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ゼンマイの朝  作者: 蒼月よる


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不完全の教室

 朝の光が展示室に差し込むと、ガラスケースの中の道具たちが目を覚ます。


 ルイはそう感じていた。もちろん道具は眠らない。しかし朝日がレンズに当たって虹を作り、鍛造ナイフの刃が鈍い光を返し、手巻き時計の文字盤が白く浮かび上がる時——道具たちが今日も使われることを知って、体を伸ばしているように見えた。

 博物館が生きている。二十年間、誰にも見向きされなかった博物館が、今、息をしている。


 断絶から十八日目だった。


 ルイは展示室の端に立って、目の前の光景を見ていた。

 二十人ほどの人間が、博物館の床に座っている。男も女もいる。年齢もばらばらだ。三十代の男。四十代の女。もっと若い者もいる。もっと年配の者もいる。全員が痩せていて、汚れていて、疲弊していて——しかし目が前を向いている。ルイを見ている。

 ルイの手にはレンズがあった。凸レンズ。収蔵品の一つ。かつて「拡大鏡」と呼ばれた道具だ。


「これを使って、火を起こします」


 ルイの声が展示室に響いた。天井が高いから反響する。声が大きく聞こえる。自分の声が大きく聞こえることに、ルイはまだ慣れていなかった。


「太陽の光をレンズで一点に集めます。集めた光が熱になる。その熱で——火口に火をつける。火口というのは、燃えやすい素材のことです。乾いた草、紙くず、樹皮の繊維。これを用意して——」


 ルイは中庭に出た。二十人がぞろぞろとついてきた。陽光が注いでいる。蔦が壁を這っているが、中庭はまだ開けていた。ルイは枯れ草を集め、小さな山にした。レンズを太陽にかざした。光の点が枯れ草の上に落ちた。白い、鋭い点。

 待った。

 十秒。二十秒。三十秒。

 煙が出た。

 枯れ草の先端が赤く変色し、細い煙が立ち上った。ルイは息を吹きかけた。そっと。長く。煙が増えた。赤い点が広がった。

 炎が立った。


 二十人の中から、声が上がった。

 驚きの声ではなかった。畏怖だった。火。太陽と、ガラスの円盤と、枯れ草で、火が生まれた。電力ではない。ナノマシンではない。人間の手と、古い道具と、太陽の光。それだけで。

 一人の中年男が手を挙げた。


「やらせてくれ」


 ルイはレンズを渡した。男はぎこちない手つきでレンズを掲げた。角度が悪い。光の点がぼやけている。


「もう少し角度を……太陽の方に傾けて。そう。点が小さくなるまで——」


 男の手が震えていた。緊張だった。火を起こす——人生で一度も経験したことのない行為に挑んでいる。四十年以上生きてきた大人の手が、子供のように震えている。

 光の点が絞られた。枯れ草に落ちた。男は待った。煙が出た。男の目が見開かれた。息を吹きかけた——強すぎた。煙が散った。火口が冷えた。


「あ——」


 失敗した顔。ルイは見たことのある顔だと思った。博物館に来たことのない来場者が、展示の意味がわからず困惑する顔。しかしあの頃の困惑は「わからないものに出会った不快感」だった。今のこの男の顔は違う。「できなかったことへの悔しさ」だった。悔しい。できるようになりたい。もう一度やりたい。

 その顔を見て、ルイの胸に何かが湧いた。名前のつけられない感覚。温かいが、同時に不安だ。


「もう一度やってみてください。息は細く、長く。蝋燭を吹くんじゃなくて——赤ちゃんに息を吹きかけるくらい、優しく」


 男はもう一度枯れ草を集めた。もう一度レンズを掲げた。光を絞った。待った。煙が出た。今度は——優しく息を吹いた。

 炎が立った。

 男は自分の手を見た。火を起こした手。レンズを持っていた手。その手が震えていた。今度は緊張ではなかった。


「……できた」


 小さな声だった。四十を過ぎた男が、子供のような声で言った。できた。火を起こした。自分の手で。


 ルイは微笑んだ。——微笑んだ自分に気づいた。この感覚は何だろう。自分が作ったものでも、自分が発見したものでもない。自分が教えたことを、他の人間ができるようになった。それを見て、嬉しい。

 嬉しい?

 学芸員の仕事に、この感覚はなかった。収蔵品を保管し、整理し、展示する。来場者が来ない展示を維持し続ける。それはルイの誇りであり使命だったが——「嬉しい」とは違った。道具を守ることは正しいことだった。しかし道具を守ることと、道具が使われることは——違う。


          *


 午後になると、別の授業をした。


 ナイフの使い方。木を削ること。食材を切ること。紐を切ること。

 鍛造のナイフを五本、作業台に並べた。収蔵品だ。二十年間、ガラスケースの中にあった道具。今はケースの外にある。人の手に握られている。

 ルイはナイフの持ち方を教えた。刃の向き。力の入れ方。「刃を自分の方に向けないこと。押すのではなく引くこと。力は手首ではなく肘から——」

 二十人が交代でナイフを握った。木の枝を削った。多くが指を切った。


「痛っ——」


 声が上がるたびに、ルイは布を渡した。傷口を押さえる方法を教えた。「清潔な布で、しっかり圧迫する。血が止まるまで五分ほど。感染のリスクがあるから——」

 感染。ナノマシンがあれば感染は起きなかった。今は起きる。傷口から菌が入る。化膿する。最悪の場合——ルイは言葉を飲み込んだ。最悪の場合を言う必要はない。今は「布で圧迫する」だけでいい。

 不完全な教師だ、とルイは自分に言い聞かせた。完璧な知識はない。体系的な訓練も受けていない。収蔵品の付属資料と、展示解説文と、時計師の手帳から学んだ断片的な知識。それだけだ。しかしそれだけが、今、この人たちを生かしている。


 午後の遅い時間に、来客があった。


 展示室の入口に、二人の人影が現れた。若い男と、白髪の老女。男は痩せていた。汚れていた。老女は——落ち着いていた。周囲を観察する目で、博物館の内部を見回している。


「ここが——博物館?」


 若い男が言った。声がかすれていた。疲弊しきった声。しかし目に光があった。ぼんやりとした、しかし確かな光。何かを探している目。


「そうです。ノスタルジア博物館。僕はルイ。ここの——学芸員です」


 「学芸員」という言葉を口にした瞬間、ルイは少し迷った。今の自分は学芸員なのか。教師なのか。どちらでもないのか。しかし他に名乗りようがなかった。


「僕はノア。こっちはイレーネさん」


「イレーネだよ。さん付けはいらない」


 老女がルイを見た。鋭い目。しかし攻撃的ではなかった。品定めでもなかった。純粋な好奇心。


「あんたがこの道具を守ってきたのかい」


「はい」


「一人で?」


「一人で」


 イレーネは展示ケースを覗き込んだ。手巻き時計。鍛造ナイフ。レンズ。縫い針。手回し発電機。


「こんなものが残っていたのか。管理が全部捨てさせたと思ってた」


「捨てさせようとしました。閉鎖勧告が出てました。でも——」


「守った」


「守りました」


 イレーネは顔を上げた。ルイを見た。何かを見定めたような目だった。


「あんた、偉いね」


 ルイは首を振った。偉くない。ただ、道具たちを手放せなかっただけだ。壊れたものは直せる。不完全なものは手を加えられる。その手触りが——ルイには必要だった。道具がなければ、ルイの手は何も掴めなかった。


 ノアが展示室の中を歩いていた。棚に並んだ道具を、一つずつ見ている。指先が伸びかけて、引っ込む。触りたいが、触っていいかわからない。


「触っていいですよ」


 ルイが言った。ノアが振り返った。


「ここの道具は触るための道具です。見るためじゃない。使うための道具です」


 ノアの手がナイフに伸びた。鍛造のナイフ。柄が木でできている。刃が鈍い銀色に光っている。ノアは柄を握った。ぎこちなく。手のひらにナイフの重みが乗った。


「持ったことないだろう」


「……ない」


「じゃあ教えます。刃を外に向けて——そう。反対側に指を回して——」


 ルイはナイフの持ち方を教えた。さっき二十人に教えたのと同じことを。しかしノアに教えるのは、少しだけ違った。ノアの手は他の人間より不器用だった。力の入れ方がわからない。握る力が均一で、緩急がない。管理下で何もしたことのない手。ルイが「趣味の博物館」でガラスケースを磨いていた頃、この青年はAIの指示だけで生きていたのだ。


「木を削ってみますか」


 ルイは木の枝を渡した。ノアは右手にナイフ、左手に枝を持った。刃を木に当てた。引いた。

 何も起きなかった。力が足りない。角度が悪い。


「もう少し角度をつけて。斜めに——そう。手首を固定して、肘を引く」


 ノアが刃を引いた。薄い木屑が落ちた。ノアの目が見開かれた。


「削れた」


「削れましたね」


 ノアはもう一度引いた。もう一度。木屑が足元に溜まっていく。ノアの動きが少しずつ滑らかになっていく。手が覚え始めている。


 三度目に引いた時、刃が滑った。


「——っ」


 ノアの左手の人差し指に、赤い線が走った。血が出た。小さな切り傷。ノアは指を見つめた。血が指の腹を伝っている。


「大丈夫ですか。布を——」


 ルイが布を差し出した。しかしノアは受け取る前に、自分の右手で左手の傷を押さえていた。無意識の動作だった。血が出ている場所を、手で押さえる。誰にも教わっていない。体が知っている。


「……痛い」


 ノアが言った。


「痛いですよね。ナイフは危険です。でも——」


 ルイは言葉を探した。何を言えばいいのだろう。「気をつけてください」か。「次はもっとうまくいきます」か。どちらも嘘ではないが、正しい言葉ではない気がした。

 時計師の手帳の一節が頭をよぎった。あの手帳に書かれていた言葉。時計師が最後の修理を終えた日に書いた言葉。


 ——痛みを覚える前に痛みが消えた。これでいいのだろうか。


 あの時計師は、ナノマシンが全ての痛みを即座に消す世界を憂いていた。痛みを知らない手は、壊れたものを直せない。痛みを知らない体は、自分を守れない。痛みは警告であり、教師であり、体が体であるための証拠だった。

 今、ノアの指から血が出ている。痛みがある。ナノマシンが消さない痛みが。ノアは自分の手で傷を押さえている。自分の体を、自分で守ろうとしている。


「ノアさん」


「はい」


「痛いということは——手が使い方を覚え始めたということです」


 ノアはルイを見た。意味がわからない顔だった。しかし——ナイフを手放さなかった。指を布で巻いて、もう一度木の枝を握った。もう一度刃を当てた。今度はもう少し慎重に。もう少し角度を気にして。


 ルイはその姿を見つめた。二十歳を過ぎた青年が、ナイフの使い方を初めて覚えている。子供のように。いや、子供以下だ。子供には真似する親がいる。ノアには何もなかった。AIが全てをやってくれた世界で、何も覚えずに育った手。その手が今、木を削っている。下手に。危なっかしく。しかし——確かに。


          *


 夕方、ルイは裏手の作業場で道具の手入れをしていた。


 使われた道具は傷む。ナイフの刃は鈍る。レンズは汚れる。ロープは擦り切れる。管理下では道具が傷むことはなかった。ナノマシンが素材を分子レベルで修復していた。今は修復がない。ルイの手で研ぎ、拭き、結び直すしかない。

 砥石でナイフを研いでいた。収蔵品の砥石。水をかけて、刃を角度を一定にして滑らせる。シャリ、シャリ、シャリ。繰り返しの音。手に伝わる振動。この感覚をルイは愛していた。道具と手が対話する感覚。


 足音が聞こえた。ルイは顔を上げなかった。音でわかった。ライラだ。歩き方に癖がある。右足を少しだけ引きずる。断絶後に足を痛めたらしく、まだ完全には治っていない。


「ルイ」


「先生」


 ライラは苦笑した。この呼び方の攻防は、もう十八日間続いていた。


「先生はあなたでしょう」


「僕は学芸員です」


「二十人に火の起こし方を教えた学芸員?」


 ルイは砥石の上でナイフを滑らせた。シャリ。答えなかった。


「今日来た二人——ノアとイレーネ。あの二人も、ここに残りたいと言ってたわ」


「部屋は空いてます。二階の展示準備室がまだ二部屋あります」


「ルイ」


 ライラの声が変わった。少し真剣になった。ルイは手を止めた。


「人が増えてる。最初は私とセドリックだけだった。次にノアとイレーネ。他にも毎日のように人が来る。二十人。もっと増えるわ」


「ええ」


「食料が足りなくなる。缶詰はあと何日分?」


 ルイは計算した。博物館の地下倉庫に保管されていた非常用食料と、近隣の建物から集めた缶詰。二十人分で——


「一週間、もって十日です」


「セドリックが外の植物を調べてくれてるけど、食べられるものは限られてる。この近辺だけじゃ無理ね」


 ルイは頷いた。食料問題。学芸員の知識では解決できない問題。道具は教えられる。火は起こせる。しかし食料を生み出すことはできない。道具は万能ではない。道具は——人間の手の延長だ。手があっても、食べ物がなければ人は死ぬ。


「先生——ライラ先生。正直に聞きます」


「ええ」


「僕は……何をすればいいんですか」


 ライラが目を細めた。


「道具を教えることはできます。火の起こし方、ナイフの使い方、地図の読み方。でも——それだけじゃ足りない。食料がなくなる。人が増える。問題が大きくなる。僕は学芸員です。問題を解決する人間じゃない」


「ルイ」


「みんなが僕を見るんです。何かを期待する目で。道具の使い方だけじゃなくて——どうすればいいのか、これからどうなるのか、何が正しいのか。僕にはわからない。道具のことしかわからない」


 ライラは黙っていた。しばらく。ルイは砥石を握ったまま待った。


「私もわからないわ」


 ライラが言った。静かな声だった。


「何が正しいのか。これからどうなるのか。全部わからない。私は審査官だった。正しいか正しくないかを判断する仕事をしていた。でも——今の世界には、私の基準は通用しない」


「先生も——わからないんですか」


「わからない。でもね、ルイ。わからないということは——まだ考えている、ということよ。考えることをやめた人間は、わからないとすら言えない。あなたは考えている。どうすればいいかを。それだけで十分なの」


 ルイは砥石を見つめた。灰色の石。水に濡れて光っている。この石は何千回も刃を研いできた。何千回も、少しずつ減ってきた。しかしまだここにある。まだ使える。まだ研げる。

 道具と同じだ。すり減っていく。しかしまだ使える。不完全でも。


「……わかりました。考え続けます」


「それでいい」


 ライラは立ち上がりかけて、振り返った。


「あと一つ。セドリックのことなんだけど——」


「セドリックさん?」


「植物の選別をしてくれてるの。でも——まだ自分の判断を信じきれてなくて。私に確認を求めてくる。これは食べられるか、これは毒かって。私にわかるわけないのに」


 ルイは頷いた。セドリックの手が震えているのは見ていた。植物を選別する時、一つ一つをライラに見せて承認を求める。ライラが「大丈夫よ」と言わないと、棚に置かない。植物学者の知識はあるのに、判断を下す勇気がない。七年間、何も決めなかった男。


「彼に——何か仕事を頼めないかしら。ライラに確認しなくてもいい仕事。自分だけで完結する仕事」


「植物の図鑑を作る、というのはどうですか」


「図鑑?」


「セドリックさん、古い植物図鑑を持ち歩いていますよね。あれのページ三十七まで、過去の自分の記録がある。あの続きを書いてもらうんです。この周辺の植物を観察して、記録する。食べられるか、毒があるか、特徴は何か。誰の確認もいらない。植物を見て、自分の目で判断して、書くだけです」


 ライラの表情が変わった。少しだけ、目が明るくなった。


「ルイ、あなた——学芸員じゃなくて教師よ、やっぱり」


「学芸員です。収蔵品の状態を見て、最適な保管方法を考える。それと同じです。セドリックさんという人の——状態を見て、最適な手当てを考えた。それだけです」


 ライラは笑った。小さく、しかし確かに笑った。ルイはその笑顔を見て、胸の奥が少しだけ温かくなった。


          *


 翌朝。


 セドリックが中庭にいた。膝をついて、植物を観察している。手に古い植物図鑑を持っている。茶色い表紙。使い込まれたページ。ルイは遠くからその姿を見ていた。

 セドリックが図鑑を開いた。ページを繰る。三十七ページ。過去の自分が書いた記録。緻密な植物のスケッチ。葉の形状、根の構造、花の色。七年前の自分の筆跡。

 三十八ページ。白紙だった。

 セドリックはそのページを見つめていた。白い紙。何も書かれていない紙。七年間ずっと白いままだったページ。


 ルイは昨夜、ライラに聞いた。セドリックは植物学者だった。しかし七年前のある日——「もう調べることがない」と穏やかに笑って、ペンを置いた。AIが全てを解明し、全てを管理し、植物学者の「なぜ」を奪った。調べることがない。問いがない。問いがなければ学者は死ぬ。セドリックの学者としての部分は、七年前に死んだのだ。


 セドリックの右手にペンがあった。どこで見つけたのか。博物館の収蔵品に万年筆があった。あれだろうか。

 セドリックはペンを白紙のページの上に持っていった。

 手が震えていた。

 ペン先がページの上で揺れている。書こうとして、書けない。何を書けばいいかわからない。いや——何を書くべきかは知っている。目の前の植物を観察し、特徴を記録する。それは植物学者の基本だ。手が覚えている。しかし——「書いていいのか」がわからない。自分の観察が正しいのか。自分の判断を信じていいのか。ライラに確認すべきではないか。

 ペンが揺れている。


 ルイは声をかけなかった。見ていた。遠くから。

 学芸員は知っている。修復中の品に、余計な手を加えてはいけない。接着剤が乾くまで待つ。乾燥中に触れば、かえって傷む。セドリックは今、乾燥中だ。七年間の空白を埋めようとしている。外からの力ではなく、自分の内側からの力で。

 待つ。待つことも、学芸員の仕事だ。


 セドリックのペンが動いた。

 微かに。ゆっくり。震えながら。ページの上に、一本の線が引かれた。

 葉の輪郭だった。目の前の植物の——蔦の、葉の輪郭。不正確だった。線が歪んでいる。七年前の緻密なスケッチとは比べものにならない。しかし——線だった。セドリックが自分の目で見て、自分の手で引いた線。

 もう一本。もう一本。輪郭が形になっていく。

 セドリックの手から震えが消えていた。完全にではない。しかし——ペンが安定し始めていた。手が思い出している。植物を観察する手。線を引く手。記録する手。


 ルイは静かにその場を離れた。見ていたことを、セドリックに知られる必要はなかった。


          *


 午後の授業。地図の読み方。


 ルイは壁に紙の地図を広げた。この都市の旧い地図。ナノマシン時代より前に作られたもの。収蔵品だ。等高線と建物の配置が描かれている。


「これが地図です。上が北。この線が道路。この数字が標高——高さのことです。数字が大きいほど高い場所。水は高い場所から低い場所に流れる。だから——」


「ルイさん」


 ノアが手を挙げた。


「はい」


「北って何ですか」


 ルイは口を閉じた。北。方角。AIが常に表示していたものだ。「目的地は北西方向、三百二十メートル先です」。ノアは方角の概念を知らなかった。


「太陽が昇る方向が東です。沈む方向が西。太陽に向かって右手側が南、左手側が北」


 ノアは窓の外を見た。太陽を探している。見つけた。方角を手で確認している。右手。左手。


「今、太陽はあっちにあるから——こっちが北?」


「正確にはもう少し違いますが、大体そうです」


「大体……」


 ノアはその言葉を噛んだ。「大体」。AIは「大体」とは言わなかった。全てが正確だった。距離は小数点以下三桁まで。時刻は秒単位まで。方角は度数で。「大体」は不完全だ。しかし——今は「大体」しかない。

 ノアは地図に目を落とした。線と数字の集まり。ノアの目にはほとんど意味がなかった。しかし——目が動いている。線を追っている。理解しようとしている。


 イレーネが地図を覗き込んだ。


「この建物がここで、ここが噴水のある公園——あたしが水を汲んでたポンプは……ここだね。ここにポンプの印がある」


 イレーネは地図が読めた。ルイは驚いた。


「読めるんですか」


「昔の資料を読んでた時に覚えた。管理の前の時代の地図を調べてたんだ。この都市がどんな形をしていたか——」


「意味探求者だったんですね」


 イレーネは肩をすくめた。


「大層な名前だね。ただの暇つぶしだよ。管理されて何もすることがないから、昔のことを調べてた。それだけだ」


 しかしその「暇つぶし」が、今、地図を読む力になっている。管理下で無駄だと思われていた知識が、管理がなくなった世界で意味を持つ。ルイの博物館と同じだった。無駄だと思われていたものが、突然、必要になる。


 ノアがイレーネに地図の読み方を教わっている。イレーネがノアに「ここが今いる場所で、こっちに行くとこうなって」と指で示している。ノアが頷いている。二人の間に、教える者と学ぶ者の関係が生まれている。

 ルイだけが教師ではないのだ。全員が何かを知っていて、全員が何かを知らない。知識は一方向に流れるものではなく、人と人の間を行き来するものだった。

 博物館は道具の保管庫だった。今は——交差点になりつつあった。人と知識が交差する場所。


          *


 夜になった。


 博物館の一階、旧展示室が居住空間になっていた。ガラスケースを壁際に寄せ、床に毛布を敷き、二十人あまりが眠る場所。中庭で焚き火が燃えている。ルイが今朝教えた火が、夜まで保たれている。交代で薪をくべる係を決めた。それもルイが提案したことだった。——提案。学芸員は提案しない。展示計画を立てることはあっても、人の暮らしの段取りを決めることはない。しかしルイはやっている。提案し、説明し、役割を割り振っている。

 教師だ。自分は教師になりつつある。認めたくはないが、認めないわけにもいかない。


 焚き火のそばに座った。炎を見つめた。

 この炎は、ルイが起こした。レンズと太陽と枯れ草で。収蔵品だったレンズで。展示品だった道具で。

 かつてこの道具たちは、ガラスケースの中にいた。説明カードが添えられ、照明に照らされ、誰にも触れられなかった。AIが「推奨度0.3」と評定し、来場者はゼロだった。閉鎖勧告が出された。「この施設は社会的価値基準を満たしていません」。

 ルイは道具を守った。閉鎖勧告に抵抗し、予算削減を受け入れ、一人で展示を維持した。なぜか。道具が必要とされると信じていたからか。いや——そこまでの確信はなかった。ただ、手放せなかった。壊れたものを直す道具。不完全なものを使い続ける道具。その手触りが好きだった。ルイの手が、道具を求めていた。


 今、道具たちはケースの外にいる。人の手に握られ、使われ、傷つき、研ぎ直されている。ルイがケースの中で守っていたものが、ケースの外で生きている。


「ルイ」


 ノアが焚き火の向かい側から声をかけた。指に布が巻かれている。昼間の傷だ。


「明日もナイフ、教えてくれますか」


「もちろん」


「あと——その、火の起こし方も。もう一回やりたい。今日は見てただけだったから」


「やりましょう。レンズの使い方と、枯れ草の集め方と——あ、風向きも教えないと。風上に火口を置くと消えやすいので」


 ノアが頷いた。その顔は——二十日前のノアとは違うのだろう、とルイは想像した。ルイはノアの二十日前を知らない。しかし今のノアの目には、「学びたい」という光がある。何かを覚えたい。自分の手でできるようになりたい。その欲求が、目の中にある。


「ルイさん」


「はい」


「ルイさんは——ずっとここにいたんですか。この博物館に」


「ええ。ずっと」


「一人で?」


「一人で」


「……すごいな」


「すごくないですよ。誰も来なかったから、一人だっただけです」


「でも——道具を守ってた。一人で。誰も来なくても」


 ルイは炎を見つめた。火が揺れている。橙色の光。不規則な明滅。レンズで起こした火。収蔵品で起こした火。


「道具は——待ってたんだと思います」


「待ってた?」


「ケースの中で、使われる日を。僕はそれを知ってました。いつか、この道具たちが必要になる日が来る。来なかったかもしれない。でも——来た」


 ノアは炎を見ていた。火の中に何かを見ているような目だった。


「俺も——待ってたのかな。何かが始まる日を」


「それは——ノアさんにしかわからないことですね」


「うん。わからない。でも——ここに来てよかった」


 ルイは微笑んだ。今度は自覚的に。嬉しいのだ。この人がここに来て、道具を手にして、学ぼうとしている。そのことが嬉しい。学芸員として? 教師として? わからない。どちらでもいい。


 焚き火が弾けた。火の粉が暗闇に舞い上がった。小さな光の粒が、蔦の覆い始めた壁に影を落として、消えた。


 ルイは炎を見つめた。

 この火は明日の朝には消える。消えたら、また起こす。レンズと枯れ草で。道具と手で。毎日。毎朝。消えるから起こす。止まるから巻く。壊れるから直す。

 不完全な世界で、不完全な道具で、不完全な教師が教えている。

 それでいい。

 それしかない。

 だから——それでいい。


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