カンガルー、色欲かたる
『色欲ってのはさ、発情期がない人間にこそある罪であって、カンガルーであるあんたに憑りつくって状況がいかに異常か分かる?』
色欲のルクシリアは困った風な、気だるい風な雰囲気を醸し出しながら訥々と語る。
『ユー、それはこっちの台詞だ。ユーがいきなりここに来たんじゃないか』
『いや、だってなんか波長が一番近いからさ……』
心底悲しそうなルクシリアは一応女性の魔人である、しかし雰囲気にのまれるわ大きな失敗をするわで魔人の矜持すら忘れかけていた。
彼ら大罪の魔人とは、無力な人に憑りつきその欲望を助長することで精神を支配し肉体を奪い取る、キリスト教悪魔的存在である。
して、所謂野蛮な獣に罪や敬虔な教えが通じるだろうか。
(獣とはある意味で人よりも罪業が深いものですからね。こうなるのも必然でしょう)
むしろ理性がある人間に堕ちるより獣に堕ちる方が合理的だとカンガルーは思う。憤怒や嫉妬のような感情は人専用と言えるが、暴食や色欲は獣の専売特許とも言えよう。
『でも……うーん』
(悩んでも仕方がありませんよ。私の体、支配してみますか?)
『ちょっとユー、デンジャラスなことを言うんじゃない』
けれどカンガルーがそう言うのは、別にどちらでもいいからという淡泊なものの考え方が理由にある。
もちろん彼女にとって大切なのは種の繁栄と自分と家族の命であるが、強い者が世を淘汰するという現実がある以上、憑りつかれている現在そうされても仕方がないという一種の諦めもあるのだ。
けれどルクシリアは、また唸った。
『動物に憑りつくったってね……どうしたらいいんだか。操る部位は生殖器って決めてたのに、いや袋の中に乳首があるってね……』
あまりに自分が情けなくて、若干鬱気味にすらなりだしている。
その感情はカード達がチェンジャーに伝えるようにカンガルーにもラバーズにも伝わる。
(そんなに落ち込まないでください。人間とはこういう時にこそ男女で慰め合うのでしょう?)
のそのそとカンガルーは気だるげに寝転がる夫の方へと向かった。
『……動物のくせに子づくり以外でするの?』
『ユー、発情期の目的は子づくりではなく単にしたいから、だそうだよ。今は発情期でもないがね』
『……マジ? そりゃ動物の中じゃ特別だわ』
動物の性行為を子供を作るためだと思い込んでいる人がいるならば、少し考え直してほしい。
野生に生きる動物が我らは種の繁栄のために子供を作るのだ、などと崇高な使命感をもって行動しているならば、それは既に知恵があり感情があると考えられよう。
動物とは、宗教で言われるところのケダモノというものは何事も我慢せずに理性なくしたいことをしたいだけだからこそのケダモノなのだ。
故に子づくりとて、単に生物として発情期という時間が組み込まれているため、たんに気持ちいいことをしたいという欲求に突き動かされているのみなのだ。
『人間だってアニマルの一種だけどね』
真昼間から衆人環視の元、全裸で常に行為を続ける彼らがもしも人のような感情や意思を持ち合わせているならば、それはまさしく色欲という罪がうってつけであろう。
『ま折角だセニョール! こうして一つの体の中で出会えたのも何かの縁、僕達は僕達でランデブーと行こうじゃないか!』
『勘弁願います』
このカンガルーの精神の中でルクシリアがラバーズを倒せば、抵抗力を失ったカンガルーの体を乗っ取れないこともない。
だがその意味があるのかどうか、ということを考えると踏ん切りがつかない。
抵抗力を失えば改造された人間の体を使い攻撃ができる、熱された血、絞め殺す髪、膨らみ押し潰す腹、怠惰などは尻を重くすることができる。
色欲なども委細語れぬ攻撃手段があるが、それが不可能ではないのだ。
だが、進化し世界を支配している人間の体を支配することこそ意義があり、例え人を殺せても飼われているカンガルーの体を乗っ取ったところで意味がないとルクシリアは考えた。
『……このまま飼われるのも悪くないかもね、男もいるし』
『おや、ランデブーかな?』
『ノー、あるのは性行為だけよ』
火野札動物園は何も変わらない。その日を境にカンガルーのコーナーを子供と観るのがちょっとはばかられるようになった頻度が増えたくらいである。
そして最後、デスの変身が解け高山が戻ってきた時に。
切と日出三がそれぞれエンペラーとマジシャンのままで。
少し離れたところ、エンプレスが光と消え去った瞬間。
千佳は体中から生えた腕に飲み込まれた。
(きゃあああああああああああ!! 何!? なになに!?)
『私はバリティア。千佳、あなたが欲しい物をなんでもあげることを約束してあげるわ』
強欲のバリティアは母のように優しい言葉を千佳に投げかけた。
日出三の目の前で千佳が化け物へと変わっていく。
全身が腕に包まれ、それはまるで巨大な蜘蛛が複雑に絡み合ったかのような姿。
「え、エンプレス……」
「正式には、既にエンプレスですらない……」
間近で切が呟く。その切は倒れた高山の体にくぎ付けになった。
「あれは……高山っ!?」
黄金の鎧はその巨体を思わせないほど素早く高山の体を優しく抱き起した。
「知り合いでござるか?」
日出三は千佳への警戒を解かないまま尋ねた。
それに切は高山から片時も目を離さないまま答える。
「……登校拒否になっていた同級生だ。知り合いというほどではない」
そうはいっても普段冷静な切が取り乱した様子を見せたため、日出三はその言葉を疑った。
だがそれ以上の言及もしない。切が隠したがっているのを無暗に知る必要もないと判断したからだ。
日出三はひとまず千佳との接触を試みた。
「エンプレス! 聞こえるかエンプレス!?」
だが千佳は答えない。絡み合った腕だけがギチギチと音を立てている。
「……一体、どうしてこんなことに」
「決まっているだろうが」
日出三の呟きに、悲しみに沈んだような切が答えた。
その手にはデスのカードが握られている。
「ハーミットだ。奴とつるんでいたデスが戦いに訪れ、それが破れた瞬間に七つの力が降りたんだぞ? ……もしかしたらこの二十二のタロットも発端は奴なのかもしれんな」
言葉の途中、ハーミットへの怒りを示すようにデスのカードは砕かれた。
黄金の兜の顔は変わらない、だが赤い瞳は怒りに燃えるように輝いた。
「エンペラー殿、無謀なことは……」
バリティアの反応はタロット達よりも遥かに大きい、それは今もなお増えている。
「無謀、だと? そう思うなら手伝え! あれはお前側の仲間だろう!?」
距離をとって、高山を街路樹の元に寝かせて、切は再び千佳と対面した。
(……おいおい、俺が悪役参謀ならもう後ろから刺してるぞ?)
状況の悪化と政治制度の独裁化に伴い、悪役の参謀はボスに挿げ代わるべくボスを殺すものである。それだけ状況が酷くなったことと切への信用が失墜したことを日出三は暗喩している。
『そうは言っても戦うのであろう? ハーミットが黒幕であろうとなかろうと、今は目の前の少女を救うだけであるよ』
(それは違いない。カードも能力もないただの小さな女の子、助けなければ男が廃る)
ステッキを構える日出三は、周りに水の球を複数浮かべる切の真後ろに立った。
切は後ろも向かずに日出三に言った。
「あれがどういう生物かは分からんが……腕を捥ぎ飛ばしてエンプレスを助け出す、でいいな?」
それが正攻法なのかは分からない。腕の一本を攻撃した時にどれだけ千佳が苦しむのか分からない、だが今はそれしか思いつかない。
「一つだけ。既にエンプレスではない以上おにゃのこと呼称を改めて……」
「無垢な少女を救う、でいいな」
語尾が上がると同時に切は疾駆し、まっすぐ水を纏いながら突進した。
(いけない! 怒りで我を忘れている! 他に何かできないのかよ!?)
『それは想像力次第であるよ。何もない闇の中からイメージして生み出すことこそ我が魔術である』
その言葉に、むしろ日出三は安心した。
(妄想なら俺の十八番だ!)
もはや自身が洪水と化した切は衛星のように飛ぶ水を吸収しながら更に進む。
日出三は闇の円を作りそれに乗って移動し、切の後ろから闇の球を複数出現させる。
『なぜ球を出すのであるか?』
(色々形変えられるだろ? とりあえず出しとくって寸法さ)
全てを飲み込み弾き飛ばす洪水は千佳にぶつかる直前、一本の腕、その先端の手の平に止められた。
掴めるわけもないのに、その腕は切の眼前の水をバスケットボールでも持つように手を平たくして動きを止めている。
同時に複数の腕が腕だまりから解放され、切の周りに浮かぶ水の球を握り潰す。
「馬鹿な!? 水を掴むだと!?」
日出三は浮かべた闇の球を刃物のように鋭く細くし、切を掴もうとする腕を切り払おうとする。
だがそれすらも腕に掴まれていく。
「なんでも掴むようでござる! エンペラー殿、後ろにっ!!」
水の流れを後方へと変化させたが、既に切は腕を掴まれていた。
「なっ……この力は!? 大きすぎる!!」
黄金の腕がひしゃげるほどの握力に切は苦悶の声をあげる。
水流をできる限り最高の力にしても、その腕は切の腕から全く離れない。
そしてまた複数の腕が切に向かう。
(これは……まずい!)
『ひー! 朕の、朕の腕が千切れる!! 切! 水の流れを止めるのじゃ!』
(いや、流れはこのままだ。だがもう一つ)
水の中、水の刃を作り出そうと切は試みたが、掴まれた水の支配権は切ではなく千佳にあるらしくそれができない。
黄金の兜の表情は変わらない、だが掴まれた切自身の腕をもう一本の腕で掴む動作には確かな躊躇いが見て取れた。
そして切は、自らの腕を捥ぎ取った。
「え、エンペラー!! 何を!?」
掴まれた腕を切り離し、切の体は流れにそって自ら弾きだされた。
その腕は腕だまりの中に飲み込まれていった。
日出三は切の傍らに寄り、その惨状を見た。
黄金で出来た体のように見えて、やはり生物のような腕からは赤い血が流れている。
「あのままあの中に引きずり込まれるくらいなら……こうするしかないだろう」
切は水の腕を作り出し、地面に手を着いて立ち上がった。
「で、策はあるか? 水も闇も掴まれる。握力と腕力は尋常じゃない。単純だが、それゆえに俺には対処法が浮かばない」
「掴めないほど大きなものか、掴めないほど小さなものはどうでござろう?」
日出三も単純なりの答えを導き出すが、切が颯爽と否定した。
「大きなものは手の平で防がれてしまうだろう。さっきのがそれだ。小さなものは一度考えたが貫くとなると中にいるだろう少女の安全が保障できない。腕だけを切り出す手段が欲しい」
日出三はしばらく考えたが、一つの結論に至るのみであった。
「我々には無理でござるな。助けを呼ぶか、はたまた少女を見張るか」
「やはりそうなるな。俺は反対側に回る。マジシャン、こっちは任せるぞ」
そう切が足元に水を溜めた瞬間、一斉に腕が伸びた。
「ヤババッ!」
「いや、腕だけなら……」
情けない声を出す日出三に対し、切は冷静に針のような水を放ち腕を貫こうとした。
だが複数の自在に動く腕はあっさりと針を躱し、それを掴んで折ることまでしてみせた。
「エンペラー殿、これ以上は!」
日出三は既に足元に闇の円を作り出し移動の準備をしているが、切はまだ食い下がる。
地面に両手をつき、土下座のような姿勢になりながらも切は叫ぶ。
「手でない部分ならば!」
地面から水の幕が競り上がり、腕を下から打ち上げるのだ。
だが同様に伸びてきた腕がせり上がる水の幕を掴み引き下げる!
『ぴええええ! 死ぬ! 朕が、朕がー!』
切の首に腕がかかろうとした瞬間、その腕は猛烈な勢いで地面に沈んだ。
伸びていた腕が全て地に沈むと同時に、天から黄金の球体が出現する。
(どうもどうも、戦っているところ悪いけど、これってどういう状況っすか?)
一、五メートルほどの球体の姿は見たことがなかったが、その反応は切がよく知っていた。
(香月朋美、か。チェンジャー同士争いっている最中に、突然化け物が出現したというところだ。ともあれ助かった。その力で腕を防いでいてくれ)
梅崎切と香月朋美は一応同級生である。クラスは違うが互いに謂れのある人間なので声を聴けば誰か分かる程度の中だった。
(あれ梅崎? 戦うのは私もしたくないからいいけど、もうちょっと詳しい説明を……)
重力、念動力など様々な力を操るムーンの力は千佳を縛り付ける。
だがそれが失敗だということは、星奈がここに来た時に気付くのだ。
「何故だ!? 何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ
……何故私に罪が降りない!?」
光史郎は一人苦悩した。
もう一人はそれを罵っている。
『全くとんだ見込み違いだ! 光史郎、それでどうする気だ? 一体お前は何をしている?』
光史郎は呪いを吐きながら一際大きな魔法陣を作り出し、その中央には大罪を落としたものよりも呪力がない本を数十冊は積み上げていた。
「何を、だと!? お前には分からないのか!? 私がしようとしていることを!? ならば貴様こそが愚か者だ!!」
ハーミットに伝わる憎悪と嫉妬、憤怒、傲慢、そしてあらゆる邪悪をも内包した狂気の叫びは痛々しいほどだ。
それでも、それは期待するに充分なほどであった。
十四本の蝋燭が放つ薫香と煙に包まれながら光史郎は一本の蝋燭を倒した。
「燃えろ! 我が肉体とて捧げよう! 今度こそあらゆる罪を我が体に!!」
その声が、体から追い出された大罪を呼び寄せることになる。




