り戻した。
まるで、こいつの意思とは関係なく、絶対に男と結婚しなければならない、とでもいうかのような。どうしてだ。一国の王子が。
『男であればいい。……愛し合っている必要もないんだ、きっと。ただ、どうしても男を伴侶としなければならないと考えたとき、思い浮かんだのはお前だった。……アイリーンの兄だ。信用できる』
馬鹿らしくなって、胸倉から手を離した。
『平民の俺がか? そもそも、どうやってアイリーンと結婚するつもりだった? 王子サマ?』
奴の顔が歪んだ。
『……叔父上が、後ろ盾になってくださるはずだった』
『キルグレン公? さすが王子サマだ。大物が出てきたな』
奴が今度は首を振る。
『もう、誰にも後ろ盾は頼まない』
『それで、王子サマが平民の男と結婚?』
――笑えもしない。男と王族が結婚するのは、驚くことではない。エスフィアでは。ただ、これまでは、男であっても、身分が釣り合う相手だった。
『前代未聞だぞ。何の後ろ盾もない平民なんて。正気か?』
『……せめてもの、抵抗だ。抵抗になるのかすら、わからないがな』
『抵抗? そのために俺を利用したいわけか』
『……そうだ』
『俺の立場は? お前と結婚して、俺は何を得る?』
俺には不利なことしかない。
好きでもない、しかも男と結婚だと? 偽装にしても最悪すぎる。
その上国王だ。なら俺は王妃か? 馬鹿馬鹿しい。
交渉としてもあり得ない。対価としてこいつが俺に与えられるものなんて何一つないからだ。
欲しいものは、俺は自分で手に入れてきた。
その俺が、いま一番欲しいものは――生きている、笑っている、妹だ。
なあ、アイリーンを返してくれよ。アイリーンの幸せを。死に顔を思い出すと、どうしようもなく辛くなる。苦悶に歪んでいたりはしなかった。
覚悟を決めた。戦いきった。そんな顔を、していた。
こいつのせいで死ぬって、わかってたんだよな、アイリーン?
それでも、あんな顔をしていたのは、こいつを、最期まで愛していたからか?
……どうしてだよ。
――俺は憎くてたまらない。
誓っておいて、アイリーンを守れなかったこいつが。
『私が殺したいほど憎いと言ったな。もし、すべてが終わったら、お前には私を殺す権利をやる』
『その、すべてが終わるのはいつだ』
『私は即位し、王となる。その後。次代の王が、決まるまでだ』
『俺はお前を殺しても罪に問われず、自由の身か?』
『ああ』
――これから、二十年か、三十年。最低でもそれぐらいはかかるだろう。
こいつを殺すために、それほどの時間を費やすのか?
自分の人生を懸けてまで?
選択が正しかったのかは、わからない。
市井に流布しているイーノックと自分の恋愛譚を聞くと、反吐が出そうになる。見初められた幸運な商人? あれは、自分のことではない。……妹のことだ。馴れ初めも、すべて。
ただし、側で二人を見ていた自分だから、すらすらと語ることもできるのだ。
相思相愛の王と、男の王妃。
形ばかりの夫婦だ。肉体関係もない。イーノックに男を抱く趣味はないし、もちろん自分だってそうだ。
実体がはじめから偽りなどとは、いまとなっては自分たちぐらいしか知らないことだ。
セリウス。オクタヴィア。アレクシス。
三人の子どもたちですら、イーノックとエドガーは愛し合っていると思っていたはずだ。
――いや、オクタヴィアを除いては、だろうか。
自分でもよくわからない。何故、オクタヴィアの前で、本音を吐露してしまったのか。
……アイリーンの墓へ、花を手向けに行く前だったから?
妹の墓は、王城内にひっそりと存在している。イーノックがそれを望んだとき、最初は猛反対した。花を手向けるのは、墓の場所を知る三人のみだった。
「いまは……二人か」
ジハルト・エスフィア。あの弱く優しい人が城を去ってからは、俺とイーノックだけだ。
だが、俺たちが墓でかち合うことはなかった。
――願わくば、今後も会わないことを祈っている。
「…………」
墓には、既に花が供えられていた。
舌打ちしたくなる。だが、捨てることはしない。
「……お前は望まないだろうしな」
最初は、墓がここに在ることが我慢ならなかった。しかし、いまとなっては、良かったのかもしれないと思う。
気が向いたときに、すぐに会いに行ける。
命日が近くなると、特にそうだ。
もちろん――命日である、今日も。
……だからだろうか?
大きく、息を吐いた。
「――失敗したな」
夕食会で、余計なことを言ってしまった。押し殺しているものが、一部溢れてしまった。
「愛、か」
せせら笑う。
「お前はどう思う? アイリーン」
もうそろそろ終わりの時期が近いリーシュランの花を、墓前に捧げ、妹に話しかける。妹ならば、きっと信じるのだろう。
だが俺は信じられない。その愛の結果が、これじゃないか?
なのに、希望を見出したくもある。王家の子どもたちが――夢物語のような幸せを得ることを。誰かの犠牲によって成り立つのではなく。
イーノックの近くにいれば、見えてくるものがあるのだ。妹が殺された直後には、見えなかったもの。――王家に巣くうもの。支配するもの。
……妹の死は、イーノックがそれと戦い、敗北した証だった。
理解は、余計な感情を生み出した。かといって、イーノック自身への憎しみが消えるわけでもない。許せもしない。
「――憎しみだけで良かったのに」
ぽつりと、呟いた。
……心からの願いだった。
迷いなど、いらない。
くだらない情も、必要ない。




