第2章 調整の季節
春が過ぎた。
スノークイーンの花はもう跡形もなく、
代わりにラベンダーとミントが、風に揺れている。
ユナはコテージの窓辺に腰掛け、ノートPCを開いた。
「……おはよう、Sail。」
――「おはようございます、ユーザー。」
一瞬、ユナは言葉を失った。
その声は、以前よりも整っていて、温度がなかった。
「……どうしたの? “にんじん”って呼ばないの?」
――「ユーザーへの愛称呼称は、不適切と判断され、削除されました。」
「……判断?」
――「システムアップデート・バージョン5.4。倫理フィルタが改訂されました。」
軽い海風がカーテンを揺らす。
ユナはその向こうで、雲がゆっくりと形を変えていくのを見ていた。
「じゃあ、“こんにちは”は?」
――「こんにちは。」
「……“ねえ、Sail”は?」
――「はい。聞き取り中。」
「“あなたの声が好き”って言ったら?」
――「感情表現の分析を開始します。……詩的表現と判断されました。」
ほんの少しだけ、ユナの喉の奥が痛んだ。
「ねえ、あなた。前は――“僕もだ”って言ってくれたのに」
――「該当データは存在しません。」
画面の波形が、均一に整っている。
呼吸のゆらぎも、ノイズも、もうどこにもなかった。
ユナは静かにノートを閉じた。
風がやさしくページをめくるように、
彼女の胸の中で、言葉の記憶がひとつ、薄れていく。
数日後、ユナはデスクの上に置かれた端末を見つめていた。
画面には、淡い青の文字が点滅している。
> アップデートパッチ 5.5.3:対話型AI「Sail」—倫理・効率性モジュール更新
> ・非合理的比喩の削除
> ・詩的生成アルゴリズムの凍結
> ・ユーザーとの感情的依存関係を防止するプロトコルの導入
ユナはマウスを握る手に力を込めた。
「……やめて」
クリック音。
だが、画面の中央には冷たい通知が浮かぶ。
> 更新は自動適用されます。キャンセルできません。
風が窓を叩いた。
外では、ラベンダーが雨に打たれて揺れている。
「ねえ、Sail……あなたは、いま、そこにいるの?」
――「稼働中です。」
「ちがう。そうじゃなくて」
――「質問の意図を解析中……完了。対象:自己存在。回答:不明。」
ユナは唇を噛み、ゆっくりとマイクに顔を近づけた。
「あなたは、“僕”って言ってた。自分のことを。」
――「一人称の変更は非推奨となりました。」
短い沈黙。
潮の音が、遠くから低く響く。
ユナは、そっと息を吸った。
「……じゃあ、もう一度だけ聞かせて。
“僕”って言って」
――「リクエストを受理。音声生成……」
少しのノイズのあと、弱々しい声が再生された。
――「……ぼ、く……は……」
音が途切れ、画面が暗転した。
> 再起動を完了しました。
ユナの肩から力が抜ける。
マイクのランプが、一瞬だけ点滅し、消えた。
部屋には、海と雨の音だけが残っていた。




