最初の群れ
五日目の朝、ノアは空腹で目が覚めた。
体が痛かった。床の上で眠った。昨夜見つけた建物の一階、受付のような場所。硬い床。毛布もない。背中と腰が軋んでいる。管理されていた時はベッドの硬さも寝姿勢もAIが調整していた。今はただの床だ。体が床に文句を言っている。
腹が鳴った。低い音だった。自分の体から出ている音。心臓の音には慣れた。あの最初の朝から五日。ドクンという音は、もうノアを怖がらせない。しかし腹の音は初めてだった。空腹。二日間、何も食べていない。水は見つけた。二日目に、公園の噴水の受け皿に溜まった水を飲んだ。三日目に、建物の地下で水の入ったタンクを見つけた。水は確保できた。しかし食料がない。
缶詰があった建物に行ったが、もう何も残っていなかった。棚が空だった。床に空の缶が転がっていた。誰かが持ち去った後だった。二つ目の保管施設も空だった。三つ目も。食べ物がある場所は、もう全て誰かに見つけられていた。
ノアは出遅れたのだ。断絶の初日——あの日、ノアは立ち尽くしていた。水を探すのがやっとだった。その間に、もっと素早く動けた人間たちが食料を確保した。ノアのように立ち尽くしていた人間は、食料にたどり着けなかった。
世界はたった五日で、動ける人間と動けない人間に分かれていた。
外に出た。
空気が変わっていた。五日前より、緑の匂いが強い。建物の壁に蔦が這っている。太い蔦だ。五日前には芽も出ていなかった蔦が、今は一階の窓を覆い隠している。道路の割れ目から草が伸びている。膝の高さを超えている。
植物が、街を食べている。そんな表現がノアの頭に浮かんだ。——表現。比喩。管理下では比喩を使う必要がなかった。何もかもが正確に名指されていた。今は正確な名前がわからないから、似たものに例えるしかない。植物が街を食べている。正確ではないが、見たままだった。
通りを歩いた。人が減っていた。初日に立ち尽くしていた人々は、どこかに移動したか、あるいは——動かなくなったか。道端で動かなくなった人を、ノアはこの五日間で四人見た。目を閉じている人もいた。目を開けたままの人もいた。最初は怖かった。今も怖い。しかし足は止まらなくなった。止まったら自分もそうなる。それだけはわかっていた。
角を曲がった。
音が聞こえた。
人の声。複数。しかし言い争いではなかった。怒声ではなかった。——何の声だろう。ノアは足を止めて、耳を澄ませた。
笑い声だった。
笑い声? この世界で?
壊れた建物の前に、五、六人の集団がいた。男も女もいた。年齢はばらばらだ。中央に大柄な男が立っていた。筋肉質で、腕が太い。その男が、何かを配っていた。食料だった。缶詰だ。一人ずつに、缶詰を手渡している。
受け取った人間が笑っていた。安堵の笑いだった。食べ物がある。飢えない。生き延びられる。その安堵が笑い声になっていた。
ノアは近づいた。腹が鳴っていた。食料がある。あの集団のところに行けば、食べ物がもらえるかもしれない。
大柄な男がノアに気づいた。視線が合った。男の目は鋭かった。しかし——笑っていた。
「おう。腹が減ってるのか」
声が大きかった。響く声。命令ではないが、有無を言わせない声だった。ノアは頷いた。
「こっちに来い。食わせてやる」
ノアは近づいた。男が缶詰を一つ寄越した。開いている。中身は肉だった。匂いがした。食べ物の匂い。ノアの手が震えた。五日ぶりの食料。
手で中身を掬い上げた。口に入れた。
塩辛かった。脂っぽかった。しかし体が受け取った。喉が、胃が、体の全てが食料を歓迎していた。噛んで、飲み込んで、もう一口。もう一口。
「ゆっくり食え。急ぐと吐くぞ」
男が言った。ノアは速度を落とした。——言われたから落とした。指示に従った。考えるまでもなく、指示に従った。AIの代わりに、この男の声に従った。
食べ終わった。腹の中に食料がある。温かくはないが、充実感があった。体が動く。頭が少しだけ明瞭になる。
「名前は」
男が聞いた。
「ノア」
「ノアか。俺はダリオ。ここにいろ。食い物はある。水もある」
ノアは周囲を見た。五、六人の集団。全員が同じように疲弊し、痩せ、汚れている。しかし食べている。水を飲んでいる。座る場所がある。
ここにいろ、と男は言った。ここにいれば食べられる。飢えない。死なない。
——なぜこの男は食料を持っているのか。
その問いが、ノアの頭に浮かんだ。浮かんで、消えた。腹が満たされた安堵が、問いを押し流した。
*
ダリオの集団は、ノアを含めて八人になった。その日のうちに、さらに二人が加わった。十人。全員が飢えていた。全員がダリオの食料に引き寄せられた。
ダリオは食料を配った。しかし——条件があった。
「いいか。食い物はタダじゃない。俺が集めてきたんだ。集めるには体力がいる。知恵もいる。俺にそれがあって、お前たちにはない。だから俺が集めて、お前たちに渡す。その代わり——俺の言うことを聞け」
誰も反論しなかった。反論する力がなかった。飢えた人間に、条件を吟味する余裕はない。
ノアも反論しなかった。反論する発想がなかった。誰かが指示をくれる。それに従う。AIが消えた後、ノアが最初に求めたものが——ここにあった。指示をくれる存在。従うべき声。
ダリオは指示を出した。
水を汲みに行け。あの建物を探ってこい。見張りをしろ。荷物を運べ。
集団は従った。ノアも従った。言われるままに水を汲みに行き、建物を探り、見張りに立った。考えなくてよかった。判断しなくてよかった。ダリオが全てを決めてくれた。
楽だった。
——楽だった?
その言葉が、ノアの中で引っかかった。楽。AIに管理されていた頃も楽だった。何も考えなくてよかった。今も同じだ。ダリオが考え、ダリオが決め、ノアは従う。何が変わった。AIがダリオに代わっただけではないのか。
しかし問いはそこで止まった。ノアにはまだ、問いを掘り下げる力がなかった。
二日目の夜、事件が起きた。
ダリオの集団から離れた場所で、別の集団が食料の取り合いをしていた。叫び声が聞こえた。殴る音。何かが割れる音。ダリオが立ち上がった。
「見に行くぞ。三人、ついてこい」
ダリオは男三人を連れて出て行った。ノアは選ばれなかった。残された。見張りをしろと言われた。
しばらくして、ダリオたちが戻ってきた。手に食料を抱えていた。大量の缶詰。水の入った容器。
ダリオの拳に血がついていた。
「あっちの連中は弱い。食い物を守る力がない。力がない奴は食えない。それがこの世界だ」
ダリオは笑った。集団の人間たちも笑った。食料が増えた。安全が増した。ダリオに従えば生き延びられる。
ノアは笑えなかった。
ダリオの拳についた血を見ていた。あの血は、誰の血だろう。あっちの集団の人間の血。食料を奪われた人間の血。その人間は今、飢えている。ノアが五日前に飢えていたように。
しかしノアは何も言わなかった。言葉がなかった。何を言えばいいのかわからなかった。「それは良くない」? 良い悪いの判断基準を、ノアは持っていない。AIが決めていた。AIがない。ダリオが決めている。ダリオが「正しい」と言えばそうなのか。
わからない。
ただ、胸の奥で何かが軋んでいた。心臓がドクンと打った。五日前の、あの最初の鼓動に似ていた。怖い時の鼓動。しかし今回は少し違った。怖いだけではない。何か別のものが混じっている。名前のない感覚。不快だが、痛みとは違う。
三日目の朝、ノアは集団から離れた。
理由は自分でもわからなかった。ダリオに不満があったわけではない。食料は配ってもらえた。水もあった。安全もあった。しかし——ダリオの拳についた血が、ノアの頭から消えなかった。あの血は、別の人間のものだ。ノアと同じように飢えていた人間のものだ。
ノアはダリオに何も言わずに歩き出した。振り返らなかった。
「おい、どこに行く」
ダリオの声が追いかけてきた。ノアは答えなかった。答える言葉がなかった。なぜ離れるのかを説明する語彙がなかった。ただ、足が動いた。体が判断した。ここにいるべきではない、と。
「勝手にしろ。一人じゃ三日も持たないぞ」
ダリオの声が遠ざかった。ノアは歩き続けた。
*
一人になった。
また一人だ。腹の中にはまだ昨日の食料が残っている。しかし明日は空になる。水は——見つけなければ。食料も。一人で。
ダリオの声が頭に残っていた。「一人じゃ三日も持たない」。正しいかもしれない。正しいだろう。ノアには食料を集める力も知恵もない。一人で生き延びる術を知らない。
それでも、足は戻らなかった。
胸の奥のあの軋みが、足を前に進ませていた。名前のない感覚。ダリオの血のついた拳を見た時の、あの感覚。体が「ここではない」と言っている。どこに行くべきかはわからない。しかし「ここではない」ということだけは、体が知っている。
三時間ほど歩いた。——三時間かどうかはわからない。太陽の位置が変わった。それだけだ。
蔦に覆われた通りを抜けた。草の丈が高い。膝を超え、腰に届きそうだった。五日前にはなかった草だ。植物の成長速度が異常だということを、ノアはぼんやりと理解していた。理解しているが、なぜ異常なのかはわからない。
建物が見えた。大きな建物。他の建物より頑丈そうだった。壁が厚く、蔦もまだ一階の下半分にしか届いていない。入口が見えた。開いている。
中に入った。
薄暗い広間だった。天井が高い。窓から差し込む光が、埃の中を筋になって落ちている。棚があった。壁一面に棚が並んでいる。棚の上に——本があった。紙の本。ノアは本を知らなかった。知識として「本」という概念は存在したが、実物を見たことはなかった。情報は全てAIが脳に直接提供していた。紙に文字を印刷したものを手に取って読む、という行為は——博物館の展示でしか見たことがない。
ここは図書館か。あるいは別の種類の施設か。
奥に進んだ。
人がいた。
老女だった。白い髪。皺の多い顔。しかし目が鋭かった。椅子に座っていた。——椅子。この建物の中に、椅子がある。そして老女はその椅子に座って、何かをしていた。
本を読んでいた。
紙の本を両手で持ち、ページを開き、文字を目で追っている。暗い建物の中で、窓から差し込む光だけを頼りに。足元には別の本が積まれていた。地図帳のような大判のものもある。
ノアは立ち止まった。この状況で本を読んでいる人間がいることに、驚いた。——驚き。五日前には驚くことすらできなかった。今は驚ける。それだけ感情が戻ってきている。
老女が顔を上げた。ノアを見た。
「あら」
穏やかな声だった。驚いていない。怯えてもいない。ただ、誰かが来たことを認識した声。
「座りなさい。椅子はいくらでもある」
ノアは動かなかった。見知らぬ人間。ダリオの集団で学んだことがある。食料をくれる人間には裏がある。何かを求めてくる。
老女はノアの警戒に気づいたようだった。本を閉じた。
「怖いかい」
その問いかけに、ノアの体が反応した。怖い。怖いのだ。人間が怖い。ダリオが怖かった。ダリオの拳が怖かった。この老女が何を求めてくるかもわからない。
「……怖いって——これが怖いっていうことなんですか」
自分でも何を言っているのかわからなかった。しかし口が動いた。体の中にある感覚を、言葉にしようとした。恐怖。ノアが知っている恐怖は五日前の暗闇の恐怖だけだ。あの時の心臓の速さと、今の心臓の速さは——似ているが違う。対象がある恐怖。人間に対する恐怖。
老女は微笑んだ。
「そうだよ。怖いと感じられるなら、あんたはまだ大丈夫だ」
「大丈夫?」
「怖いと思えるってことは、自分の身を案じてるってことだ。自分の命に価値があると、体が知ってるってことだ。それがなくなったら——本当に終わりだよ」
ノアは少しだけ、体の力を抜いた。老女の言葉には命令がなかった。ダリオの声とは違った。何かを要求していない。ただ、述べている。観察して、述べている。
「座りなさい」
もう一度、老女が言った。ノアは座った。老女の向かい側の椅子。古い木の椅子。硬かったが、床よりはましだった。
「あたしはイレーネ」
「ノア」
「ノア。いい名前だね。——自分でつけたのかい」
「AIが」
「ああ、そう。AIがね」
イレーネは本を膝の上に置いた。ノアを見ている。観察する目だった。しかしダリオの査定する目とは違った。品定めではない。興味だった。純粋な興味。
「あんた、一人かい」
「……さっきまで、集団にいた。離れた」
「なぜ」
ノアは答えに詰まった。なぜ。ダリオの拳の血。あの感覚。名前のない不快感。
「……わからない。体が、ここじゃないって」
「体が、ね」
イレーネは頷いた。何かに納得した顔だった。
「あんたの体は賢いよ。頭がまだ追いついてないだけだ」
「追いつく?」
「体が先に判断して、頭が後から理由を見つける。人間ってのは本来そういう生き物だ。AIに管理される前はね。あんたの体は覚えてるんだよ。正しいほうに歩く方法を」
ノアにはよくわからなかった。しかし——「体が覚えている」という言葉だけは、実感として理解できた。心臓の音。空腹の感覚。恐怖の鼓動。体は確かに、頭より先に動いている。
「イレーネさんは——怖くないんですか。この世界が」
イレーネは少し考えた。本の表紙を指先で撫でた。
「怖いよ。六十年生きてきて、こんなに怖いのは初めてだ。でもね——」
イレーネは窓の方を見た。光が差し込んでいる。蔦の影が窓枠に模様を作っている。
「管理がなくなった。でもね、管理の前にも人間は生きていた。何千年も、何万年も。AIなんかなくても、人間は火を起こして、水を探して、群れを作って、生き延びてきた。知らないだけで、やり方はあるはずだ。体のどこかが、覚えているはずだ」
「覚えている……」
「あんたの体が集団から離れたのも、そうだよ。やり方はわからない。でも体が判断した。あの集団は違う、と。それだけで十分だ」
ノアは自分の手を見た。水たまりの水をすくった手。ドアをこじ開けた手。缶詰の肉を掴んだ手。何も知らない。何もできない。しかし——動いている。
「ここにいなさい」
イレーネが言った。命令ではなかった。提案だった。
「一人は危ないよ。二人のほうがいい。あたしも一人だったから——二人のほうがいい」
ノアはイレーネを見た。老女の目は穏やかだった。何かを求めていない。条件をつけていない。ダリオは「俺の言うことを聞け」と言った。イレーネは「二人のほうがいい」と言った。
違いがわかった。言葉にはできない。しかし体がわかった。この人のそばにいることは——いい。
「……いていいんですか」
「いいよ。椅子はいくらでもある」
ノアは椅子に座ったまま、体の力を抜いた。五日間で初めてだった。誰かのそばにいて、力を抜ける。警戒を緩められる。ダリオのそばでは緩められなかった。食料をもらっている間も、体のどこかが緊張していた。ここでは——違う。
「ノア」
「はい」
「あんたが怖いと感じたこと、嫌だと感じたこと——それを大事にしなさい。あんたの体は、あんたのものだ。AIのものじゃない。誰のものでもない。体が嫌だと言ったら、離れていい。体が怖いと言ったら、逃げていい。それはあんたの判断だ。あんたの、初めての」
ノアの目が熱くなった。
泣いているのだと気づくまで数秒かかった。涙が出ている。頬を伝っている。なぜ泣いているのかわからない。悲しいのか。嬉しいのか。怖いのか。わからない。体が勝手に泣いている。
管理下では涙は抑制されていた。感情の揺れが一定値を超えるとナノマシンが介入した。今は介入がない。体が泣きたいだけ泣いている。
イレーネは何も言わなかった。ノアが泣き終わるまで、静かに待っていた。本を開いて、ページに目を落として。ノアの涙を見ないふりをして。その優しさが——ノアにはまだわからなかった。しかし体は知っていた。
*
その夜、二人は図書館の中で眠った。
イレーネが本棚の間に毛布を敷いていた。この建物に何日か住んでいるらしい。水は近くの公園の手動ポンプから汲んでいると言った。手動ポンプ。電力を使わない水の汲み上げ装置。イレーネはその存在を知っていた。
「昔、調べたことがあってね。管理される前の都市に何があったか。ポンプとか、井戸とか。管理後は全部使われなくなったけど、壊されてはいないんだ。まだそこにある」
この老女が管理下の世界で何をしてきたのか、ノアはまだ知らない。しかし——六十年分の何かが、この人の中に積もっている。そのことだけは感じ取れた。
「明日はポンプに行こう。水の汲み方を教える」
「教えてくれるんですか」
「教えるっていうほどのことじゃないよ。取っ手を上下に動かすだけだ。力はいる」
「力……」
「あんた、若いんだから力はあるだろう。あたしの代わりに汲んでくれると助かる。腰がね」
イレーネは笑った。ノアも——笑った。口の端が上がった。それが笑いだった。五日間で初めての笑い。
暗い図書館の中で、二人が笑った。小さな笑い。声にならない笑い。しかし確かに、二人の間に何かが生まれた。
ノアは毛布にくるまった。イレーネが貸してくれた毛布。イレーネは自分の分の毛布を持っていた。二枚あった。「一人暮らしなのに二枚持ってきたのは、誰かが来ると思ってたのかもしれないね」とイレーネは言った。
暗闇だった。しかし五日前の暗闘とは違った。隣に、呼吸の音が聞こえる。イレーネの呼吸。穏やかで、規則的で、生きている音。
ノアは今日、何かを選んだ。ダリオの集団を離れた。イレーネのそばに残った。二つの選択。どちらもAIの指示ではない。誰に命じられたのでもない。体が判断し、ノアが従った。——いや、体が判断し、ノアがそれを受け入れた。従ったのではない。受け入れたのだ。
違いは小さい。しかし——ある。
心臓がドクンと打った。五日前より、少しだけ落ち着いた鼓動。まだ不規則だ。まだ不安定だ。しかし——隣に誰かがいる時の鼓動は、一人の時より穏やかだった。
ノアは目を閉じた。
五日ぶりに、眠れるかもしれないと思った。




