『忘却の都市』夏希の日常
「あのね、それでね……」
「ふむ、君は幼いのになんでも知っているな。」
JACの隊長室に、そんな穏やかな会話がこだまする。
夏希は、すっかり城戸に懐いていた。
あの日からというもの、彼女は毎日のようにこの部屋に入り浸っている。
城戸が仕事をしている間も、夏希はそばでおしゃべりをしたり、絵を描いたり、時には静かに本を読んだりして過ごしていた。
彼女にとってこの場所は、都市の中で唯一“安心できる居場所”だった。
コンコン、とドアがノックされる。
「城戸隊長、失礼いたします。私の管轄エリアで報告すべき事案がありまして。現地に同行いただけますか?」
「分かった。今から行こう。」
そのやり取りに、夏希は口をとがらせる。
「えー……行っちゃうの?」
「すまないね。すぐ戻ってくるから、ここで大人しく待っていてくれ。」
そう言って城戸は立ち上がり、夏希のそばまで歩いてくると、そっと頭を撫でた。
夏希はくすぐったそうに笑い、彼を見送る。
城戸と隊員が部屋を出ていくと、室内は静けさを取り戻す。
夏希は椅子から降りて、部屋の中をうろうろと歩き回った。
隊長室は、整然としていて無駄がない。
机の上には書類がきちんと並べられ、棚には資料が背表紙を揃えて収まっている。
几帳面な城戸の性格が、そのまま空間に表れていた。
「ひまだな〜……早く帰ってこないかな〜」
椅子に戻り、足をぷらぷらと揺らしながら、夏希はぽつりとつぶやく。
その姿はまるで、父親の帰りを待つ幼い娘のようだった。
しばらくして、ドアが開く。
「あっ!」
夏希は勢いよく立ち上がり、入ってきた人物に抱きついた。
「こらこら、前を見ないで走ると危ないよ。」
城戸は苦笑しながら、再び彼女の頭を撫でる。
そして椅子に腰を下ろすと、夏希の方を向いて静かに語りかけた。
「夏希君……君もそろそろ、この都市での生活に慣れてきただろう。もし君さえ良ければ、明日“適性検査”を受けてみないか?」
「てきせいけんさ……?」
聞き慣れない言葉に、夏希は首をかしげる。
「ああ、すまない。少し難しかったな。君に一番ぴったりなお仕事を選んでくれる場所だよ。」
その説明を聞いた瞬間、夏希の表情が曇る。
胸の奥に、ひゅっと冷たい風が吹き抜けたような気がした。
「……私、ここにいて……邪魔だった?」
ぽつりと漏れたその言葉に、城戸はすぐに首を横に振る。
「そんなことはない。君との会話はとても楽しかったよ。ずっとここにいて欲しいくらいだ。」
その声は穏やかだったが、目はいつもより少しだけ真剣だった。
「でもね、夏希君には、もっと都市の中でいろんなことを学んでほしい。この都市のいいところ、足りないところ、こうなってほしいところ—— 君の目で見て、そして私に教えてくれないか?」
「……私が?」
「そう。君の言葉なら、きっとこの都市を変えられる。もっと素敵な場所にできると、私は信じている。」
その言葉に、夏希はかつての父の姿を思い出した。
時々怖かったけど、何かを教えるときだけは、まっすぐに目を見てくれたあの人のことを。
「……うん。分かった。」
夏希は、小さく頷いた。
その瞳には、ほんの少しだけ、大人びた光が宿っていた。
——そして、彼女の“都市での役割”が、静かに動き出した。