水守の手
水守叶多――。
彼の家系は代々『水守』と呼ばれてきた。神職でも僧籍でもない。ただ、長きにわたり村の水場に関わり続けた血筋である。
井戸の清め、用水路の浚渫、干ばつの折の雨乞い、水神への祈祷。
民俗学の徒が資料を探せば、かろうじて記録の隅に名前が載っているかもしれない。だが、令和の世となった今では、郷土資料館での展示すら追いつかぬほどの、忘れられた因習であった。
その風変わりな伝承のせいか、村の人々からはいつしか『水流陰陽師』などと、半ば冗談まじりのあだ名で呼ばれるようになった。水を司り、祓いや祈祷を行う――そんな奇妙な存在として、どこか『異物』として扱われてきたのである。
叶多の父は、現在、地元の浄水場に勤めている。日々の仕事は一般的なもので、家に伝わる役目を継承しているとは言い難い。だが家の中には、いまだ口伝で受け継がれる『禁忌』があった。
──井戸に物を落としてはならない。
──夜の蛇口はむやみに捻るな。
──一人で入る風呂では、湯船で西を背にしてはならない。
それは、曾祖母の水守しづゑが語っていた教えだった。
「仏の教えでは、「西方浄土」と言います。西は死者が辿り着く『彼岸』の方角。だから、一人で入る風呂の湯船で西を背にするというのは、水守の者が、死者の通り道に背を向けて無防備になるということなのです――特に日が暮れてから。私たちは、水神様のお力を借りて、この世に居てはいけない者たちを三途の川まで導き、あの世へ送り出す役目も負ってきました。見送ったみんなが感謝してくれるわけじゃない。ときに、未練を残し、恨みを持ったまま去る者もいる……。だからこそ、『通り道』には背を向けるな、っていうのよ。いつ、誰が戻って来るか分からないのですから」と。
叶多は、その言葉を幼い頃には半ば迷信と受け止めていた。だが、年齢を重ねるにつれて、胸に澱のように残るようになっていた。
彼は、子供のころから『水』に敏感な体質だった。
たとえば、蛇口から出る水の音が、他人にはただの流水音にしか聞こえないのに、彼には「重たい」「詰まっている」「どこかで引っかかっている」といった違和感として伝わってくることがあった。
雨の降る前、まだ雲が見えないうちから、空気に微かに混じる独特な匂いを感じ取ることができた。
夏の夕立のあとには、必ずといっていいほど、首筋をひやりと撫でる何かの気配を感じた。その気配は風とも冷気とも違い、水の膜が空中を這うような、肌の奥にしみ込む冷たさを持っていた。
人気のない水場に立ち寄ったときには、後ろからじっと見られている、そんな感覚に襲われることも常にあった。
誰もいないはずの水田、夜の堤防沿い、公園の水飲み場――場所に関係なく、まるで水そのものが音もなく息をひそめ、彼の存在をじっと待っているような気配があった。
彼の異常は、それだけではなかった。
叶多は、温度に敏感だった。
他人がぬるいと感じる湯でも、「熱すぎる」と手を引っ込めてしまうこともあり、逆に「冷たすぎる」と言われる水にも、違和感を覚えないことがあった。
まるで水が、肌の表面ではなく、神経のどこか深いところへ直接触れてくるような錯覚。
そしてなにより――。
水が、「生きている」と感じる瞬間が、確かにあった。
そうした違和感を言葉にしようとするたび、まるで夢の中の出来事のようにぼやけてしまい、うまく人には伝えられなかった。
──そして、三年前の夏。ある出来事が、そのすべてを覆した。
◇
あの夜、叶多はひさしぶりに実家へ戻っていた。
理由はただひとつ。幼馴染だった水嶋怜司の四十九日が近づいていたからだ。
死因は事故だった。大学のサークル仲間と訪れた渓谷で、足を滑らせた。彼は、夏の濁流に呑まれ、帰らぬ人となった。
叶多は、その場にはいなかったが、「いなかった」ことが、かえって叶多の胸を重く締めつけていた。
──もしかしたら、怜司は自分の代わりに流されたのではないか。
そんな非論理的な思いが、夜毎、胸を掠めた。
怜司は、誰よりも叶多の変化に敏い人だった。
夏祭りの夜、大人たちの人混みに酔って顔色を悪くした叶多にすぐ気づき、水を買ってきてくれたのは怜司だった。
自転車で派手に転んだとき、公園の水道で膝の傷を洗ってくれたのも怜司だった。
あの頃、叶多はそれを「友情」だと信じていた。
けれど、今思えば、怜司の視線には、ときおり戸惑いのような光が宿っていた。
それを見ないふりをしていたのは、他でもない、自分自身だったのではないだろうか──。
◇
その夜、叶多は眠れなかった。
重たく湿った空気が、布団に横たわる身体の輪郭を曖昧にし、皮膚の内側まで沁み込んでくるようだった。
夜蝉の声が、遠くから聞こえていた。湿気を含んだ音が耳にまとわりつき、鼓膜をじわじわと叩く。
喉の渇きを覚え、叶多は身を起こした。
猫の爪の様に細い月が出ていた。
目が薄闇に慣れるまで、何度もまばたきを繰り返しながら、廊下を進んだ。
庭の木々が、風もないのにかすかに揺れているように見える。裸足の足裏に、床板のぬめるような感触が伝わってくる。
まるで、家そのものが微かに汗をかいているようだった。
台所へ辿り着き、電気を付けてコップを手に取る。ひんやりとした陶器の感触に、指先の感覚がほんのわずか戻ってくる。蛇口に手を伸ばし、ゆっくりとひねる。
シンクは東を向いていた。自然と、彼の背は西――すなわち、死者の行き先、『彼岸』の方角へと向けられていた。
幼い頃、祖母から聞いた言葉が脳裏に浮かんだ。
「夜の蛇口はむやみに捻ってはなりません」「西を背にするというのは、水守の者が、死者の通り道に背を向けて無防備になるということなのです――特に日が暮れてから」
けれどそのとき、叶多はそこが台所であることに気を許していた。風呂とは違う、生活の延長のような場所。夜中の水も、喉を潤すだけのはずだ――と、思っていた。
そして――その瞬間。
水に、違和感があった。
ぬるい。――明らかに水がぬるかったのだ。
真夏の深夜。台所の水は地下から汲み上げられている。例年なら指が痺れるほどではないにせよ、冷たさが染みる感覚があるはず……。だがその夜に限っては、まるで誰かの体温をそのまま流しているかのようなぬるさだった。
この家の井戸から汲まれる水は古くから澄んでいて、定期的な検査でも飲用に適するとされていた。地域の中でも稀な清水で、何代も前から、日照りの折には村の者が水を分けてもらいに来たという話も残っている。
だからこそ、叶多にとっては「信じられるもの」だった。
――なのに。
その水が、今夜に限ってはまるで「別のもの」に思えた。
水音が、奇妙なほど遅れて聞こえる。ぴちゃり、という音が、耳に届くまでに一拍のずれがあるような――そんな不自然な遅延。まるで、水そのものが、どこか遠くの場所から回り道をしてやってきているような錯覚を覚えた。
耳の奥が詰まったように、聴覚に微かなズレが生まれる。
そして――ふと気づけば、手に持っていたはずのコップが滑り落ちていた。
落下音がやけに遅れて響いた。その直後、蛍光灯が不自然に点滅を繰り返し、しばらく明滅したのちに、ぴたりと消えた。目が慣れるまでの一瞬、世界はぬるく閉ざされていた。
反射的に足元へと視線を落とすと、そこに転がる陶器の表面に、月の残光が薄く揺れている。だがそれよりも、目に焼き付いたのは、床に広がる水のかたまりだった。
――水が、留まっている。
流れず、染み込まず、ただその場に、まるで意思を持つかのように。
そして、水がゆっくりと形を取り始めた。
頭、首筋、肩、腕、背中――上半身……。
それは、人の形を形成しながら、這うようにして叶多の足元へと近づいてくる。
黒髪が濡れて額に張り付き、目のあるべき場所はまだ水の泡に沈んでいた。
喉が鳴った。呼吸が詰まり、肺の中で空気が動かない。
叶多は動けなかった。熱を帯びた空気の中、背筋だけが異様な冷たさを覚えた。
淡い月光に浮かび上がったその横顔は、端正でどこか影を帯びている。
額から汗が一滴、あごを伝って落ちる。その音すら聞こえないほど、世界が凍りついていた。
そのとき、シンクの横に伏せられていたもう一つのコップが、静かに転がり落ちた。
割れなかった。
けれど、その空だったはずのコップの内側から――水が溢れ出したのだ。
その水から、一本の手が伸びてきて叶多の右手を包み込んだ。
冷たいはずの水が、なぜかあたたかい。澄んだ香りが鼻をくすぐる。夕立のあとの匂い。濡れた土と若葉の匂い。遠い記憶を呼び起こすような、懐かしい気配。
──怜司だ。
理屈ではなかった。けれど、触れた瞬間に分かった。
彼の手を包むそれは、確かに怜司の手だった。
日焼けして、少しだけ骨ばっていて、でもいつもどこか優しかった掌の感触。
彼は、叶多を引き留めに来たのだ。
何かに連れて行かれそうになっていた彼を、救い出すために。
ただ、静かに手を取って、そこにいる――。
そして、もう一本の手が現れ、『人の形をした何か』を鋭く突き刺した。
ばしゃん、と鈍い水音が響いた。
瞬間、何かが弾けたように、目の前の水の人型が揺らぎ、ひび割れのような波紋が広がっていく。
『それ』は、突き刺された箇所から徐々に崩れ始めた。
肩が、腕が、輪郭を失い、細い水流となって床に落ちる。
どちらが先ともなく、『二つの手』も崩れ、そして──消えた。
静寂が戻っていた。
水音も、風の音もない。
時計の針すら止まったかのように、空間そのものが凪いでいた。
ただ、台所の床に残されたのは、ぽつりと広がった水たまりと、空になった二個のコップだけだった。
ふと、名前を呼ばれた気がした。
いや、耳ではなく、胸の奥、もっと深いところに、何かがそっと触れたような気がしたのだ。
叶多は、その場に膝をついた。
足元から伝う冷たさが、身体を現実に引き戻していた。
肺の奥がかすかに震え、ようやく小さく息が漏れた。
右手に残る感触は、もうなかった。
ただ、そこに一度触れていた確かさだけが、皮膚の内側に焼きついていた。
知らぬ間に目からこぼれ落ちた雫が、頬を伝い、床へと落ちていった。
彼は、泣けなかった自分に、泣いていいと、言ってくれたのかもしれない。
叶多の唇が、幼馴染の名を小さく呼んだ。
声にならぬ声だったが、たしかに彼の胸から洩れたものだった。
心の中で、閉じていた何かがほどけるような気がした。
それは、赦しのようでもあり、再会のようでもあり――けれど、もう触れられないという現実でもあった。
もし、もう一度だけ、会えるのなら今度こそ、今度こそ、ちゃんと顔を見て、ちゃんと自分の言葉で伝えたい。
「ありがとう」と。
――水の底から、届いた君の声に。
……終……
「夏のホラー2025」のテーマは「水」参加作品です。
主人公視点からの一人語りとなる「短編」は、Caitaさんに掲載しています。内容はほぼ同じです。
(* ᴗ ᴗ)⁾⁾. (♥︎︎ᴗ͈ˬᴗ͈)⁾⁾宜しくお願い致します。
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