蓮、判決を下す
嫉妬という感情はえてして不思議なものである。
実力、境遇、内面なり外面なり少しでも差があれば人間の誰しもが持ち得る感情であり、しかしだからこそ醜く情けないとされる。
嫉妬は様々な言い換えができる。やきもち、競争心、羨望、憎しみ、それらが一緒くたになったものなのか、はたまたそれとは違う更なる黒い感情なのか、一論の価値はある。
憤怒との違いは、その感情に明確な対象があることである。
正義の後ろを歩いていた蓮は突然頭を抱えて叫び出した。
「あああああああああああああっ!! 中に、私の中に何かが入ってくる!!」
耳をつんざく叫び声と、チェンジャーよりも遥かに強大な反応に思わず正義は振り返った。
「信濃さん!? いったいどうしたんだ!?」
「ああ、頭の中がかき回されるような……気持ち悪い!」
『嫌です嫌です、何か、何かが、入ってきてます!』
姿がなく声のみがする、耳よりも奥から響く鍾乳洞の中のような声を、蓮は既に体験していた。
『そんなに嫌がらないで? もっと嫌なものがあるでしょ?』
(誰? ていうかなに!? 私の中から出て行け!)
『本当に出て欲しいの? もっと追い出したいものがあるでしょ?』
(もっと追い出したいもの?)
『あれでしょ?』
指さされているわけでもないのに自然と蓮の視線が心配そうに蓮を見る正義へと当てられた。
『嫉妬、って何か知っている? 蓮さん?』
蓮が頭を抑える力は徐々に強くなり、強烈な痛みに強く目を瞑り、髪の毛がぶちぶちと千切れる。
(嫉妬? 妬み嫉み、羨ましくて憎いってやつでしょ!? それが何!?)
『嫌です嫌です、怒っちゃ嫌です……』
(黙りなさいジャッジメント!)
ジャッジメントが委縮して黙りこくると、嫉妬のエラヴィスは嬉しそうに言う。
『分かってるなら何故認めないの? 自分の想い通りにしないの?』
(何が!?)
『殺したくないの? 目の前の男よね?』
自分を心配そうに見る憎き男、心配されても蓮から込み上がる感情は嫌悪であった。
正義とジャスティスが心中で相談している間にも、蓮はエラヴィスに毒を吐く。
(下らないこと考えさせるんじゃないわよ! 今は、今はそれよりやらなきゃならないことが……)
『それって善行? それって必要? 本当にしたいことはなに?』
エラヴィスの言葉を聞いて蓮はしかと自分の過去を見つめ直す。
警察の行き過ぎた取り調べで自白を強要され、罪もない人達が悪の烙印を押され、出所しようが冤罪が証明されようが社会復帰ができない、それが今の社会だった。
蓮はそれを変えたい。本当に世界をよりよく、正しい形にすべく彼女は弁護士を志し、実際になったのだ。
(私は、この世界を少しでも綺麗にできたら……!)
その純粋な想いをエラヴィスは易々と砕いた。
『違うでしょ? あなたが今、本当にしたいことは?』
蓮の心の中に暗い感情が芽生える。そして種から芽生える若葉のように蓮の短い髪がぞわりと伸びた。
「信濃さん、今髪が……」
「寄らないで!! こっちに来ないで! 今、今来たら、私本当にあなたを殺すわ!!」
蓮は右手で自分の髪を引っ張りながら、左手で正義を制した。
『嫉妬、この絡みつく感情、黒い気持ち、あなたの体の中だと髪の毛がぴったり来るわ。どう思う?』
(消えろ!! 私は、私は……)
正義が変身し、自分を守るように鎖を張り巡らせた。
『……駄目です駄目です、このままでは、私まで駄目になっちゃいます』
大きすぎるエラヴィスの力がジャッジメントにまで影響を及ぼし始める。
だがそれはエラヴィスの力ではない、蓮の想いの力なのだ。
髪の毛がますます伸び、ミミズのように蠢き、独りでに正義の方へ照準を定める。
まるで貫こうと敵を討つ騎士の槍のように、髪の動きはピンと張ったまま止まった。
「信濃さん、君はもう……駄目なのか?」
(なめるんじゃないッ!! あんたのその顔! その同情しきった顔が憎くて……あああああああっ!!)
正義の顔も声も態度も、全てが蓮の癇に障る。黒い何かが心臓を掴みとるような感覚がしながら、蓮は眼球を包みこむ髪の毛に驚愕した。
既に頭の上半分が髪の毛に包まれていた。
『もう……だめ、です……』
『終わりましょ? あとは私に任せてくれれば大丈夫かもよ?』
ぐるんと蓮が白目を剥くと同時に、だらんと腕が垂れる。足だけはがくがくと膝が震えながらも立っているが、それももう保てそうには見えない。
伸びた蓮の髪は既に彼女の足元にまで這い回り、やがて動き出したそれは蓮の体中を縛り付けた。
『体を頂いていい? いいわよね? もう意識ないよね?』
蓮の全身が黒く染められている。足のつま先から頭まで全てが髪に包まれている。
ただ唯一残っている白い部分は、左目のみであった。
「……信濃さん、許してくれ」
『やるのね、正義』
更に十本以上もの鎖が地面から出現する。全ての切っ先は信濃蓮に向けられて。
(……意識は、あるっつーの……はぁ、誰か酒持って来い)
『……もう……駄目です、ごめんなさい、蓮さん……』
蓮の震える足がすっと軽くなる。髪の毛が彼女の体を支えたのだ。
髪に支えられて浮かび上がった蓮の体をますます髪の鎧が固めていく。
(……生島ぁ、聞こえるか?)
まるで全身の力を使い切ったかのようなだるい声で語り掛ける蓮は、思っていたことと違うことを口走った。
(私とあんたの、最初の公判、憶えているか?)
本当は自分を殺せと、ジャッジメントごとこの糞魚を切り裂けと、そう言うつもりだった。
だが蓮は正義を憎み嫉妬するようになった最大の事件について口走っていた。
(……覚えている、火野札駅の痴漢事件だろう)
二人とも今より若い頃の事案で、そして蓮にとっては初仕事であった。
(被告、原告、裁判官の名前は?)
(被告、西島弘雄。原告篠原未弥美、幸島剛太裁判官、だったな)
正義の鎖が数本、怯えたように震えた。ジャスティスが気付かないほどのそれを、蓮は根を張る髪の毛の振動だけで感じ取った。
『何をしているの? 体譲ってくれないの?』
(この話終わったら、譲ってやってもいいわよ?)
異世界の魔人にも引けを取らぬ蓮の胆力は、その左目に生きていた。
白く輝く一つの眸、その白色のみの目はまだ生きていたのだ。
(結果は分かるから言わなくていいわ、生島正義。次に被告弘雄は控訴、その時の裁判官は?)
正義は不審に思いながら、その確かに光る眼を見て、蓮を信じ答える。
(河野新太郎裁判官……)
(正解よ。オーケー、それで上告はしなかったのよね)
『まだ続けるの? もう無駄でしょ? 体、頂戴?』
蓮の髪は道路に根を張り、その目をも包み込もうとする。
だが次の瞬間、その目から放たれた強大な殺気に正義にエラヴィスまでも退いた。
(これで最後よ!! 二年後! 被告弘雄はどうなったかしら!?)
『な、何を……?』
驚くエラヴィスを意に介さず、正義は苦渋の表情で、口に出して答えた。
「七月二十九日の新聞だった……冤罪、だ」
「それだよぉぉぉぉぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!」
蓮の顔から嫉妬の髪が離れ、今にも正義に噛みつきそうな勢いで蓮が絶叫した。
「テメェが! テメェが間違ってたんだろうがよ!! ふざけんなよテメェ!! 何が正義だ!! それでなんでお前が正義を司るんだ!? この恥知らずの屑がッ!!」
正義は悔しそうに歯を食いしばり、ただ拳を強く握りしめる。
息を切らして苦しそうな蓮は、一瞬で髪に顔を包まれていく。逃れようともがき苦しむが、再び彼女の左目だけが残った。
だが今度は激しい憎悪と殺気に満ち溢れた黒目が煌々と輝いている。
(なあ生島ぁ、大嫌いなお前の名前を呼び捨てにしないのは、仮にもお前を正義と呼びたくないからなんだよ。分かるな? この体、蝕まれても許せないほどに憎んでいるからだ)
正義は決して答えない。
そして、それに満足するように蓮の瞳から優しい色が灯った。
(……満足したよ。忘れていなくて、ちゃんと後悔しているんだよな?)
『じゃあ体……』
エラヴィスが言うと同時に、蓮の髪に埋もれた左手が発光した。
それに合わせて蓮の全身が光に包まれ始める。
髪の毛の中から漏れ出た光は徐々に強くなり、その左目も姿を隠す。
(いつまで寝ているの、ジャッジメント。裁判の最後には審判を下さなきゃダメでしょ?)
『ちょ、ふざけ……』
『……そう、です、ね』
蓮の目の色が変わる。
世の中の漆黒に染まるような黒と、憎むような赤。
だが全身を包む髪の毛は浄化されるように優しい白色へと、黒を落としていった。
『嘘でしょ!? 嘘よね!? ありえないわ!?』
蓮の体からエラヴィスは緑色の隻眼の魚が姿を現し、空中を泳ぐように移動を始めた。
「判決、被告生島なんとかはビンタの刑」
「おいおい……」
正義の言葉には耳を傾けず、蓮は天高く逃げていくエラヴィスを真っ赤な双眸で睨みつけた。
「原告魚野郎は窃盗罪、本来なら懲役か罰金なんだけど……いや私を縛り付けた監禁も……」
真剣に罪状を考える素振りをして、蓮は小さく笑った。
「なんてね。悪は死刑」
蓮はラッパを掲げるように持ち、その吹き口に息をそっと当てた。
眩く光る光線がエラヴィスに向けられて発射される。
その煌々と輝く一筋の虹の橋のような輝きがエラヴィスを追い詰めると――その跡形もなく消し去った。
『ありえないでしょぉぉぉぉぉぉ……!?』
ラッパと木槌が手から消えると同時に、蓮は元の姿に戻った。
何が起きたか分からないほど壮絶な出来事を前にして、しかし正義も緊張が解けたその場所に合わせてゆっくり息を吐き変身を解いた。
正義を見て蓮が足音をわざとらしく立てて近づく。
蓮の右手、手首を手の甲側に捻って四十五度ななめ右上に、一メートルほど精一杯手を伸ばし、急転直下、蓮の肩の筋肉が悲鳴を上げるほどの勢いで振り落とし、正義の頬に当たる瞬間に思い切り手首のスナップを利かせた。
パァンと高い音が響く。正義は涙目で赤い頬を擦った。
「……これで満足か?」
「満足、とかじゃないでしょう? これで許してあげます」
そう、蓮はニカッと笑った。
信濃蓮が抱いた強大で絶対的な嫉妬は、理不尽な現実とどうにもできない無力感を彼一人に対して向けたものであった。
それで自分より名声を得る生島正義の姿に対しての憎悪、そして羨望こそがその正体。
だが彼女はその問答で彼にとっても同じ事件が精神の深いところに根差していること、そしてその反応から気持ちを同じにしていることを感じた。
嫉妬はなくなってはいない、だが彼を少し勘違いしていたという自覚ができたのだ。




