台座にサボテン
推しの偶像が台座から降りた。
惜しまれつつも温かく見送られて──という理想の卒業ではない。
デビュー一周年を控えた大事な時期に、スキャンダルで週刊誌にスクープされてしまったため、責任を取って辞めざるを得なくなったのだ。
国民が投票する形式のオーディション番組で選ばれた、十人組のアイドルグループ。
僅差で十位に滑り込み、デビューの切符を手にしたメンバーが僕の推しである。
もちろん運もあるだろうが、ダンスも歌も未経験の彼女が懸命に努力する姿が、多くの視聴者の心を捉えた結果だった。
しかし、伝説と言われたそんな経緯も、今や最悪の燃料となってしまった。
「ギリギリでデビューしたくせに、責任感がない」
「デビュー一年目の大事な時期に、他のメンバーに迷惑掛けやがって」
「こんな素人に投票したヤツ誰だよ。実力あるのに落ちた十一位のコが可哀想」
「こいつ、最初から運営に推されてたよな。投票操作疑惑」
「ファンを裏切りやがって。一生表に出るな」
他の九人のファンだけでなく、つい昨日まで彼女を推していたファンですらも、ネットで猛烈に彼女を叩いた。
初めは彼女を庇っていたファンも、黒く燃え盛る炎の中で、次第に声を上げられなくなっていく。
次々に煽られ激しさを増す世界で、僕は彼女とともに十字架にくくりつけられ、じわじわと心を焙られていた。
僕は幼い頃から不器用で、勉強も運動も何をやっても冴えなかった。
大学受験に二度も失敗し、やっと合格したかと思えば今度は就活で苦労した。何とか入れた会社は、希望の職種ではない上にブラックで、毎日朝が来るのが怖かった。
震える手でネクタイを締めていたある朝、天気予報を観ようとたまたま点けたテレビから流れてきたのが、あのオーディション番組の宣伝だった。
特にアイドルが好きだったわけではない。ただ、少女たちが夢を追い、それを視聴者が叶えるという企画に興味を持ち、気付けば録画ボタンを押していた。
日々の忙しさにしばらくは録画したことも忘れていたが、ノルマを達成できず上司にこってり絞られた夜、なぜかふと思い出し一回目の放送を観た。
オーディションの参加者全員の自己アピール動画をぼんやり眺めていると、一人の参加者が目に留まった。
童顔で可愛らしくは見えるが、アイドルとしてデビューするにはもう若くない二十三歳。喋り方も自信なげでたどたどしいし、歌もダンスも未経験だという。幼い頃からの夢が諦めきれず、仕事を辞めてまで応募したらしい。
失礼ながらこれは落ちるだろうと思ってしまったが──いかにも不器用そうな彼女が、自分と重なったのかもしれない。なんとなく応援したくなり、次の放送も、自然と予約していたのだ。
さきほどまでは震えていて箸も持てなかった手が、しっかりとリモコンのボタンを押していた。
三回目、四回目、五回目──
オーディションが進むたびに、彼女は新しい姿を見せてくれた。
経験者ばかりの参加者と同じチームになり、レッスンに付いていけず落ち込む姿。未経験を言い訳にするなと、講師に叱られ涙を流す姿。それでも必死に食らいつき、前髪が額に張り付くほど汗を流しながら、最高のパフォーマンスを披露する姿。
彼女の順位が少しでも上がるようにと毎日投票した甲斐あって、オーディション開始直後は三十九位だった順位が、十四位とデビュー圏内に迫っていた。
ついに迎えた最終回は、今までとは違い生放送でパフォーマンスが行われ、放送中の投票でデビューメンバーが決まる。
放送日はちょうど休日。最後になってしまうかもしれない彼女のステージを、僕は緊張しながら見守った。
最初の頃と比べると、別人のようにダンスがうまくなった彼女。表情も自信に溢れていて、経験者と並んでも全く引けを取らない。彼女の最大の見せ場のラスサビでは、練習で苦労していた高音がポンと出て、思わず涙が溢れた。
最終投票が終わり、彼女が十人目のメンバーに選ばれた時には、嗚咽で呼吸もままならなかった。
彼女が十人組アイドルグループとしてデビューしてから、僕の毎日は少しだけ変わった。
アラームを何度鳴らしても起きられなかった重い朝は、彼女の歌声に鼓膜をノックされれば、軽やかに瞼を開けることができた。
ファンクラブの年会費にライブ代にグッズ代。推しを応援するためには金が必要で、そのためには働かなければならない。そう思えば、つらかった仕事も前向きにこなせるようになり、入社してから初めて大口の契約を取れた。
デビュー後もさらに己を磨き、プロのアイドルとして輝きを増していく彼女のことを、僕は心から尊敬していた。また、そんな彼女に一票を捧げ続けた自分のことも、誇らしいと感じていた。
彼女を選んで本当によかったと。
初めてライブに参戦し、大きなステージに登場した彼女を生で観た時には、自分はこの感動に出逢うために生まれてきたのだとすら思った。
二階席の隅にまで丁寧に手を振ってくれる彼女に、僕も夢中でペンラを振り返した。
彼女がデビューしてから十ヵ月後──
幸せな日々に、突然終止符が打たれた。
活動休止中も黒い炎に焙られ続けた彼女は、デビュー一周年を目前に台座から降りる決意をしたのだ。
短い謝罪文を残し、呆気なく、偶像から一般人に戻ってしまった。
僕はどこかで安堵していた。
たとえメンバーが許して復帰したとしても、グループのファンが許さないことは明白だったからだ。
何より、これでやっと炎が収まる。自分も十字架から降りられると思っていたが、深い火傷を負った心には難しかった。
「辞めてくれてスッキリした。九人で気持ちよく再スタートしよう」
「これで推しの歌割り増えるわ。アイツ、歌もダンスも下手なくせに優遇されてたし」
「アイツを選んだヤツ、戦犯すぎる。同罪」
そんな言葉とともに鎮火していく世界に、僕は独り取り残されていた。
真っ黒に焦げた台座を見つめ、これからそこに何を置けばいいのかと考えるが、彼女に代わるものなど何もない。あの日々に代わるものもない。
部屋に溢れる偶像の残骸を、片っ端から段ボールの中に押し込むと、クローゼットの奥へ埋葬した。
それから、僕は再び朝が苦痛になった。
とうとうネクタイを締められなくなったその日に、退職代行サービスへ依頼し、アパートの部屋に閉じこもった。
このまま一人で死ぬのと、実家で死ぬのとどちらがマシだろう。そう考えた末、他人ではなく、血の繋がった両親に迷惑を掛ける選択をした。
引っ越し作業を手伝いに来てくれた母が、僕の掌におにぎりを置いた。
物が散乱しているだけで、何一つ荷造りできていない僕を責めることもなく、母は背中を向けてゴミとそうではないものを淡々と分けていく。
自分はなんと親不孝なのだろう。あんなに大切に育てられて、金を掛けてもらったクセにこのザマだ。
いかにも手作りな米の塊に、僕はやるせない気持ちで歯を立てる。箸を持たなくてもいい久しぶりの食事は、舌の上でほろりとほぐれ、空っぽの胃に優しく沁みていった。
時間を掛け、やっと一つを食べきった頃、クローゼットを開いた母から声を掛けられる。
「この大っきな段ボールはどうしようかねえ?」
ああ、そうだ。そこに埋葬したのだったと思い出した僕は、母が作ってくれた僅かな隙間を縫って、棺へ近付く。
こんなに簡単に掘り起こされてしまうようでは駄目だ。もっときちんと、誰も、自分ですらも触れられない場所へ埋めなければ。
「自分でやる」
僕はそう言うと、ゴミ袋を手にし、棺に向かい合った。
大丈夫。手は震えていない。
おにぎりの効果か、いくらか温まった指先で棺の蓋を開けると、なるべく手元を見ないようにしながら手早く残骸を分別していった。
これは燃えないゴミ。これは燃えるゴミ。
この団扇は骨組みが燃えないゴミで、紙の部分は──
骨組みから赤い紙を剥がそうとした途端、急に手が冷たくなり震え出した。
──この団扇は、初めてのライブで買ったグッズだ。こっちのペンラも。
このキーホルダーはデビューシングルの特典で、このアクスタはバースデー限定グッズ。
ああ、このティーシャツは二枚買ったな。ライブに着ていく用と保管用とで。結構高くて驚いたけど、これを着ていたおかげで、初対面の同担とも話せたんだっけ。
同担だったあの人は、今頃どうしているのだろう。自分と同じように空虚な台座を見つめているのか、それとも、とっくに新しい偶像を見つけて台座に置いたのか。あるいは彼女を応援していたことを後悔し、憎み、灰だらけになりながらも未だに燻り続けているのだろうか。
昏い世界に、初めて涙が降る。
次から次へと赤い残骸を濡らし、一年と数ヵ月の残像を、ひび割れた台座に映し出す。
彼女の笑顔はどこまでが本物で、どこからが偽物だったのだろう。
もし最初から偽物だったなら、僕は彼女の何を見て彼女を選んだのだろう。
僕が一票を入れたせいで、彼女を無理やり台座に立たせ、不幸にしてしまったのではないだろうか。
残像が消えた台座には、小さな棘が生えた。
実家に帰って数ヵ月が経った頃、一通のメールが届いた。
しばらくネット環境とは距離を置いていたが、そろそろバイトでも探さなければと、スマホを開いたその日のことだった。
差出人は彼女が所属していたアイドルグループの事務所で、セカンドアルバムに収録される曲の作詞コンテストに、僕の詩が選ばれたという知らせだった。
僕は幼い頃から詩を書くことが好きで、ノートの隅にひっそり書いては消してを繰り返していた。誰も知らない、知られるのが怖かった唯一の趣味だ。
夢を叶えた彼女に触れるうちに、僕も好きなことに挑戦してみたいと思うようになり、ちょうど開催された作詞コンテストに応募してみたのだ。
このCメロは、音域的にも彼女のパートになるんじゃないかな、ならば彼女にこの言葉を歌ってほしい。そんな想いを込めて綴った歌詞だ。
もう彼女はいないのだからと辞退しようとしたが、ふと思い止まる。
別によくないか? 賞金も印税ももらえるのだから、バイトだと思えばと。
台座の棘が醜く膨らみ、新たな棘がまた生えた。
僕が作詞した曲は、アルバム曲にもかかわらず人気が高かった。
シングルカットされミュージックビデオも作られると、たちまちデビュー曲を上回る再生数を叩き出した。
「曲もいいけど、歌詞がとにかくいい」
「再スタートした九人への応援ソングみたい」
「誰かさんがこの曲を歌わなくてよかった。九人だからこそ感動した」
動画サイトに寄せられるそんなコメントを目にするたびに、台座の棘は鋭さを増していった。
感動した? はっ、どの口が。
この詩はお前らと、お前らの推しのために書いたわけじゃない。そんなことも感じ取れないヤツらが、彼女を残酷に燃やしていたのか。
残った九人のメンバーに罪はないのに、コイツらが推しているというだけで同罪に思えた。
いいさ。煤だらけの口で、好き放題言ってろ。
アイドルなんて所詮商品。今の僕にとっては、お前らもお前らの推しも、憐れな金づるにすぎないのだから。
それから僕は同じ事務所の他のアーティストにも歌詞を提供することになり、着実に作詞家としての道を歩んでいった。
これまでの人生で最も安定した日々を送っていたが、彼女を推していたあの日々に比べると、何もかもが薄く味気ない。
育ち続けた台座の棘は、いつしか歪なサボテンとなり、灰色の風に吹かれていた。
プロの作詞家になってから、十五年の月日が流れた。
そこそこ名が売れ始めると、大物の作曲家ともタッグを組めるようになり、これまでに何十曲ものヒット曲を生み出してきた。
とある仕事の依頼が舞い込んできたのは、そんな頃だった。
某アイドルグループとしてデビューしてから、一年も経たずにスキャンダルで脱退した元女性アイドル。
その元アイドルがソロアーティストとして再デビューすることになったため、歌詞を書いてほしいと。
僕は一瞬躊躇ったが、仕事として引き受けた。
金のため──そんな言い訳をして。
楽曲が完成した頃、彼女の事務所から連絡があった。作詞家の先生に、本人が直接会いたがっていると。僕はそれも仕事だと自分に言い聞かせ、レコーディングスタジオで彼女と面談する約束をした。
数日後、レコーディングスタジオの控え室で会った彼女は、偶像だった時とはだいぶ印象が変わっていた。年齢を重ねたことによる容姿の変化というよりも、醸し出す雰囲気や顔つきが、昔とは異なる気がした。
きっと苦労をしてきたのだろう。懐かしい円らな目には、哀愁や険しさを宿していた。
「会ってくださりありがとうございます」と頭を下げる彼女に、僕は複雑な気持ちになった。
遥か下から見上げていた彼女と、今は同じ高さで、同じ人間として、現実世界に存在していることが落ち着かない。
とりあえずソファに向かい合って座ると、彼女は静かな口調で語り始めた。
「ずっと、お礼をお伝えしたかったんです。作詞コンテストで、先生が素敵な詩を書いてくださったことを。おかげさまで、メンバーも、メンバーに迷惑を掛けてしまった私も救われました。あの曲のヒットで、グループはさらに大きくなりましたから」
「いえ、曲が素晴らしかったのだと思います。作詞家のできることなんて、ほんの僅かですから」
「いいえ。まるでメンバーの再スタートを祝福してくださっているような歌詞に、大変感動いたしました。メンバーやファンだけでなく、先生の書かれたお言葉に、多くの方が勇気づけられたと思います。それに」
彼女は少し間を置いてから、先を続ける。
「あの時期、暗闇の中にいた私自身も、先生の歌詞に希望をいただいたんです。愚かな行為でメンバーの夢まで壊しかけた自分なんて、死んでしまった方がいいと思っていたのに。あの曲を何度も聴いているうちに、あ、このCメロの歌詞、私が歌いたかったなとか、そんな図々しいことを考えてしまって。こんなに図々しくて最低な自分なら、這いつくばってでも、もう一度夢を叶えてみようって。そう思えたんです」
台座のサボテンに養分が巡り、隅々まで行き渡る。瑞々しい棘につつかれ、僕の口からは勝手に言葉が溢れた。
「あのCメロの歌詞、本当はあなたに歌ってほしいと思って書いたんですよ。あれを応募したのは、あなたが活動休止される前でしたから。だから、図々しくなんかないんですよ」
彼女は僕を見て、円らな目に光を湛える。
「そうだったのですね。せっかく書いてくださったのに、歌えなくて申し訳ありませんでした」
そう言って深く頭を下げた後で、彼女は苦笑しながら涙を拭う。
「やっぱり私は、アイドルなんかになるべきじゃなかったんです。ファンだった方の気持ちを伺って、こんなに申し訳なくて苦しいのに。それと同じくらい、嬉しいと思ってしまいました。あの大好きな歌詞が、本当は私のパートだったんだ、嬉しいなって。最低ですよね」
「僕も最低ですよ。あなたのために書いた歌詞を平然と金に替えて、こうして逞しく生きているんですから。こちらこそ、アイドルになってくださり、僕を暗闇から救ってくださり、本当にありがとうございました」
拭いきれない涙が、彼女の頬を濡らす様を見て、僕は確信する。
当時の彼女の笑顔が偽物だったかはわからない。だが、今のこの涙は紛うことなき本物だと──
レコーディングも見学していくことにした僕は、ボーカルブースでマイクに向かう彼女を真剣に見守る。
元々歌が得意ではない上にブランクがある。どのくらい声が出るのかと緊張していたが、予想外に、当時よりも格段にうまくなっていた。
再デビューに向けて、死ぬほどボイトレをがんばったんだろうな。
さすが、僕の推しだ。
僕は鞄から赤いボールペンを取り出すと、ペンラのように胸元で小さく振る。彼女はそんな僕に気付き、ガラスの向こうで嬉しそうに笑った。
台座のサボテンは、歪な部分を全て呑み込み、丸く膨らむ。
やがてその天辺には、かつてアリーナの客席に光っていたのと同じ、真っ赤な色の花が咲いた。
ありがとうございました。




