平熱の二人
遊馬は朝のシャワーを浴びた。温かいお湯を浴びていたのだが、すっかり髪と体を洗い上げてしまうと、コールド・ウォーター、非常に冷たい水に切り替えて、その水に耐えた。
これは遊馬が去年の夏から続けている、朝の儀式だった。
彼は浴室から出て、洗面所に出ると、洗濯機の上に、新しく、着るべき服はあったが、肝心の、バスタオルが無い事に気づいた。
「亜希―、ご免、タオル持ってきてくんない?」
「はーい」
亜希は四十代に差し掛かっていたが、童顔とそのスラリとした体形で、三十代か、人によってはもっと下に見られた。
亜希は主婦として、よく動く。シャキシャキと動く。その代わり、その反動が必ずあって、急に
「エネルギー切れですー」
と宣言すると、よく眠った。
遊馬は常に自分の行動を省エネ化している風に、動きが遅い。とろい。亜希の聞いた事にも、すぐ反応できない。しかし、彼は深く物事を考察するタイプで
「そもそも」
というのが、彼の口癖であった。
遊馬が就業中、そのとろさもあってか、事故に巻き込まれてしまった。それ以来、遊馬の右脚は疼いて、痛む。今、現在、彼は傷病手当金を頂きつつ、休職中であった。
このピンチに亜希は全く動じてない様子で、彼が上司の車で自宅に運ばれてきた際にも、冷静に上司の話に耳を傾けて、上司を責めるような事は一切なく
「ほんと、うちの夫は気性がとろいもので」
と、ちょっとそのトラブルを愉しんでいる風にも見受けられた。亜希は小説家志望だったので、その事故についても、小説のエピソードとして書き入れていたのであるが、遊馬がその原稿を読むと、その女性主人公が、その上司に「しっかり見ていてくれたんですか」等、不満として書きつけてあったから、彼は驚いた。
「この主人公、勇ましいね」
と、彼が亜希に伝えると、彼女は
「勇ましいでしょう?わたし、男みたいな所あるから」
と、ニコリと笑った。
「こら、遊馬君、あなたは一体何回バスタオルを忘れるのでしょうか?」
「遊馬、君?」
「遊馬君よ、あれ、遊馬、何、痩せた?」
遊馬はバスタオルを亜希の手から奪うと、下半身を隠した。
亜希はふむふむ、と、彼の半裸を観察すると
「ダイエットしているんじゃない?」
と、告げた。
「してない、してない」
亜希は彼の肩に手をまわすような仕草をすると、声を整えるようにして
「いいんだ、いいんだ、遊馬、隠さなくていい。君はな、実は、モテたいんだろう?だから隠れてこっそり、ダイエットしているんだろう?そうだろう?何を恥ずかしがっているんだ、タオルで腹を隠すんじゃない。見せてみろ」
「もう、どうにかしてくれ」
遊馬にしてみれば、また始まった、という感もあった。
「おう、遊馬、なんだ?わたしの腹を見るか?わたしの腹を見たいか?」
「いや、見たくないよ」
「いいんだ、いいんだ、見てくれ」
亜希は自身の腹を見せると、全く脂肪がついていなかった。対称に、遊馬の腹には脂肪がくっきりついている。遊馬はただ亜希が自分の痩せている事を自慢したくて、強引に絡んでくるとわかっているので
「ああ、痩せていますね」
と一言言うと、亜希は
「そうでしょう?」
と、言って満足気になって、去っていった。
小説を書く亜希は、小説を読む亜希でもあった。
書店に向かうと、文庫本を中心に、主に日本小説を買い漁った。
小説を読みながら彼女は
「へえー」
と言ったり
「なるほどね・・・」
と顔をしかめたり
「いやー、そうくるかっ」
と声をあげていた。
遊馬はその声が急に聞こえるものだから、ビクッとして、小説を読んだ事はあまりないが、小説ってあんなに愉しめるものなのか?と、少し亜希に対して羨ましい気持ちになった。
遊馬が本を読むと言っても、殆ど仏教書や哲学書であって、知的好奇心が満たされる事はあっても、彼女のように声が出る事は無かったし、きっと彼女の感受性の豊かさもあっての事だろう。
「エネルギー切れですー」
この日、亜希は昼寝をした。彼女の付けている日記帳を覗き込むと、朝、四時から起きていた。本日は可燃ゴミの日でもあった。亜希、彼女の分の洗濯物が、室内干しされていた。又、彼女は近くのドラッグストアに大量の日用品の買い出しに出ていた。
加えて、昨日の晩はと頁をめくると、自身の小説の推敲作業を行っていたらしく、頭も体もフル回転させていたようである。
「遊馬、こらー、遊馬」
亜希の寝室から遊馬を呼ぶ声が聞こえてきたのに、気づいたのは、彼がスマホで聞いていたブルース・ロックの音源に飽きて、それを消してからであった。
「遊馬―、こりゃー、遊馬」
「はいはい、今行くよー」
遊馬は亜希の寝室の扉を開けて中に入った。
「こりゃ、遊馬、おぬし、何回も呼んでいるのに来ないとは、非情だぞ?裏切ったな」
「裏切ったなんて大袈裟だな、音楽を聞いていたから気づかなかったんだよ」
よく見ると、まず、布団が滅茶苦茶であった。あっちにこっちに布団と敷布団がいってしまっている。布団は重たげであって、細い亜希はまるでそれに押しつぶされているような印象を、遊馬は受けた。
「布団、直すよ」
遊馬は布団を直し始めた。
亜希の右足が遊馬の頭の上に置かれた。
「何?」
「暇」
へこたれず、頭に置かれた足をどけると、布団を直す作業を続けた。
すると、また亜希の右足が、遊馬の頭の上に置かれた。
「だから、何?」
「暇」
「だからってなんやねん、暇だからってそもそも、旦那の頭に足乗っける嫁がおるか」
「おー、こわっ、関西弁がお上手なんですね、メモしておかなくちゃ」
遊馬は、カチン、と来て、亜希のわきばらをくすぐろうとした。亜希はゲラゲラ笑いながら
「やめろー、関西人!やめろー」
と叫んで、わきを腕でガードした。
二人、ハア、ハアと荒い息を立てて戦闘は自然、おさまった。
「遊馬」
「そうだよ、なんでそもそも呼んだんだよ」
「本を持ってきて欲しいのよ。暇だから。金原ひとみさんの本ならなんでもいい」
「あっ、そういう事ね、わかった」
遊馬は書斎に向かい、金原ひとみ著作の文庫本を数冊手にとって、又亜希の寝室に向かい、彼女に手渡した。
「ありがとう」
遊馬はなんとなく、手持ち無沙汰な感があって、スマホでパズルゲームを行った。
「ねぇ、亜希」
「なに、遊馬」
「小説ってそんなに面白い?」
ちょっと間が合って
「めちゃくちゃ、面白いわよ」
「そう、うん、そう言うと思ってた」
「思ってるなら聞かないでよ」
「ちょっと、もう、今日は戦争は止めておこう」
遊馬は、亜希の寝室を後にすると、キッチンに向かって、コーヒーを淹れて飲もうと思った。
コーヒーメーカーの段取りを済ますと、コーヒーがドリップされるまで時間があった。
見ると、シンクに、汚れたままの食器が溜まっていた。
いつもは、亜希がさっさと済ましてくれていた作業が、今日はストップしており、遊馬は、これは自分がやるしかないと思い、彼は皿洗いに着手した。
色々な事が想起された。
一番皿洗いをしていて、思い出してしまうのは、やはり、職場での事故の事だった。
二輪車がバン、と跳ねて、乗っている人間が後ろに跳ねて、その二輪車は気づいたときには、遊馬の右脚に直撃していた。
彼は、ハア、とため息をつきつつ、皿洗いを続けてそれを済ませたのであった。
達成感に身を震わせていた。すると
「おーい、遊馬」
と、亜希の呼び声が聞こえてきた。
右脚の痛みよりも、その声のほうが先に届いた。




