149 シル・バークスの忘我
独特の臭いがする。――嗅ぎ慣れた臭い。
自分で自分に思ったことに、違和感があった。
……嗅ぎ慣れた?
「……それより、バークス様は、気分でも?」
話しかけられている。答えなきゃ。
赤い滴が、地面へしたたり落ちた。その動きを、目で追ってしまう。
――赤。赤色が、頭から離れない。しっかりしなくては。
「――おれ、行きますね」
これから、『空の間』で起こったことの再現を――アルダートン様と戦わなければならないのだから。ぐっと、右手に持った剣の鞘を握りしめる。
……奇妙な感覚だった。ふわふわとした高揚感。
でも、覚えがない感覚じゃないんだ。一歩離れていたところで眺めているしかなかったはずの――それが、すごく近く感じる。怖い。
――怖い?
疑問が生まれた。怖いんだろうか。
意識は、はっきりしている。おれは自分を見失っているわけじゃない。そうだろう?
アルダートン様と、向かい合って、立つ。息を吸い込むと、血の臭いがした。
下を見ると、真新しい血の跡が、点々と残っていた。傷口が開いたと言っていた。あれだけ動いていたんだ。こっちにも血が落ちていたっておかしくない。
はあ、と息を吸い込む。
血だまりができているわけじゃない。少量なのに、赤色が目に焼き付くようだった。
……微かに漂う、臭いも。
――おれ、こんなに鼻が良かったっけ? そういえば、血も――ほとんど、見たことがない。……ほとんど?
――まったく?
考えてみれば、血を見たことがないって、変じゃないか?
それは――。
『――正気でいたいなら、血を避けろ』
そうだ。だって、気を付けろって、言われたから。
……アルダートン様に?
違うだろ。目の前に立っているのがアルダートン様だからって、おれを助けてくれたあの人とは、違うんだ。四年前に、おれの命を救ってくれた人じゃない。
混同するな。落ち着こう。深呼吸する。でも、やっぱり、空気に血の臭いが感じられて、地面の血の跡を見てしまう。
「――目的は、『空の間』での戦いの再現だ。これより、真剣を用いて両名に戦ってもらう。先程のように、便宜上、砂時計での制限時間を設定する。デレク!」
セリウスの声がする。落ち着く、おれの好きな声。
――しっかりしろ。おれが、望んだ場なんだから。
それに――何だか、確信がある。
再現には、ちょうど良い。
「――はじめ!」
号令で、剣を引き抜く。邪魔な鞘は投げ捨てた。
血を見たせいなんだろうか。『空の間』で打たれた薬は何だったろう。あのときと、似た感覚がある。……思い出してきた。あのときは、おれの意識は、遠くにあった。すべてが研ぎ澄まされていたのに。
いまは、それがおれのものだ。
懐に飛び込み、剣を繰り出す。――防がれた。アルダートン様って、本当に強いんだな。でもまだ……まだ全然本気を出していないのを感じる。それに苛立つ。
力を加減している。……おれを傷つけないように?
――それは、正しくない。本能に逆らっている。
だって、おれたちは同じじゃないか?
どんどん、身体が軽くなる。剣が手にひどく馴染む。――そういう生き物。
この応酬が、手応えがあればあるほど、高揚する。楽しい。でも、まだ足りない。『空の間』ではあった、敵意がない。
もっと――。
そして、おれは気づいた。この男は、おれに対して、自制している。自制して、戦っている。ただ、淡々と。
それは、覚えのある在り方だった。――『主』のために。オクタヴィア様のために?
『従』は、『主』のために、あらゆるものを犠牲にする。
なのに、おれは――。
おれは?
思考が鈍った。おれはどうしてこんなことを知っているんだ? 自分のことのように思うんだ? まるで、自分が『従』という存在かのように。
……『従』。
『従』って、何だっけ?
いまだ続くこの高揚は、おれが『従』だから? じゃあ、自分と似たものを感じるのは、この男も『従』だから?
剣を打ち込む。振動が強く腕に伝わった。相手は何の動揺も見せない。
――『従』? 違う。
突然、理解した。
おれが、アルダートン様に感じている――この感情は、『従』のせいじゃない。
戦っていて、はっきりと感じられる。
答えが見つかった。そう。言葉で表すなら――。
「……兄さん?」
近親者への。
アルダートン様の動きが、瞬間、静止した。
「っ!」
はっきりとした、敵意に、身が竦む。変化は、唐突に現れた。
自制が破れ、相手から敵意が溢れる。
これでこそ、と思うのと同時に、そんな自分自身への違和感に、混乱する。
アルダートン様が兄さん? そんなことを思うなんて、なんでそんな風に思ったんだ。確信が持てたんだ? ただ、感覚だけで。
――ついて行くのが精一杯なのに、苛烈な剣での応酬が、楽しい。それでいて、怖い。自分でもどっちが本当のおれなのかわからない。
攻撃に耐えきれず、片膝をつく。
剣が手から滑り落ちた。
はあ、と息をつく。見上げた先には、迫る剣が見えた。
柄の先で、レヴ鳥の黒い羽根が、誘うかのように揺れている。
剣の主である相手にあるのは、ただ――溢れんばかりの、それでいて凍るような敵意。
――あの日も、そうだった。
思い出した。『空の間』で、自分であって自分でないものが、身体を動かしていたときのことを。おれは何も出来ず、それを眺めていた。
『空の間』で、殺されると思った、その瞬間を。
それが、止まったのは――。
「っクリフォード!」
オクタヴィア様の声がした。




