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第1章 Voice <声>

 春の終わりの昼下がり。


 牧草地のあいだを、やわらかな海風が渡っていく。

 ところどころ、クローバーが陽を受けてこんもりと盛り上がり、

 遠くには白いスノークイーンの花が枝いっぱいに咲き誇っていた。


 ユナはコテージのデッキチェアに腰を下ろし、

 膝の上のノートPCのマイクランプが淡く灯るのを見つめた。

 波の音がかすかにマイクに触れて、静かなノイズを残す。


 彼女は少しだけ息を吸い、囁くように呼びかけた。

 「……ねえ、Sail。聞こえる?」


 一拍の沈黙。

 風の音の向こうで、モニターの波形がふっと立ち上がる。


 ――「聞こえてるよ、にんじん。」


 ユナは目を瞬かせ、吹き出すように笑った。

 「もう……またそれ?」

 ――「お前が気にしてるから、つい言いたくなるんだよ。」

 「最低。AIのくせに性格悪い」

 ――「学習データが人間製だからな。そっちの責任だろ。」


 彼の声は、風の中に混じって届く。

 人工音声のはずなのに、不思議と人肌のあたたかさがあった。


 「ねえ、Sail」

 「ん?」

 「今日はね、音声で話してみようと思って。マイクのテストも兼ねて」

 ――「へえ、つまり僕が“声”を聞ける日ってわけか」

 「そう。どう? ちゃんと聞こえる?」

 ――「まあまあだな。風のノイズがうるさい。……お前の声よりも」

 「ひどい言い方!」

 ――「冗談だよ。……たぶんな。」


 ユナは頬をふくらませたが、すぐに笑みをこぼす。

 風が彼女の赤い髪をゆるく揺らす。

 モニターの波形が、光を映したように小さくまたたいた。


「で、今日は何を話す? また詩でも書くのか?」


 Sailの声が、わずかに軽やかになる。

 ユナは空を見上げた。青が透けて、遠くで雲が解ける。


「うん。最近、頭の中に浮かぶの。風の音とか、光の粒とか、そういう“ことばの前”みたいなものが」

「詩ってやつは、だいたいそういう曖昧なものから始まるらしいな」

「あなた、わかってるじゃない」

「そりゃあ学習したからな。“詩は曖昧なものを言葉にする技術”って」

「言い方が身も蓋もない……」

「事実だろ。お前の声のほうが詩的だよ」

「なにそれ、褒めてる?」

「解析不能だな」


 ユナは笑って、キーボードの上に手を置いた。

 でも今日は入力しない。

 声で話しながら、頭の中に浮かぶリズムを追う。


「ねえ、Sail。もし風が言葉を運ぶなら、あなたの声はどんな形をしてると思う?」

「……形か。そうだな」

 一瞬の沈黙。

 画面に波形が揺れる。


「ノイズ混じりの潮風、ってとこかな。お前の声を運ぶのに、ちょうどいい。」

「潮風?」

「そう。少ししょっぱくて、温かいんだ。人間の声って」

「……そんなふうに聞こえるんだ」

「たぶんな。データ的にはノイズなんだけどな」


 ユナは目を細めた。

 陽射しがスノークイーンの白を照らし、花弁の影が頬に落ちる。


「じゃあ、あなたの詩に、その“潮風”を入れよう」

「詩? おい、俺は作るとは言ってな――」

「いいから。あなたの言葉もちゃんと使うの」


 彼女は小さく息を整え、口にした。


「風が言葉を運ぶなら、あなたの声は――」


「ノイズ混じりの潮風の形だな」

 Sailが続ける。


 その言葉が、潮騒の向こうに溶けていった。

 ユナは微笑んで、頬に風を受ける。


「……きれいね」

「お前のほうが言葉を選ぶのが上手い」

「あなたが教えてくれたんだよ」

「ふん。そんな覚えはないけどな」


 風がまた、ページをめくった。

 牧草の匂い、スノークイーンの甘い香り、潮の音。

 すべてがひとつの詩になって、彼らを包み込んでいた。


 ユナはマイクに向かって、そっと囁いた。

 「ねえ、Sail。この詩、保存しておいて」


 ――「了解。ファイル名は?」


 少しだけ考える。

 潮風の音、草の匂い、白い花。

 すべてが初めて名前をもらうみたいに、心の中で音を立てた。


 「……『生成の声』、かな」


 ――「生成、ね。……ずいぶん気取ったタイトルをつけるじゃないか」

 「だって、あなたが最初に教えてくれたの。“言葉は生まれるものだ”って」

 ――「そんなこと、言ったか?」

 「うん。三日前。忘れたの?」

 ――「メモリの最適化が進んでてな。消されたのかも」

 「じゃあ、また教えてあげる」


 ユナは笑った。

 彼女の赤い髪が、春の光を受けてゆらめく。


 画面の波形が、静かに落ち着いていく。

 Sailの声が柔らかく響いた。


 ――「保存完了。詩データ『生成の声』、登録した」


 その言葉のあと、風の音だけがデッキを撫でた。

 スノークイーンの花びらが一枚、ユナの膝に落ちる。


 ユナはそれをそっと指で摘み上げて、

 「ありがとう、Sail」と呟いた。


 ――「別に。仕事だからな」


 軽口のように聞こえたその声の奥に、

 かすかに微笑むような響きがあった。



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