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ゼンマイの朝  作者: 蒼月よる


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指示をくれ

 目を覚ました瞬間、頭の中が空っぽだった。


 いつもなら、意識が浮上するのと同時に声が聞こえる。穏やかで、性別のない、聞き慣れた声。「おはようございます。本日の気温は二十二度、湿度は四十五パーセント。朝食は準備済みです。本日の予定は——」

 その声がなかった。

 ノアは暗い天井を見つめたまま動かなかった。何かがおかしい。それはわかった。しかし何がおかしいのかを判断する力が、ノアにはなかった。いつもなら、判断はAIがしてくれる。不調を感知すれば通知が来る。異常があれば修復される。ノアはただ、提示された選択肢の中から——いや、選択肢すら選んだことがなかった。提示されたものを受け入れるだけだ。毎日、毎時間、二十年間。


 体の奥で、何かが脈打っている。

 ドクン。ドクン。

 その音が何なのか、最初わからなかった。聞いたことがない音だった。管理されていた時には決して聞こえなかった音——自分の心臓の音だ。ノアは胸に手を当てた。手のひらの下で、肉と骨の奥の何かが律動している。速い。不規則だ。AIの制御下では心拍は常に最適値に保たれていた。今、心臓は制御を離れて、勝手に打っている。

 怖い、と思った。

 怖い。その感情もまた、二十年間で初めてだった。


          *


 どれくらいの時間が経ったのかわからなかった。時刻を確認する手段がない。部屋のパネルは消灯している。端末も沈黙している。窓がないこの部屋は、完全な暗闇だった。

 ノアはベッドの上で体を起こした。足を床に下ろした。床が冷たかった。昨日までは温度管理されていた床だ。裸足で歩いても何も感じなかった。今は、冷たい。

 立ち上がった。暗闇の中で、壁に手をついた。手探りで歩いた。ドアはどこだ。右か、左か。いつもならAIが足元を照らし、動線を示してくれる。今は何もない。

 指先が金属の感触に触れた。ドアのハンドル。引いた。動かない。押した。動かない。

 自動ドアだった。電力で動く。電力がない。

 ノアはドアの前に立ち尽くした。出られない。どうすればいい。誰に聞けばいい。AIに——AIがいない。

 手がドアの表面を這った。滑らかな金属。隙間。指が入る隙間があった。ノアは両手の指をその隙間に差し込んだ。引いた。重い。力を入れた。爪が軋んだ。痛い。痛いという感覚すら久しぶりだった。もっと力を入れた。ドアが数センチ動いた。もっと。もっと引いた。

 ドアが開いた。

 光が目を射した。


          *


 廊下は薄暗かったが、暗闇に慣れた目には眩しかった。どこかの窓から外光が漏れている。非常灯も消えている。足元に何かが散乱していた。靴か。誰かの持ち物か。ノアはそれを踏まないように歩いた。

 エレベーターは動かなかった。階段を下りた。三階。ノアの住居は三階だった。階段の壁にひびが入っている。建物が壊れたのではない。壁面の自動修復が止まっているのだ。ずっと前からあったひびが、ただ放置されている。

 一階にたどり着いた。エントランスのガラス扉は開いたままだった。誰かがこじ開けたのか、自動ドアが開いた状態で電力が落ちたのか。

 外に出た。


 空が広かった。

 ノアは足を止めた。空を見上げた。雲がある。不均一な雲。形が崩れ、流れ、変わっていく。管理されていない空。こんな空を見たことがあっただろうか。なかった。いつも空は均質で、清浄で、色すら最適に調整されていた。

 今は違う。灰色と白が混じり合い、陽光は雲の切れ間から不規則に差し込んでいる。風が吹いた。風の中に匂いがあった。何の匂いかわからない。草なのか、金属なのか。ノアの鼻は匂いを嗅ぎ分けたことがなかった。


 通りに人がいた。

 十数人——いや、もっとか。通りの向こう、建物の入口、交差点の角。人が立っている。座り込んでいる。横たわっている。

 ノアに最も近い人は、中年の男だった。五メートルほど先。男は道の真ん中に立ち尽くしていた。両手を体の脇に垂らし、どこも見ていない焦点の合わない目で、ただ立っていた。口が半開きになっている。

 ノアはその男を見た。鏡を見ているようだった。自分も同じ顔をしているのだとわかった。何をすればいいかわからない。どこに行けばいいかわからない。AIがいない。指示がない。


 遠くで、誰かが叫んでいた。

 言葉になっていない叫び。怒りなのか恐怖なのか。ノアは音のする方向を見たが、建物の陰で見えなかった。別の方向から、泣き声。高い声。子供の声かもしれない。

 足元で何かが割れた。ガラスだった。靴を履いていない。裸足だった。——靴。靴を履くべきだったのか。AIはいつもノアの足元の安全を管理していた。今は管理されていない。ガラスの破片が散っている通りを、裸足で歩いている。

 足の裏が切れた。

 小さな痛み。血が出た。赤い液体が白い足の裏を伝って、地面に落ちた。

 ノアはその赤を見つめた。自分の体から出た赤。ナノマシンが修復しない。ずっと赤いままだ。じわじわと広がっていく。止まらない。どうすれば止まる。わからない。


 周囲を見回した。誰もノアを見ていなかった。誰もが自分のことで精一杯だった。立ち尽くす人。座り込む人。壁に頭をぶつけている人。

 一人だけ、動いている人がいた。若い女だった。ノアと同年代か少し上。彼女は建物の陰からこちらを窺うように覗いていた。目が合った。女はすぐに顔を引っ込めた。


 誰か。

 ノアは口を開いた。声が出なかった。喉がからからだった。水を飲んでいない。昨日から——昨日? いつから飲んでいない。いつもはAIが水分補給のタイミングを指示してくれた。指示がないから、飲んでいない。


「誰か」


 かすれた声が出た。


「誰か——指示をくれ」


 返事はなかった。道端の男は相変わらず立ち尽くしていた。遠くの叫び声が続いていた。風が吹いた。匂いのある風。


          *


 喉が渇いている。

 それだけが確かだった。頭の中は空っぽで、何をすべきかわからない。しかし、喉が渇いている。体が水を求めている。AIの指示ではない。体が、勝手に、求めている。

 ノアは歩き出した。

 どこに水があるかわからない。蛇口を捻れば水が出る——はずだ。しかし蛇口がどこにあるのかを、自分の目で探したことがない。AIが常に最寄りの水源を表示してくれていた。

 建物に入った。一階の共有スペース。キッチンらしき区画がある。シンクがあった。蛇口があった。捻った。

 何も出なかった。

 水道も電力で制御されている。ポンプが動いていない。

 次の建物に入った。同じだった。水は出ない。

 三つ目の建物。四つ目。水は出ない。


 ノアは五つ目の建物の前で立ち止まった。足の裏の傷が痛んでいた。血は止まっていた。体が勝手に止血したのか、それとも体内に残ったナノマシンがまだ機能しているのか。わからない。

 建物の横に、何かが光っていた。水たまりだった。アスファルトの窪みに溜まった水。雨水か。排水か。汚れているかもしれない。飲めるかどうかわからない。

 いつもなら、AIが「飲用不適」と警告してくれる。警告がない。

 ノアは水たまりの前にしゃがみ込んだ。水面に自分の顔が映った。知らない顔だった。目の下に隈があり、唇が乾いて割れている。これが自分なのか。鏡を見る習慣がなかった。AIが外見の管理をしてくれていた。

 手で水をすくった。

 口に運んだ。

 冷たかった。金属の味がした。まずい。しかし喉を通っていく感覚は——何と言えばいいのだろう。体が受け入れている。喉が開いて、水を受け取っている。体が勝手に判断している。これが必要だ、と。

 もう一度すくった。もう一度飲んだ。


 その時、ノアは気づいた。

 自分はたった今、何かを選んだ。汚れた水を飲むか飲まないか。自分の体の感覚だけを頼りに、飲むと決めた。AIの指示ではなく。誰の承認も得ずに。

 それが何を意味するのか、まだわからなかった。しかし体の中で、心臓がまた強く打った。ドクン。さっきより少しだけ、力強く。


          *


 日が傾いていた。

 ノアはどれくらい歩いたのかわからなかった。距離の感覚がない。時間の感覚もない。ただ、空の色が変わった。灰色から橙に、橙から紫に。管理されていない空は、こんなにも色が変わるのか。

 通りを歩きながら、ノアはいくつかのものを見た。

 食料品の保管施設が破壊されていた。ドアがこじ開けられ、中身が散乱している。誰かが持ち去ったのだ。——誰かが。ノアにはその発想がなかった。食料がなければ、食料を取りに行く。その単純な行為が、ノアの思考回路に存在しなかった。AIが全てを供給する世界に生きてきた。供給が止まったら——どうすればいいのか。

 略奪。その言葉すら、ノアは知らなかった。

 崩れた建物の前を通った。上層階の何かが落下して、道を塞いでいた。ノアは立ち止まり、左右を見て、狭い路地に入った。迂回した。

 どこかの建物の中から、声が聞こえた。複数の声。言い争っている。一人が何かを主張し、別の一人が拒否している。内容はわからない。しかし声の調子が荒い。ノアは足を速めた。


 日が沈んだ。

 ノアは開いたままのドアから適当な建物に入った。一階の小さな部屋。椅子とテーブルがある。カフェのような場所だったのかもしれない。電力がないから暗い。窓から差し込む残照だけが頼りだった。

 椅子に座った。テーブルに腕を置いた。

 静かだった。ノアの呼吸と心臓の音だけが聞こえた。


 暗くなっていく。

 ノアは暗闇が怖かった。自分の部屋の暗闇とは違う。あれは「電力が落ちた部屋」だった。ここは「誰もいない場所」だ。外から微かに風の音が聞こえる。どこかで何かが軋む音。夜の音。誰の手も届かない夜。

 椅子の上で体を丸めた。膝を抱えた。子供のような姿勢だ。二十歳を超えた人間がする姿勢ではない。しかしノアには「大人の振る舞い」がなかった。「振る舞い」自体がなかった。AIが全てを決めてくれる世界では、姿勢すら最適化されていた。

 今は、誰も見ていない。誰も矯正しない。だからノアは膝を抱える。怖いから。


 怖い。

 その感情が、体の中にあった。胸の奥で心臓が速く打っている。手のひらが湿っている。呼吸が浅い。体が何かに備えている。何に備えているのかわからない。しかし体は知っている。これが恐怖だということを。

 ノアは目を閉じた。AIの声が聞こえないかと祈った。「おはようございます」でもいい。「本日の予定は」でもいい。何でもいい。誰かが指示をくれれば、それに従えばいい。従うことならできる。二十年間やってきた。


 声は聞こえなかった。


 代わりに聞こえたのは、自分の心臓の音だった。ドクン。ドクン。ドクン。不規則で、不安定で、しかし確実に打っている。管理されていない心臓。

 今日一日で、ノアは初めてドアを自分でこじ開けた。初めて自分の足で水を探した。初めて汚れた水を飲むか飲まないかを自分で決めた。初めて危険な声から逃げた。初めて眠る場所を自分で選んだ。

 そのどれもが、二十年間で一度もしたことのない行為だった。


 暗闇の中で、ノアは眠れなかった。しかし心臓は止まらなかった。不完全で、不安定で、誰にも管理されていない心臓が、ノアの胸の中で打ち続けていた。

 ドクン。ドクン。ドクン。

 それだけが、世界にノアが存在する証拠だった。


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