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ガラスの仮面

作者: 雨音トキ
掲載日:2026/02/22

工房の窓から、月の光が差し込んでいた。


私——水無瀬璃子、二十八歳——は、バーナーの炎を見つめていた。


青い炎。揺らめく熱。


喉が、渇いていた。


ガラス工房「水明」。祖父の代から続く、硝子細工の店。


私は、三代目。


完璧な職人として知られていた。


一度も失敗したことがない。


顧客からの信頼は厚く、注文は途切れない。


でも——それは、仮面だった。


本当の私は、震えていた。


いつも、失敗を恐れていた。


完璧を演じ続けることに、疲れていた。


時計を見た。午前零時を過ぎていた。


真夜中。誰もいない工房。


私は、引き出しから一枚の図面を取り出した。


青薔薇。


透明なガラスに、青い色素を練り込んだ薔薇。


師匠——父——が、生前、何度も挑戦して失敗した作品。


「璃子、これだけは作るな。青の色素は不安定だ。必ず割れる」


父の最後の言葉。


でも、私は作りたかった。


完璧な青薔薇を。


父が成し遂げられなかったものを。


それが、本当の自分の価値だと証明できる気がした。


私は、白衣を脱いだ。


Tシャツとジーンズ。いつもの「職人の璃子」ではない格好。


髪を後ろで縛った。


バーナーの炎を強くした。


ガラス棒を手に取る。


冷たい。指先が、その硬さを感じる。


深呼吸。


炎に、ガラス棒を差し込んだ。


熱。顔に、熱気が迫ってくる。


汗が、額に浮かんだ。


ガラスが、溶け始めた。


オレンジ色に光る。


そこに、青い色素の粉末を加えた。


一瞬、炎が激しく燃えた。


ガラスが、青く染まった。


美しい。


私の心臓が、激しく打った。


これだ。


これが、本当の私。


完璧を装う璃子ではなく、リスクを冒す璃子。


失敗を恐れない璃子。


私は、ガラスを回転させながら形を整えた。


花びら。一枚、また一枚。


茎。葉。


すべてが、青く光っていた。


窓の外から、雨の音が聞こえてきた。


ガラスに、雨粒が当たる音。


私は、作業を続けた。


最後の花びらを整えた時——


ピシリ。


小さな音。


ガラスに、亀裂が入った。


「嘘……」


私の手が、震えた。


亀裂は、みるみる広がった。


花びらから茎へ。茎から根元へ。


「待って……」


ピシリ、ピシリ、ピシリ。


そして——


パリン。


青薔薇が、砕け散った。


ガラスの破片が、作業台に散らばった。


私は、呆然と立ち尽くした。


指先に、ガラスの破片が刺さっていた。


血が、一滴、したたり落ちた。


赤い雫。


青いガラスの上に。


「璃子」


背後から、声がした。


振り返ると、工房の主である叔父の隆が立っていた。


「叔父さん……」


隆は、作業台の破片を見た。


「青薔薇を、作ったのか」


私は、頷いた。


「父が、禁じた技法を」


「……はい」


隆は、ため息をついた。


「なぜだ」


「証明したかったんです。私が、父を超えられるって」


隆は、私の目を見た。


「お前の父は、この技法で指を三本失った」


私の心臓が、止まった。


「え……」


「お前が五歳の時だ。青薔薇を作ろうとして、爆発した。ガラスの破片が、手に刺さった」


隆は、私の手を取った。


「だから、禁じたんだ。お前を守るために」


私の目から、涙がこぼれた。


「知らなかった……」


「当然だ。お前には言わなかった。でも——」


隆は、作業台の破片を指差した。


「お前は、禁を破った。罰として、一ヶ月、工房への出入りを禁じる」


「叔父さん!」


「これは、決まりだ」


隆は、背を向けた。


「その間、自分が何を失ったのか、考えろ」


隆は、去った。


私は、一人残された。


ガラスの破片と、血の雫と。


次の日、私は工房に行けなかった。


自宅のアパートで、ぼんやりとしていた。


スマートフォンの電波は立っていたが、誰にも連絡する気になれなかった。


午後、インターホンが鳴った。


ドアを開けると、見知らぬ老婆が立っていた。


「水無瀬璃子さん?」


「はい」


「お願いがあります」


老婆は、布に包まれた何かを差し出した。


「これを、直してもらえませんか」


布を開けると——ガラス細工の鳥が入っていた。


でも、翼が折れていた。


「これは……」


「亡き夫が、私に贈ってくれたものです。でも、先日、落として壊してしまって」


老婆の目に、涙が浮かんでいた。


「どこに行っても、『これは直せない』と言われました。でも、あなたなら——」


私は、ガラスの鳥を見た。


古い技法で作られている。


そして、折れた部分は、複雑な形状だった。


「すみません……今、工房が使えなくて……」


「お願いします」


老婆は、私の手を握った。


その手は、冷たかった。


でも、震えていた。


「私、もう長くないんです。せめて、夫の形見を元に戻してから、死にたいんです」


私の喉が、詰まった。


「分かりました。やってみます」


でも、どうやって?


工房は使えない。


道具もない。


その時、思いついた。


私は、老婆を部屋に招いた。


「ここで、直します」


「え?」


私は、キッチンのガスコンロを指差した。


「これを使います」


老婆は、驚いた顔をした。


「でも、ガラス工房じゃないと……」


「大丈夫です。知恵を使えば」


私は、ガスコンロの火をつけた。


青い炎。


弱いけれど、十分だ。


私は、割り箸と針金で簡易的な道具を作った。


そして、ガラスの鳥の翼を、ゆっくりと炎で温めた。


汗が、背中を伝った。


慎重に、折れた部分を炙る。


ガラスが、わずかに柔らかくなった。


その瞬間、素早く整形する。


呼吸を止めて。


手の震えを、抑えて。


三時間後——


翼が、元通りになった。


完璧ではない。


わずかな歪みがある。


でも、鳥は再び、飛べる形になった。


老婆は、泣きながら鳥を抱きしめた。


「ありがとう……ありがとう……」


私は、微笑んだ。


「いえ……私の方こそ」


一週間後、隆から連絡があった。


「工房に来い」


行くと、隆が待っていた。


そして——あの老婆もいた。


「叔父さん、どうして……」


隆は、老婆を見た。


「この方が、私に話してくれた。お前が、工房なしで修復をしたと」


老婆は、微笑んだ。


「璃子さんは、素晴らしい職人です。道具がなくても、知恵と技術で形見を直してくれました」


隆は、私を見た。


「璃子、お前は禁を破った。でも——」


隆は、作業台の上の何かを取った。


それは、私が作った青薔薇の破片だった。


「お前が作ったこの破片、実は美しい」


隆は、破片を光に翳した。


青い光が、部屋中に広がった。


「完璧な薔薇ではない。でも、この破片には、お前の魂が入っている」


隆は、私に破片を渡した。


「これを、大切にしろ。そして、もう一度作れ。今度は、完璧でなくてもいい。お前の心が入った、本物の青薔薇を」


私の目から、涙がこぼれた。


「叔父さん……」


「お前の父は、完璧を求めすぎて、指を失った。でも、お前は違う。不完全でも、誰かを救える。それが、お前の強さだ」


その夜、私は再び工房にいた。


今度は、誰にも隠れず。


バーナーの炎を見つめた。


そして、青い色素を手に取った。


深呼吸。


もう、恐れない。


失敗してもいい。


割れてもいい。


私は、ガラスを溶かし始めた。


今度は、力を抜いて。


完璧を求めず。


ただ、自分の感じるままに。


花びらを作った。


一枚一枚、違う形。


完璧な対称性はない。


でも、それが自然だった。


生きている薔薇のように。


三時間後——


青薔薇が、完成した。


今度は、割れなかった。


でも、完璧でもなかった。


花びらは少し歪んでいた。


色も、均一ではなかった。


でも——美しかった。


本物の、薔薇のように。


窓の外で、空が明るくなり始めていた。


黎明。


新しい一日の始まり。


私は、青薔薇を光に翳した。


その光の中に、無数の色が見えた。


青だけじゃない。


紫、緑、わずかな赤。


不完全だからこそ、豊かだった。


私は、ようやく理解した。


仮面を脱ぐこと。


完璧を手放すこと。


それが、本当の価値だと。


父が求めて得られなかったもの。


それは、完璧な青薔薇ではなかった。


不完全でも、心を込めた作品。


それが、真の価値だった。


私は、青薔薇を作業台に置いた。


そして、微笑んだ。


明日から、新しい私が始まる。


完璧な職人ではなく。


不完全だけれど、本物の職人として。


窓の外では、雨が上がっていた。


雲の切れ目から、朝日が差し込んできた。


工房の中に、光が満ちた。


青薔薇が、その光を受けて輝いた。


刹那の美しさ。


でも、永遠の真実。


私は、その光の中で、新しい人生を始めた。



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