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父上がどの時間どこにいるのかっていうのは、だいたい予測できる。
父上は朝型。朝に仕事をする派! 執務室で朝食を取りつつ仕事をしているのが常。
日中は逆に謁見対応のために玉座の間にいたり、出かけていたり、執務室を留守にしていることが多い。
なので、まさにいまの時間こそ狙い目なのである!
自分で謁見の申し入れをしに行けば、時間を作ってくれる可能性大!
私、オクタヴィア、申し入れを装ったアポなし突撃を敢行します……!
だって、この謁見の申し入れなるもの。自分で行っちゃいけないなんて決まりはないもんね! ……邪道かもしれないけど。
父上がOKしてくれればよし、すぐには無理でもある程度待てば何とかなる……と思いたい。
鍛錬場にある地下牢から父上の執務室に赴くために、近道、近道、と。
いっそ隠し通路を、と一瞬血迷いそうになったけど、むしろ隠し通路なんて使うと通路内で迷子になりそうなんで自粛。なんとなーく、隠し通路のあの辺を行くと父上の執務室方向なんじゃないかなー、ぐらいの知識しかない。かつ、その後の道順もさっぱり。
あと、実は今日履いている靴が一番の問題だったりする。
ドレスは、城内を移動するには十分なデザインの普段着用として作ってもらったお気に入りの一着。明るい薄紅色のドレス。気分だけでも幸先の良さそうな色をまとえば、ヒューの説得も上手くいきそうかなって。……まあ、説得以前の話になっちゃったけど。で、ドレスとおそろいの色で靴を自分でチョイスしたは良いものの、これが新品で踵の高いやつだったんだよね……。
いや、エスフィアの貴族淑女の常識からすれば、ないも同然の高さだよ? 脱いで踵部分で攻撃できるぐらいの鋭さでもない。でも、踵の低い靴に慣れきっている私には、高く感じるという……。試し歩き……数歩歩いた感覚では問題なし! だった。
――あれから、数歩以上歩いた現在、全力で走ったり、気を抜いて隠し通路を歩いたりすると転けそう?
おまけに、地下牢から目的地を変更して歩き始めてから、おろし立ての靴にありがちなあれ。片足だけ靴擦れの気配が……!
うーん。でも、履き替えるほどじゃないし。
なので、普通に大回廊を通りましょう! 正規ルートでの近道!
衛兵が開けた扉の先へ進むと、創世神話の一幕――天井を天空神の領域、床を地上、つまり人間の領域として――が対として描かれた空間が、通る人間を圧倒する。
はじめてだと皆、何かしらのリアクションを取る特大の芸術作品でもある。大多数はまずは天井を見上げて感嘆して、次に床の絵へって流れ。
私が見た中で、無反応っていうのはほぼない……あ、一人だけいた。
私は前を歩くクリフォードの背中に視線をやった。
約三カ月前にクリフォードが私の護衛の騎士になってから、たぶんはじめて大回廊を通った時も無反応だった、と思う。というか、天井をチラリとも見なかったので、クリフォードの名前を知らなかった当時ですらそのことは私も覚えてるんだよね。
――逆に珍しかったから。
初回だけじゃなくて、それからもこの姿勢は貫かれている。いまも。
「空からのお告げよ」って言ったときの反応だったり、準舞踏会でサイコロを振ったときの会話だったり……天空神がらみでクリフォードって何かあったのかな……?
大回廊もアレクとは違ってあんまり好きじゃないっぽい……? どころか、嫌いだったり……?
視線を天井画のほうに向けながら歩き続ける。
――もうすぐ『天空神の審判』だ。
大回廊の中心部には、天井と地上で、天空神と人間が見つめ合う図が描かれている。
つまり、大回廊を通るとき、通路の中央に立って上を見上げると、天井の天空神に真っ直ぐ見下ろされているような感覚を味わえる。
その行為そのものが、いつか『天空神の審判』と呼ばれるようになった。嘘か本当か、歴代の王の中には、啓示を受けた人物もいたとか。眉唾だと思っていたけど、天空神が『あの青年』が残した仕掛けだとすると、本当だった可能性も……?
私も、アレクと見上げたことは何度かある。ただし、何一つ感じたことはない。
……アレクのことを考えたら、会いたくなっちゃったな。
父上から密旨を受けて出立してからもう七日も経ってる。行く場所までは教えてもらえなかったし……。エスフィア国内のどこかだとは思うんだけど。戦争中ではない現在、命の危険があるような任務ではないはず。……だから、無事に帰って来る。そうは思っていても、ちょっとだけ不安はある。
私はぴったり中央の床で立ち止まった。
――せっかくだし。
アレクの代わりに、久しぶりに『天空神の審判』を受けてみる。
「…………」
数秒ぐらい? 見上げ続けたものの、変化なし。
ふう、と頭を下げる。
何もないってことは、アレクも無事に帰ってくるってこと!
私は都合よく解釈することにした。
……あ。前を歩いていたクリフォードがこちらを振り返っている。
いきなり私が立ち止まったからだよね。
歩き出そうとして――。
――そういえば。
ドレスのポケットに仕舞った手紙に書かれていたことを私は思い出した。
兄(記憶あり)は、大回廊でクリフォードに会ってる!
もちろん、そのことを私に報告する義務はクリフォードにはない。それは全然良いとして、訊けばちゃんと答えてくれるはず!
そして、一定以上の身分を持つ者でないと通ることが許されない大回廊の性質上、他に人の姿はない。
絶好のチャンスじゃない?
「クリフォード。訊きたいことがあるわ」
大回廊の中央に立ったまま、私はクリフォードに問いかけた。
近くもなく、遠くもなく。護衛の騎士としての最適な距離を保って立つクリフォードの、 濃い青い瞳と視線がかち合う。
「…………」
「…………」
…………あれ?
私、ちょっと緊張してる?
――クリフォード相手に?
心の中で首を傾げる。
「何をお訊きになりたいのですか?」
クリフォードが普段通りに静かに口を開いた。
うーん……。なんだろ。こうしている間も、こう……こう、クリフォードに背を向けて走り出したいみたいな気持ちが湧き上がってきてるような……?
いやいや、何で?
「……ええ。質問は」
とりあえず、『黒扇』をパッと開いて考える。
――私は、今日起きた瞬間からヒューのことで頭が一杯だった。だからクリフォードと朝に顔を合わせたときもそれどころじゃなかったんだよね。
ただし、ひとまず最悪な事態は回避された可能性が高い。
肩から力が抜けた状態で、クリフォードと改めて目が合った――二人きりで向かい合った――のは、これが初めて。
合点がいった。
そうですよ!
昨日の今日なんだ!
――昨日、私はかなりの醜態をクリフォードの前でさらしたばかり。
甘え、我が儘を……? よしよしをしてもらったあげく、何故かクリフォードの頭を撫でようとする暴挙まで! 未遂に終わったのがせめてもの……!
……逃げだしたくもなるよね。
自分で自分に賛同しちゃう。
クリフォードの剣に、ちゃんとレヴ鳥の黒い羽根の飾り房がついているのも何だか嬉しいし。……あの時だけつけたわけじゃないんだなって。
だから一言でいうと……たぶん、気恥ずかしい? だから、逃げ出したいような……後ろに下がりたいような……。
いや、でも、ここは!
私はふんと一歩を踏み出した。
「…………?」
ちょっと怪訝そうにしているクリフォードに向かって、ツカツカと前進する。
――と、クリフォードが口を開いた。
「――殿下、歩き方が」
へ?
「…………!」
あ、ヤバ。
――いつもより踵の高い靴だっていうことを、すっかり忘れてた。
足が――。
このままだと転ぶ、と思った瞬間。
体勢がほとんど崩れることなく、ふわっと身体が浮かんだ。
ううん、実際に少しだけ持ち上げられた?
右手で私の手を取り、左手で腰を支えたクリフォードが、転けるのを阻止してくれていた。
「――お気をつけ下さい」
濃い青い瞳には気遣わしげな色が浮かんでいる。
うう。自己嫌悪。
転びかける前に既に動いてくれているクリフォードの護衛の騎士っぷりと比べて私ときたら。
「ありがとう」
ごめんね、ごめんね。駄目な『主』で。
「もう大丈夫よ。離してくれて構わないわ。履き慣れていない靴で少し体勢を崩しただけだから」
エスフィアの貴族社会の常識からするともってのほかな、いわば横着靴に慣れきっていた自分のせい!
至近距離で、クリフォードが私の足元を見下ろしてから顔をあげた。
「先ほど、殿下は片足を庇うような歩き方をされていました」
「………そうかしら?」
靴擦れのせいですね……。
「はい。僅かですが」
クリフォードがしっかりと頷いた。
すっとぼけようにも誤魔化されてくれない空気……!
「足を怪我されているのでは? ――気づくのが遅れ、申し訳ありません」
いや、むしろこれだけで気づくほうがすごいよ、クリフォード!
断じて、痛恨の極みです、みたいに言うことじゃないからね? ね?
シュンとして犬耳が垂れている大型犬の幻想が見える……!
「ただの靴擦れよ」
「しかし、そのまま歩けば悪化します」
ぐ。正論。で、でも、言わせてもらえば、華やかな舞踏会や準舞踏会の裏で、貴族女性は微笑みながら高い踵の靴を履き、靴擦れの苦痛に耐えながら歓談したりダンスしていたりするからね? そんなもんだよ!
「早急に怪我の状態をご確認すべきかと」
「……でも、怪我というほど大げさなものではないのよ」
「…………」
私の主張はクリフォードにスルーされた模様。ぐぬぬ。
突っぱねることはできる、けど……。
私は周囲を見回した。大回廊って、端に何個か椅子が並べて置いてあるんだよね。こことはいわず、城内には廊下や室内に適度に椅子が置いてある。城自体が大きいから、小休憩用に。
「――いいわ。それならあそこで足の状態を確認しましょう」
大回廊の装飾と完全に調和している椅子の一つを指差す。
「は」
首肯したクリフォードが、
「では、お運びします」
当然のように私を抱き上げた。
「っ?」
目を白黒させる私をよそに、クリフォードが歩き出す。
って、ちょっと待った!
抗議の視線を送るも、原因である本人は不思議そうにしている。
「わたくし、自分で歩けるわ」
「先ほども申し上げましたが、ご自身で歩けば悪化します。また殿下が無理をして歩くような状況でもありません。私をお使いください」
それに、とクリフォードが包帯の巻いてある私の左手をチラリと見てから続けた。
「――ただでさえ、殿下の怪我の治りは遅く感じられます」
「特に遅くはないと思うけれど……」
左手に関しては、傷口が開いちゃったりしたからそのせい……。
――でも。
クリフォードの言いたいことはわかっている。
以前、父上にも指摘されたこと。
王女という立場上、怪我や体調の悪さを軽視してはいけない。
加えて、大丈夫って押し通せないのは、相手がクリフォードだから。
私、クリフォードには現在進行形で「怪我しないで!」ってものすごい無茶ぶり中なんだよね。ところが、職務が護衛の騎士である以上、通常より負傷の可能性が高いっていうのに、クリフォードは実際に応えてくれている。有言実行。
対して、自分の靴擦れぐらいはへーきへーき、で通すのは、どっちの分が悪いかっていうと、明らかに私です……! 有言不実行……。
私は身体から力を抜いて、クリフォードの首に両手を回した。
「――クリフォード、わたくしをあの椅子まで運んで」
「承知しました」
答えたクリフォードが、ちょっと満足げに口角をあげたように見えたのは気のせい?




