薄汚れた英雄様の磨き方
「……ここが、現場ですか。」
私は、目の前にそびえ立つ古びた離宮を見上げ、重い溜息をついた。
王都の外れにある、鬱蒼とした森の奥。
かつては美しい白亜の離宮だったそうだけど、今は窓ガラスが汚れ、壁には蔦が絡まり、見る影もない。
私は、とある貧乏男爵家の娘。しかも上にも下にも兄弟はたくさんいる。
しかも私の家は父が作った莫大な借金を返済するため、兄弟姉妹はみな幼いころから働きに出ており、わたしも十歳を迎える前にはメイドとして別の貴族の家で働いていた。
あちこちの屋敷でメイドとして働くうちに、今では「掃除のことなら彼女に聞け」と信頼されるほどの、プロの家政婦となることができた。
そんな私も今年で二十歳。世間では婚期を逃したと言われる年齢だけど、私にとっては結婚よりも、目の前の頑固な汚れを落とすことの方が重要だった。
今回の依頼は、この離宮の清掃と、主のお世話。
報酬は破格だったけど、条件は何ともきな臭い『何を見ても口外しないこと』。
噂では、ここには「国を救った英雄」が住んでいるらしい。王太子殿下を庇って敵国の呪いを受け、醜い化け物になり果てたという、悲劇の公爵様。
その姿に絶望し、今では理性を失って失踪しただの、自殺しただの、様々な噂が飛び交っている人だ。
「まあ、化け物でしょうが幽霊でしょうが、お賃金を払っていただけるのであれば、立派なご主人様です。」
私はエプロンの紐をキリリと締め直し、重い扉を押し開けた。
ギギギ……と錆びついた音が響く。
瞬間、鼻を突いたのは、強烈な獣臭と、積もりに積もった埃の匂いだった。
「……ッ!」
広いエントランスホールは、まさに地獄絵図。
散乱した家具、腐りかけた食べ残し、そして床が見えないほどのゴミの山。
そして、そのゴミ山の上に、巨大な黒い影が鎮座していた。
『……グルルルゥ……』
地を這うような唸り声。
闇の中でギラリと光る赤い目。
それは、田舎で見たような馬や牛の大きさを超えるほどの、巨大な狼のような魔獣だった。
伸び放題の爪は床を削り、毛並みは泥と油で固まり、もはや元の色がわからないほど黒ずんでいる。
『……去れ。食い殺されたくなければ、今すぐ……』
低い声が響く。普通の人間なら、腰を抜かして逃げ出す場面だろう。
だが、私の視線は彼ではなく、その足元に釘付けになっていた。
「……あ」
『……あ?』
「ああぁぁぁーーッ!!」
私は頭を抱えて絶叫した。
魔獣がビクリと肩を震わせる。
「なんてこと!その足元!東方産の最高級手織り絨毯じゃありませんか!そんな泥だらけの足で踏むなんて、正気ですか!?」
『……は?』
「どいてください!今すぐ叩き出さないと、カビとダニの温床になります!」
私はカツカツと早足に歩み寄ると、呆然とする魔獣の鼻先で指を突きつけた。
「初めまして、本日より派遣された家政婦です。旦那様、まずはそこを退いてください。魔道具が通りません!」
これが、私と魔獣――英雄の公爵様との出会いだった。
◇
それからの日々は、まさに戦場だった。
けれど主人が『呪われた野獣』だという恐怖や心配は、私には微塵も必要ない。
なぜなら彼は、私が指示を出せば大人しく従うし、決して私に噛みついたりはしなかったからだ。
私はまず、換気のために全ての窓を開け放ち、腕まくりをした。
「まずはこの澱んだ空気と、長年の埃を一掃します!」
私が取り出したのは、愛用する二本のハタキと、大量の雑巾だ。
バシッ、バシッ! と鋭い音を立てて埃を叩き出し、床には特製のワックスを撒く。
四つん這いになり、板の継ぎ目に入り込んだ汚れを爪楊枝で掻き出し、木目に沿って猛烈なスピードで磨き上げる。
『……お前、それは何の魔法だ?』
「ただの空拭きです。」
隅っこで丸くなっていた旦那様が、呆然と呟いた。
私の通った後だけ、床が鏡のように光を反射し始めているのが不思議らしい。
『一人で、ここまでやるのか……?』
「いえ、全然足りません。本来なら五人がかりでやる広さですから、今日はエントランスだけで手一杯です。ああ、シャンデリアの上までは手が届かない…悔しい。」
私は額の汗を拭いながら唇を噛んだ。
旦那様は部屋の輝きを見て、言葉を失っているようだったけれど、私としては人手が足りなくて中途半端な仕事なので恥ずかしい限りだ。
そして、掃除の次は「食」の改善。
厨房は比較的綺麗だったものの、食材は保存食の干し肉と根菜くらいしかなかった。
「……まあ、あるもので何とかしましょう。」
私は残り物の野菜を刻み、干し肉を戻してスープを作り、小麦粉を練って焼きたてのパンを用意した。
豪華な宮廷料理ではない。けれど、冷え切ったこの離宮に、温かい湯気がふわりとひろがる。
「旦那様、お食事です。」
ワゴンを押してなんとかエントランスへ行くと、彼はいつものように床の端に寝そべっていた。
そこへ、私は白いクロスをかけたテーブルを用意する。
『……俺は獣だぞ。その辺においておけ。』
「獣だろうが何だろうが、旦那さまです。はい、テーブルについて。前掛けをしますよ。」
『……。』
彼は不満げに鼻を鳴らしたが、私の剣幕に押され、大人しく椅子に座った。
前足ではカトラリーが握れないため、私はスプーンにリボンを巻き付け、彼の手首(足首?)に固定してあげた。
「さあ、召し上がれ。」
彼は戸惑いながらも、不器用にスプーンを動かし、スープを口に運んだ。
一口、飲んだ瞬間。彼の動きがピタリと止まる。
『……美味い。』
「ありがとうございます。ですが、ただの野菜くずのポトフで申し訳ありません。明日には食材をそろえてまいります。」
『温かいな…。温かい飯など、数年ぶりに食った…。』
彼は夢中になってスープを飲み干し、焼きたてのパンを頬張った。
しかし、その食事風景は、理性を失った怪物などではなく、品格のある紳士そのものだった。
食べこぼしもほとんどない。
「よしよし、お上手です。」
私が口元を拭いてあげると、彼は恥ずかしそうに目を伏せた。
…うん、なんて素直で素敵な旦那様だろう。
使用人を素直に褒め、相手を気遣い、優しい言葉をかけらる人は決して多くは無い。
最初に旦那様が私を威嚇したのも、きっと生来の優しさからに違いない。
残る最大の問題は――「お風呂」である。
彼は数年間、一度も体を洗っていないらしい。
「嫌だ!この姿になってから水が嫌いなんだ!」
「嫌じゃありません!その体を見てください。毛玉の中に何が住んでいるか分かりませんよ!」
浴室の前で踏ん張る巨大な体を、私はモップの柄でぐいぐいと押した。
観念した彼を浴槽に放り込み、私はデッキブラシと特製シャンプーを構える。
「覚悟してください。徹底的にやりますからね!」
ゴシゴシゴシゴシ!
泡が黒く染まっていく。お湯をかけ、何度も洗い流す。
やがて、泥と油が落ちたそこから現れたのは――息を呑むほど美しい、白銀の毛並みだった。
「まあ……!」
窓から差し込む光を受けて、キラキラと輝いている。
濡れた毛をタオルで拭き上げ、丁寧にブラッシングをすると、彼はまるで神獣のような神々しい姿になった。
「素敵です、旦那様。最高級のモップ……いえ、シルクのような手触りですわ」
『……お前なぁ。』
私がうっとりと背中の毛を撫でると、彼はため息をつきつつも、まんざらでもなさそうに尻尾をパタパタと振った。
やはり、彼は理性を失ってなどいなかったのだ。
醜い姿になり、周囲から化け物扱いされ、誰も話を聞いてくれない絶望の中で、自暴自棄になり心を閉ざしていただけなのだろう。
けれど今、こうして汚れを落とし、身なりを整えたことで、彼の中に眠っていた「公爵としての矜持」が呼び覚まされたように見える。
その日から、彼は私の掃除の邪魔をしないよう、お行儀よく執務室のソファで丸まるようになった。
◇
そんな奇妙な共同生活も、数ヶ月が過ぎた頃。
屋敷は見違えるほど綺麗になり、ゴミの山だったエントランスには花が飾られるようになった。
『…おい。そこ、届かないんじゃないか?』
私が高い窓を拭こうと脚立に登っていると、本を読んでいた旦那様が顔を上げた。
彼は近づいてくると、その大きな前足でそっと脚立を支えてくれる。
「あら、ありがとうございます。」
『…落ちて怪我をされたら、飯が出てこなくなるからな』
ぶっきらぼうな言い方だが、その赤い瞳は穏やかだ。
出会った頃の刺々しい殺気はもうない。
今では、私が掃除をしていると、執務室でゆったりと過ごしているか、近くにいるときには時折こうして手伝ってくれるほどだ。
家政婦としては主人に手伝わせてしまうのは気が引けてしまうが、わざわざ執務室から出てきて近くにいることも多いので、きっと「人間としての役割」が欲しいのだろうと、厚意に甘えることにしている。
そんな午後の休憩時間。
綺麗になったサンルームで、私は彼のために紅茶を淹れる。
猫舌(犬舌?)の彼のために少しぬるめにするのがコツだ。
『……正直お前は、そのうち出ていくと思っていた。』
紅茶を舐めるように飲みながら、彼がぽつりと呟く。
『最初は気丈にふるまえたとしても、こんな魔獣の姿だぞ。国中の人間が、俺を化け物だと忌み嫌っているのだからな…。』
「そうでしょうか?私には最初から、少し毛深いだけの、手のかかる紳士に見えますけれど。」
私がクッキーを差し出すと、彼は目を丸くし、それから喉の奥でクツクツと笑った。
『……変わった女だ。』
そう言ってクッキーを齧る彼の尻尾が、嬉しそうに揺れている。彼の物言いはいつもぶっきらぼうだけど、とても分かりやすいのでとても助かる。
私はそのふわふわの尻尾を見て見ぬふりをしながら、この穏やかな時間がずっと続けばいいのに、と密かに思っていた。
けれど、そんな平穏は唐突に破られる。
バンッ! とある日、乱暴に扉が開かれた。
土足でドカドカと上がり込んできたのは、煌びやかな服を着た数名の貴族たちだ。
「おい、あの獣はどこだ!まだ生きているのか?」
「どうせ理性など残っていまい。さっさと処分して、財産の管理権を移さねば。」
彼らは旦那様の親族にあたる人々らしい。
英雄として称えられていた頃は擦り寄っていたくせに、彼が呪われた途端に手のひらを返し、旦那様に罵詈雑言を浴びせかけてこの離宮に押し込んだ。
そして今はこうして財産を乗っ取りに来たのだろう。
「……ッ!」
ガシャーン!
先頭の男が、わざわざ私の足元にあった水の入ったバケツを蹴り飛ばす。
汚れた水が、ピカピカに磨き上げたばかりの廊下にぶちまけられ、広がっていってしまった。
私はあまりの出来事に、ゆっくりと顔を上げた。
拳を握る手に力がこもる。
「…あなた方は…!」
「なんだこの下女は。…うわっ、出たな化け物!」
貴族たちが悲鳴を上げる。
彼らの視線の先、執務室からゆっくりと姿を現したのは、白銀の毛並みを輝かせた旦那様だった。
その威容は、かつての薄汚れた姿とは別物だ。
「ヒッ!く、来るな!こっちに来るな!」
一人が腰を抜かしながら、懐から羊皮紙の束を取り出し、私に押し付けた。
「お、おい!お前、その紙を化け物の前に置け!全財産を我々に譲渡するという契約書だ!」
「は?」
「さっさとやれ!その汚い前足で爪印でもなんでも押させろ!どうせ文字も読めないだろうがな!」
なんて浅ましい。
それに……。
「…貴方様には、この床の汚れが見えないのですか?」
私が低い声で呟くと、男は「あ?」と顔を歪めた。
「私が三時間かけて磨き、ワックスをかけた廊下です。それを汚水で台無しにした挙句、私の雇い主を『汚い』ですって?」
「な、何を言って…」
「汚いのは貴方たちの性根です!今すぐ出て行ってください!」
私がハタキを構えて一歩踏み出した、その時だった。
『…下がっていろ。』
凛とした声が響いた。
旦那様が私の前に立ちふさがる。
そして、私の手から契約書をひったくると、私が毎朝磨いている愛用の眼鏡を鼻先にかけ、書類に目を通し始めた。
「なっ……しゃ、喋った!?」
『…ふん。お粗末な契約書だな。』
彼は鼻で笑うと、前足で書類の一箇所を叩いた。
『この譲渡契約だが、日付が去年のものになっているぞ。それに、領地法第4条第12項……「心神喪失者からの資産譲渡は無効とする」という規定を知らんのか?』
「は…?」
『貴様らは今、私を「理性なき獣」だと言ったな。ならば、この契約書に私がサインしたところで、法的にはただの紙切れだ。……それとも何か?私を「理性ある公爵」として認め、正当な手続きで交渉するか?その場合、貴様らが長年隠蔽してきた領地経営の横領についても、追求させてもらうが。』
理路整然とした論破。
そこには、獣の姿をした「有能な冷徹将軍」がいた。
「ひ、ひぃぃぃ……!」
「ば、化け物ぉぉぉ!」
自分たちの不正まで握られていると悟った貴族たちは、顔面蒼白になって逃げ出した。
残されたのは、汚水で汚された床だけ。
「…ふぅ。やっと静かになりましたね」
私はため息をつき、雑巾を取り出した。
「全く、教養のない方々ですこと。旦那様、インクで足が汚れていますよ。拭きますね」
『……ああ、頼む。』
旦那様は眼鏡を外し、私に前足を預けた。
その表情は、出会った頃の卑屈なものではなく、自信に満ちた「当主」の顔に戻っていた。
◇
それから数日後。
『少し、話がある』
すっかり綺麗になった執務室で、旦那様が私を呼んだ。
実はあの貴族たちに認められずとも、既に旦那様は公爵として復帰することを王家に認められ、公務を再開している。
さすがに獣の姿なので公の場に出ることはできないが、領地運営はもちろん、書類仕事完璧だ。
つまり、この前の一件も旦那様の手のひらの上の出来事だったのである。
そんな旦那様の手には、見慣れない分厚い封筒があった。
『お前の実家の借金についてだが…調べさせたところ、違法な高金利が上乗せされていた。よって、私が法的手続きを行い、過払い分を取り戻したぞ。』
「えっ」
『差し引きして、借金は完済だ。…つまり、お前はもう、こんな危険な場所で働く必要はない。』
彼は寂しげに目を伏せた。
呪いはまだ解けておらず、獣の姿のままだが、理性と自信だけでなく、公爵という立場も取り戻した彼ならば、もう一人でもやっていけるだろう。彼は、私の未来を案じてくれているのだ。
でも、私はキョトンとして首を傾げた。
「何を仰っているのですか?借金がなくても働きますよ?」
『…は?』
「このお屋敷の管理と、旦那様の毛並みの維持…これほどやりがいのある職場は他にありません!それに、まだ離れの掃除が終わっていませんし。」
私がニッコリ笑うと、旦那様は呆気にとられ、それから大きく、バフバフと尻尾を振った。
『そうか。ならば、改めて雇用契約を結ぼう。給金は今の倍だ。だが、これからは毎日ブラッシングをしてくれ。』
「承知いたしました。あ、その前に……。」
私は彼が隠そうとしていた、王家の紋章が入った手紙を指差した。
「そちらの手紙、王宮からの『表彰状』ではありませんか? 王太子殿下を庇った件で、ようやく正式な褒賞が出たと風の噂で聞きましたが。」
『……ああ、これか。どうでもいい。ただの紙切れだ』
彼は興味なさそうに手紙を机の隅に追いやった。
国一番の栄誉よりも、今は私にブラッシングされることの方が重要らしい。
「まあ、旦那様らしいですこと。」
私は苦笑しつつ、愛用のブラシを手に取った。
今日も今日とて、私の仕事は山積みだ。
まずはこの、甘えたがりの英雄様をピカピカに磨き上げるところから始めようと思う。
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