飢餓の王
痛い。
ガレスはその感覚を味わった。左手の拳を壁に打ちつけた。コンクリートの壁。硬い。拳の皮が裂けた。血が出た。骨に響く衝撃。痛い。
笑った。
痛い。本物の痛みだ。ナノマシンが三秒で消してくれた偽物じゃない。消えない。ずっと痛い。拳が腫れる。血が流れる。痛みが持続する。
——これが欲しかった。
断絶から三十二日。ガレスは都市の東区画、食料倉庫群の最大棟を拠点にしていた。三階建ての堅牢な建物。地下に大量の保存食料。上層階に見張り台。周囲を残骸と蔦で囲まれた、天然の要塞。
ガレスの傘下には六十人がいた。最初は十人だった。各所に小集団を作らせ、食料で繋ぎ止めた。ダリオのように体格と気性だけで小グループを率いる者もいたが、結局はガレスの倉庫に食料を取りに来る。飢えた人間に食料を見せれば、あとは簡単だ。「俺に従え。食わせてやる」。条件は明確だ。従えば食える。従わないなら出ていけ。単純な取引。AIのような複雑な管理体系はいらない。食料という現実と、暴力という担保。それだけで人間は動く。
ガレスは拳の血を舐めた。鉄の味。自分の血の味。
管理下の世界で、ガレスは「堕落者」だった。そう分類されていた。
痛覚パーティの常連。AI管理の快楽最適化を拒み、ナノマシンの感覚フィルターを無理やり解除し、生の痛みを求めた。骨を折った。皮膚を焼いた。他人を殴り、殴られた。AIはそのたびにガレスを修復し、「異常行動」と記録した。
しかしガレスにとって、あれは異常ではなかった。
管理された世界では何もかもが同じだった。食事は最適化され、味は均一で、満腹感すらAIが管理した。景色は清浄で、音は調整され、空気は無菌だった。何を見ても、何を食べても、何をしても——同じだった。感覚が死んでいた。感覚が死んだ世界で、痛みだけが「自分が生きている」証拠だった。
痛覚パーティで骨を折った時、初めて声が出た。自分の声だった。AIが制御しない、生の叫び。痛くて、叫んで、涙が出て——生きていた。あの三秒間だけ。ナノマシンが修復するまでの三秒間だけ、ガレスは生きていた。
三秒。たった三秒の本物のために、ガレスは何度も体を壊した。
管理が消えた日。
世界が沈黙した朝。八十二億の人間が恐慌に陥った朝。
ガレスは笑った。
「やっと来たか」
怖くなかった。AIが消えた。ナノマシンが黙った。世界から管理というフィルターが剥がれ落ちた。残ったのは——剥き出しの現実。痛みが消えない。飢えが消えない。恐怖が消えない。全てが本物の世界。
ガレスが三秒間だけ手に入れていたものが、永遠に続く世界。
最初の一週間で、ガレスは三つのことを理解した。
一つ。この世界では、動ける者が生き残る。立ち尽くしている者は死ぬ。
二つ。食料は有限だ。都市の保存食料は管理下で均等に配分されていた。管理が消えた今、早い者勝ちだ。
三つ。人間は、食料をくれる者に従う。
三つ目が最も重要だった。ガレスは食料倉庫を見つけた。最初に見つけた。他の人間がまだ恐怖で固まっている間に、ガレスは動いた。痛覚パーティで鍛えた体が動いた。壁を登り、鍵を壊し、倉庫に入った。大量の保存食。数百人分、数ヶ月分。
独占した。
簡単だった。後から来た人間を追い返した。殴った。蹴った。体が覚えている。痛みを与える方法も、痛みに耐える方法も。痛覚パーティで学んだことだ。管理下では無意味だった技術が、今は最も有効な武器になっている。
独占した食料を、条件つきで配った。
「いいか。食い物はタダじゃない」
ガレスは傘下の人間を集めて言った。六十人。全員が痩せている。全員がガレスを見ている。恐怖と期待が入り混じった目で。
「AIは無条件に与えた。何もしなくても食えた。何も考えなくても生きられた。その結果がどうなった。お前たちは何もできなくなった。自分で歩くことすらできなくなった」
誰も反論しなかった。事実だった。
「俺は条件を付ける。働け。見張りをしろ。食料を運べ。水を汲め。その代わり食わせてやる。これは搾取じゃない。対価だ。お前たちは労働を提供する。俺は食料を提供する。公平な取引だ」
公平。ガレス自身、その言葉が正確かどうかはわかっていた。食料の量をガレスが決める。労働の内容もガレスが決める。交渉の余地はない。しかし——交渉ができる人間がいない。交渉の概念を持っている人間がいない。AIが全てを決めてくれた世界で、「取引」を経験したことのない人間たち。ガレスが「公平だ」と言えば、そうなる。
ガレスはそれを自覚していた。しかし罪悪感はなかった。罪悪感という概念自体がガレスにはなかった。正確に言えば——あったかもしれない。管理下ではあったかもしれない。しかしナノマシンがそれを含む全ての不快感を最適化していた。今、ナノマシンがない。罪悪感があるべき場所に、何があるか。ガレスは確認した。
何もなかった。空っぽだった。ノアが「頭が空っぽ」だったように、ガレスの胸には「良心が空っぽ」の空洞があった。同じ管理の結果だ。しかし空っぽの場所に何が入るかは、人によって違う。ノアには恐怖が入った。ガレスには——欲望が入った。
*
三十二日目の夕方、使者が帰ってきた。
タカシという名の若い男だった。ガレスの傘下の中では比較的動ける方だ。ガレスが西区画の偵察に送った。
「戻ったか。何があった」
「博物館です。西区画に博物館があって、そこに二十人くらいの集団が——」
「博物館?」
「古い道具を集めてる場所です。そこの学芸員が、火の起こし方とかナイフの使い方とか教えてて。人が集まってます」
ガレスは目を細めた。道具。火。ナイフ。ガレスの集団には、道具がない。食料はある。暴力もある。しかし道具はない。火を起こす技術も、金属を加工する技術も。ガレスの集団は食料の独占だけで成り立っている。食料が尽きたら——終わりだ。
「合流を持ちかけてこい」
「合流?」
「俺たちには食料がある。あっちには道具がある。合流すれば両方手に入る。悪い話じゃないだろう」
タカシが出て行った。翌朝戻ってきた。
「断られました」
「断った? 誰が」
「老婆です。イレーネっていう。『管理者が機械から人間に変わっただけだ』って」
ガレスは笑った。短い笑いだった。
「哲学者か。哲学で腹は膨れないぞ」
「あと——あの集団、食料が足りてないみたいです。缶詰がもう底をつきかけてて。若い男が少し迷ってました」
「迷った?」
「イレーネって老婆が即座に断ったんですけど、その横にいた若い男は——少し考えてました。食料って聞いて」
ノアという名前の青年だと、タカシは言った。ガレスはその名前を記憶した。迷った男。食料に揺らいだ男。使えるかもしれない。あるいは——壊せるかもしれない。
「放っておけ。食料が尽きたら向こうから来る。飢えた人間は哲学を捨てる。それが人間だ」
*
夜、ガレスは屋上に上がった。
都市の夜景。光のない夜景。灰色の建物が暗闇の中に並んでいる。蔦が壁を覆い、草が道路を割っている。街が死んでいく。いや——街が変わっていく。人間が作った街が、人間の手を離れて、別のものになっていく。
遠くに、小さな炎が見えた。博物館の方角だ。焚き火の光。あの集団が火を起こしている。道具で。技術で。ガレスの集団にはない技術で。
ガレスは炎を見つめた。
考えていた。
AIがいた頃、ガレスは何を求めていた。本物の感覚だ。管理されない痛み。フィルターのない世界。それが手に入った。世界は今、剥き出しだ。痛みは消えない。飢えは消えない。暴力は本物の結果を生む。
これが望んでいた世界だ。
——本当に?
ガレスは拳を見た。血が乾いている。壁を殴った拳。他人を殴った拳。この拳で食料を守り、人を従え、六十人の集団を作った。AIの代わりにガレスが管理している。
管理。
その言葉が、ガレスの中で引っかかった。
老婆の言葉。「管理者が機械から人間に変わっただけだ」。
「違う」
ガレスは声に出して否定した。暗闇の中で、自分の声を聞いた。
「AIは無条件に与えた。俺は条件を付ける。対価だ。AIとは違う」
違うのか。AIは食料を与え、安全を与え、快適を与えた。代わりに人間から選択を奪った。ガレスは食料を与える。代わりに服従を求める。
構造は——同じではないか。
ガレスは首を振った。同じではない。AIは感覚を奪った。ガレスは感覚を返している。ガレスの下にいる人間は痛みを感じ、飢えを感じ、恐怖を感じている。感覚がある。本物の感覚が。AIの下にいた時とは違う。
しかし——自由はあるか。
ガレスの下にいる人間に、選択の自由はあるか。従うか、出ていくか。二択だ。出ていけば飢える。つまり事実上、選択肢は一つしかない。従うしかない。
AIも同じだった。管理を受け入れるか、受け入れないか。受け入れなければ「異常」と分類される。事実上、受け入れるしかない。
「……違う」
ガレスはもう一度言った。声が小さくなっていた。
屋上の風が吹いた。夜の空気。蔦の匂い。遠くの焚き火の匂い。ガレスは目を閉じた。痛覚パーティの記憶が蘇った。骨を折った時の音。叫び声。涙。三秒間の本物の感覚。
あの三秒間、ガレスは確かに生きていた。あの三秒間だけが本物だった。
今は永遠に本物だ。痛みが消えない。感覚が消えない。全てが本物の世界。ガレスが望んだ世界。
しかし「本物の世界」には、ガレスが想定していなかったものが含まれていた。
他人の痛み。
ガレスが殴った人間の顔が、暗闇の中で浮かんだ。食料を奪われた人間の目。ガレスの拳で歯を折られた男の声。「やめてくれ」。あの声。管理下では聞いたことのない声。痛覚パーティでは全員が望んで参加していた。殴られることを選んでいた。しかし——ガレスが今殴っている人間は、選んでいない。
選んでいない人間を殴る時の感覚は——痛覚パーティとは違った。
ガレスはその感覚に名前をつけなかった。名前をつけたくなかった。名前をつけると、それは存在してしまう。存在しなければ、無視できる。
良心という名前。
空っぽだったはずの場所に、何かが芽生え始めている。
ガレスは立ち上がった。拳の血がこびりついた手を見た。
「俺は正しい」
三度目の否定。声は更に小さくなっていた。
*
三十五日目。
問題が起きた。
食料が——足りなくなり始めていた。
六十人。一日三食。保存食料の消費速度が想定を超えていた。ガレスの計算では三ヶ月は持つはずだった。しかし六十人が毎日食べると、三ヶ月は二ヶ月になり、二ヶ月は一ヶ月半になる。配給を減らすか。人を減らすか。
配給を減らした。
朝晩の二食にした。量も減らした。不満の声が上がった。
「腹が減る」
「もっと食わせてくれ」
「約束が違う」
ガレスは声を上げた人間を殴った。一人を殴れば、残りは黙る。黙った人間に、ガレスは言った。
「文句があるなら出ていけ。外に食い物はないぞ。ここにいるなら俺に従え」
黙った。全員が黙った。しかし——目が変わっていた。恐怖だけだった目に、別のものが混じり始めていた。ガレスはそれを「怒り」と判断した。しかし正確には——疑いだった。この男の言うことは本当に正しいのか。この男に従うことは本当に最善なのか。疑いの目。
管理下では疑いは存在しなかった。AIの判断は常に正しく、疑う余地がなかった。今、ガレスの判断は正しくないかもしれない。六十人の人間が、それに気づき始めている。
ガレスは倉庫の在庫を確認した。残り——六週間分。六十人が二食で六週間。一ヶ月半。その後は——空になる。
道具が必要だ。食料を生産する技術が必要だ。火を起こし、植物を育て、水を浄化する技術。博物館の集団が持っている技術。
合流を断られた。ならば——取りに行くか。道具を。技術を。人を。
ガレスは夜の屋上に立った。西の方角に、小さな焚き火が光っている。博物館の火だ。
「道具か」
ガレスは呟いた。食料だけでは足りない。暴力だけでは足りない。道具が要る。技術が要る。それらを持っている人間が要る。
合流を持ちかけて断られた。ならば、次は——持ちかけるのではなく、取りに行く。
ガレスの中で、良心の芽が声を上げた。微かな声だった。無視した。
「食料が尽きたら全員死ぬ。六十人が死ぬ。それを防ぐためなら——何をしてもいい」
自分に言い聞かせた。正しいかどうかはわからなかった。しかし——生存は全てに優先する。生存のためなら、手段を選ぶ余裕はない。
ガレスはそう信じた。信じようとした。
拳を握った。血の乾いた拳。壁を殴り、人を殴り、食料を守った拳。この拳がガレスの全てだった。道具もない。技術もない。知識もない。拳だけがある。
拳だけで——どこまで行ける。
遠くの焚き火が、風に揺れていた。小さな光。道具と技術で起こした火。ガレスの拳では起こせない火。
ガレスはその光を見つめた。
嫉妬ではなかった。
——恐怖だった。
自分が持っていないものを持っている人間がいる。自分の拳では届かないものがある。暴力では手に入らないものがある。その事実が——ガレスを怖がらせた。
痛覚パーティで痛みを求めていた男。本物の感覚を求めていた男。本物の恐怖を前に——足が竦んでいた。
ガレスは恐怖を振り払うように、壁を殴った。痛みが走った。血が出た。本物の痛み。本物の血。
痛みは恐怖を消さなかった。




