皇太子妃の聖なる再婚
私はいつどこで、何を間違えたのだろうか。
「陛下! 私は皇太子妃アメリアと離縁し、新たにこのルーシィ・キャボット伯爵令嬢と結婚いたします!」
眼下で夫のパトリック皇太子が叫んでいる。妻である私の目の前で、金の巻き毛の少女・ルーシィの肩を、しっかりと抱き寄せながら。
先日、ゴア王国との戦が終結し、今日は褒賞授与式が行われるはずだった。
メイオルセン帝国の貴族たちが一堂に会した広間で、いま正に式が始まろうとしていたとき、突然壇上からパトリックが降り、ルーシィを貴族たちの列から連れ出したのだ。
赤絨毯の真ん中から私を睨みつける夫の目は、憎悪に満ちていた。
「パトリック、血迷ったか」
「いいえ陛下、私は冷静です! お聞きください。アメリアは皇太子妃という身でありながら、宮殿に男を連れこみ夜ごと淫らな行いをしています。そしてそれを諫めたこのルーシィに、数々の嫌がらせや圧力をかけていたのです!」
皇太子の告発に、貴族たちがざわめく。
私はパトリックの腕の中で、ルーシィが微かに笑ったのを見た。私と目が合った瞬間、怯えていまにも倒れそうな表情を取り繕ったけれど、先ほどの笑みが私の頭の中から消えることはない。
とうとうこの時が来たかと悟った。
パトリックが私を愛していないことは知っていた。それでもこの結婚は皇帝陛下の決めたことで、愛はなくとも帝国の未来のために力を尽くそうと婚姻を受け入れたのだ。
でもパトリックは違った。私との婚姻を内心受け入れてはいなかったらしい。私が政の話をするのが気に入らなかったのか、私を政務から遠ざけ皇太子妃宮に軟禁した。政務官や大臣たちにも何と吹き込んだのか、私に近寄らせないようにした。社交界に出ることも許さず、夫人たちを茶会に招くとことごとく邪魔をしに現れ、客たちの目の前で私をなじり台無にした。
私にそんな仕打ちをしながら、パトリックはルーシィとの仲を深めていっていたことを私は知っていた。侍女やメイド、護衛騎士たちの会話からだけで、十分に彼らの情報を得ることが出来た。
私を孤立させ、冤罪を作り、離縁する。パトリックたちはずっとその機会をうかがっていたのだ。
「殿下、なぜあなたはそんなにも私を厭うのでしょうか。私は誓って不貞を働いたことはありません。そして伯爵令嬢に嫌がらせをしたことも、圧力をかけたこともございません」
「白々しい! 嘘をつくな! お前が男を連れこむ姿を、キースリー卿が目撃している! ルーシィにネズミの死骸入りのケーキを贈ったことは、マーシャル伯爵子息が報告してくれた! ルーシィの家門傘下の商会に取引停止の圧力をかけたことは、ベアード侯爵子息が調べて発覚したことだ!」
お前の悪行の証拠はすべてこちらにある!
そう高らかに言われ、私はめまいがした。
騎士団長の息子キースリー卿も、マーシャル伯爵令息も、ベアード侯爵子息も、全員パトリックの側近だ。おまけにそれぞれルーシィと懇意にしている。つまり全員が私の敵なのだ。そんな偏った彼らの証言に、何の正当性があるというのだろう。
しかもやってもいないことの証拠とは? 目撃証言だけでなく、ありもしない物的証拠を捏造したのだろうか?
「なんてどうしようもない……」
いつか分かり合えるときが来るかもしれないと信じ、これまで耐えてきた。私が皇太子の希望通りおとなしくしていれば、いつか私の話に耳を傾けてくれるかもしれないと。
ありもしない未来を期待し、待ち続けていた私が一番愚かだ。
「……わかりました。殿下のお望み通り、離縁いたしましょう」
「何を言う、アメリア!? 早まるな、パトリックは乱心しているだけだ!」
「父上! 私は冷静だと申し上げました! 悪いのは全て、そこにいる悪辣な女です!」
「黙れパトリック!」
とうとう皇帝が息子を怒鳴りつけ、広間は騒然とした。
いまにもパトリックを殴りつけようとする皇帝を臣下たちが大慌てで止めに入り、先ほど名前の挙がったキースリー卿たちがパトリックとルーシィを守ろうと飛び出していく。
パトリックは皇帝の剣幕に顔色を悪くしているが、ルーシィは変わらず大きな目をうるませながらパトリックにしがみつき、可哀想な被害者を演じていた。
なかなかに神経が図太い。もし彼女が皇太子妃になるのなら、意外と大物になるかもなと思うほどに。
大勢の貴族を巻きこみ乱闘騒ぎに発展しそうな広間をぼんやりと眺めながら、私は今後の身の振り方を考える。
離縁しても元皇太子妃だ。適当な理由を作り正当性のある離縁とすることで、ある程度の身分を保証しどこかに領地を与える形で幽閉となるだろう。けれどそれでは結局行動が制限され、これまでとさほど変わらない。
どこか遠く、辺境の地にでも逃げられないだろうか。身分を捨てても構わない。追放という形にしてもらい、他国へ移住するのもいい。
この不自由な結婚生活の反動で、私はとにかく自由がほしかった。
父であるロングフェロー公爵に頼めばどうにか……と修羅場と化した広間の中に父の姿を探すと、ちょうど父がマーシャル伯爵令息を殴り飛ばしたところを目撃してしまった。そのまま皇太子にまで手を伸ばそうとしている。
見なかったことにして、もうこの場から逃げてしまおうかと思ったとき、それは起きた。
突然広間に滝のように雨が降り注いだのだ。
皇帝や皇太子を含め、広間にいた貴族たち全員が水浸しになり固まっている。無事だったのは壇上にいた私と、もうひとり――。
「皆、静まれ」
艶のある落ち着いた声が、静まり返った広間に響き渡り、視線が一斉にこちらに向けられた。
カツリ、カツリと足音が鳴り、すらりと背の高い男が私の隣に立つ。
いつもは皇帝の座る椅子の後ろにひっそりと控えている彼が、動いたのだ。
「フランシス。皇帝とはそう、みだりに感情をあらわにするものではない」
「レオニス……」
先ほどまで激高していた皇帝はハッと我に返り、息子の胸倉をつかんでいた手を決まり悪げに離した。
水浸しの契約者を見下ろしひとつ頷くと、レオニスはちらりと私を見た。
白に限りなく近い金の髪と、太陽の瞳を持つ彼は、皇帝と契約を結びこの国を守護する聖獣・レオニスだ。
美しい人間の青年のような姿をしているが、本当の姿は豊かな鬣を持つ獅子で、神の遣いとして精霊を使役する、強大な力を持っている。
代々この国の聖獣は白獅子で、代替わりをしてもその都度時の皇帝と契約を交わし、長くメイオルセン帝国を守護してくれていた。
聖獣は清廉を好み、下劣を嫌う。聖獣と契約できなければ真の皇帝にはなれず、聖獣に認められないものが王に立てばその国は滅びの道を辿る。
此度の戦の相手ゴア王国は、その聖獣に認められなかった者が王となり、聖獣に見捨てられた国だった。ゴア王国の聖獣は白鳥だったが、彼方へと飛び去ってしまったらしい。
聖獣は愛情深いが、潔癖なのだ。レオニスもそう。
私は彼の前に立つと背筋が伸びる。だが緊張とは違い、清くありたいと改めて己を戒められることを、心地よいと感じるのだ。
皇太子妃宮で孤独な日々を過ごしている私に、レオニスは警護の目をかいくぐり度々会いに来てくれた。彼と過ごす時間は私にとって癒しであり、救いだった。
レオニスは私にもひとつうなずくと、この場にいる全ての人間を諭すように語り始めた。
「婚姻は双方がそれを望み、納得がいった上で成り立つものだ。そこの皇太子とアメリアが婚姻の継続を望まないのであれば、それが答えなのではないか?」
「それはそうだが、しかし……納得がいかぬ。我が息子の愚かさに、はらわたが煮え返りそうだ」
「父上、私はただアメリアの悪行を……」
「ええい、黙れ! その娘もろとも牢にぶちこまれたいか!」
皇帝の一喝に皇太子は震え上がり、ルーシィもさすがにまずいと思ったのか「私は何も悪くないのにぃ」と泣き始めた。
パトリックはそんなルーシィを「私が守るから」とか細い声で言って抱きしめる。怒る皇帝を前にしてもそういうことが言えるのは、本当に彼女を愛しているからなのだろう。
私も、あんな風に「私は悪くないのに」と泣けば良かったのだろうか。泣いて、パトリックに縋れば彼は私を少しは思いやってくれただろうか。
「フランシス。気持ちはわかるが、いまお前の感じている怒りは別問題だ。その怒りを晴らすのは、皇太子とアメリアの婚姻について判断を下したあとだろう」
「む……わかっている。我が契約聖獣・レオニスの言う通り、皇太子パトリックと妃アメリアの婚姻は破綻した。改善は最早不可能だろう」
「で、では父上! 離縁の許可をいただけるので――」
顔を輝かせたパトリックとルーシィを、皇帝は眼光鋭く睨みつけ黙らせた。
そして深々とため息を吐くと、目元を押さえる。
「……こんなことになってしまい、アメリアとロングフェロー公爵には申し訳のしようもないな」
皇帝の気落ちした様子に胸が痛んだ。
皇太子と婚姻を結んだことで、彼とは義理の親子になった。けれど皇帝と皇太子妃の立場は気安さを許さず、私たちの間には距離があった。宮に軟禁されていたので、私が皇帝と直接会えたのは宮廷で催される宴や式典など公式の場でだけ。
それでも会えば、皇帝は私を気遣い優しい言葉をかけてくれた。そんな人に余計な心労をかけてしまったのが心苦しい。もっと上手くやれたのでは、と思ってしまう。
私が、もっと強くいられたら。もっと……。
「では、ふたりの離縁はいまをもって成立したということでいいな」
「ああ。……何だ、レオニス。随分とふたりの離縁にこだわっているように聞こえるが」
「この時を待っていたからな」
不意にレオニスは私に向き直ると、私の手を取り、甲に口づけを落とした。
「……え?」
そのまま太陽の瞳でじっと私を見つめてくる。眼差しだけで囚われそうだ。
どうしてそんな目で私を見つめるの?
「もう誰のものでもないのならば、私がもらい受けてもいいだろうか」
レオニスの問いかけが、自分に向けられたものだと気づくのにどれくらいかかっただろう。
気づいたときには再び広間が騒然としていた。聖獣の花嫁が現れたとか、聖獣様が伴侶を得るのは何百年ぶりだとか、それはもう大騒ぎだ。
「ま、待て! 聖獣様の伴侶は清らかな乙女しかなれないんじゃなかったか?」
「陛下のおっしゃる通り、聖獣様は不貞を穢れとして厭うと聞くぞ」
「ということは……皇太子妃、いや、アメリア様は清らかな乙女で……?」
広間中の視線が、私から皇太子たちへと移った。
離縁が叶ったことに手を取り合い喜んでいたパトリックとルーシィは、槍のように飛んでくる視線を浴びながら固まっている。
ぼう然としていたパトリックがゆっくりと隣を見る。同じく固まっていたルーシィの顔からは滝のような汗がながれていた。
「ど……どういうことだ、ルーシィ? アメリアは、複数の男と不貞を働いていたんじゃ、なかったのか? お前も、アメリアが護衛騎士の男に口づけていたのを見たと、言っていたよな……?」
「わ、私、そんなこと言ったかしら……」
「はぁ⁉ キースリー卿! アメリアの不貞を間違いなく目撃したんだろう⁉」
「いえ、その、お、俺はそんなこと……」
「マーシャル伯爵子息! ネズミの死骸入りのケーキは⁉ ベアード侯爵子息! 商会への圧力は⁉」
皇太子に確認されても、側近たちは顔を見合わせ、もごもごと口ごもるだけではっきりとは答えない。
パトリックは絶望に顔を歪めた。
「全部、嘘だったのか……? お前たちも、ルーシィも、私を騙したのか……?」
「皇太子よ。まるで被害者のような顔をしているが、お前からもしっかりと穢れの匂いがしているぞ」
レオニスの言葉に周りの貴族たちがまたざわめき「やはり」とうなずき合う。
私も同じ気持ちだ。不貞を行っていたのは私ではなく、パトリックのほうだった。自らの過ちをわかっていながら私を糾弾したのは、疚しさ故だったのだろうか。
いまにもその場に崩れ落ちそうな皇太子に、レオニスは更に追い打ちをかけた。
「皇太子以上に、そこの娘は穢れの匂いが濃い。穢れが幾重にも重なり、混じり合い、腐臭のようだ」
「は……? まさか、お前たち!」
皇太子がハッと側近たちを振り向くと、まず「ルーシィから誘ってきたんです!」と反射のように叫んだのはマーシャル伯爵子息だった。
仲間の情けない言い訳に他のふたりも驚愕の顔で「お前も!?」「そんな、僕だけだって……」と己の過ちをぽろりと白状していく。
どうやらルーシィは皇太子だけでなく、どう言い寄ったのか知らないが側近たちとも肉体関係を結び篭絡していたらしい。本当に、何と大胆な娘だろうか。
「フランシス。あの皇太子はダメだ。私はアレとは契約できない」
「ああ……わかっている。皇太子の位は剥奪する」
「ち、父上⁉ お待ちください、私が間違っておりました!」
「もう遅い。皇位継承権も剥奪。皇室からも除籍させ臣籍降下とする」
皇帝の裁定に、パトリックは「そんな!」と悲鳴を上げて取り縋ろうとし、近衛にそれを阻まれた。
数名の貴族が倒れたようだが、恐らくは皇太子の派閥の貴族か、皇太子の実母の家門の者だろう。宮廷での彼らの権勢は終わりを告げたも同然だ。
「二度と宮廷に足を踏み入れることは許さん。キースリー卿、マーシャル伯爵子息、ベアード侯爵子息も身分を剥奪し皇都追放とする。その方ら、それで良いな」
皇帝が確認したのは、キースリー騎士団長、マーシャル伯爵、ベアード侯爵だ。皇帝の忠実な臣下たちは神妙な面持ちで「仰せの通りに」と跪き、息子たちの愚行を詫びた。
皇帝と同じように失望し苦しむ彼らに、罪悪感が強くなる。私がしっかりしていれば、彼らの子どもたちも足を踏み外すことはなかったかもしれないのに。
そのとき、ルーシィの父親、キャボット伯爵が前に出た。騎士団長たちに倣い跪くと「恐れながら……」と皇帝に直訴を始めた。
「何だ伯爵。わしの裁定が不満か」
「とんでもない。娘の身分を剥奪することに異はございません。ただ、他の子息たちと同じように王都を追放しても、愚かな娘はまた問題を起こすことを繰り返すのではないかと……」
確かに、ルーシィは平民に身をやつしたとしても、そこに男が存在している限りいくらでも篭絡し、たくましく生きていく気がする。何なら奴隷に落とされたとしても、いつか成り上がり社交界に戻ってくる予感さえした。
羨ましくはないが、見習うべきたくましさだ。私は先ほどまで逃げることばかり考えていた自分が、恥ずかしくなった。
ルーシィの行いは決して褒められたものではないけれど、望みのために自ら道を切り開いていく強さには、心揺さぶられるものがある。
「伯爵の懸念はもっともだ。ならば、娘は追放とした上で、北の最果てにある修道院へ送ることとする。この国で最も戒律が厳しく、生涯院の外に出ることは叶わぬ場所だ。篭絡する相手もいないゆえ、問題が起きることもないだろう」
「陛下のご厚恩に深く感謝申し上げます」
「は……!? 何で、お父様!? 嫌よ、そんなの絶対に嫌ぁぁぁー!!」
修道院送りが決定し、それまで固まっていたルーシィは悪魔が乗り移ったかのように、汚い言葉を叫びながら暴れ出した。
そのまま元皇太子とその側近たちとともに、まとめて近衛騎士たちに連行されていく。
「陛下! お赦しを!」
「父上、助けて!」
「離せ! 離せーっ!」
彼らの叫びが大扉の向こうに消え、静寂が戻ってくると、広間中の視線も再びこちらに戻ってきた。
レオニスはまだ、私の手を取っている。その手は私の体温よりも少し高くて、温かい。
獅子である彼の爪は人間のものより少し鋭いけれど、その爪が私を傷つけることはないと知っている。
「アメリア。先ほどの返事をもらえるだろうか?」
切実な響きの問いかけに、本気なのだと伝わってくる。それなのに私は信じることが出来ず、ただじっとレオニスを見上げた。
これまで私は皇太子妃として衣食住が保証され、決して不幸ではなかった。けれど、幸福でもなかった。意志は黙殺され、自由は奪われ、持っていたものがすべて手の中からこぼれ落ちていった。
そんなもう何も持たない、何者でもなくなった私を、彼は欲しいと言ってくれる。それはなぜ?
じっと見つめていると、不意にひょこりと、彼の頭から丸くてふわふわの耳が生えた。
驚いていると、今度はゆらゆらと揺れる、柔らかな房のついたしっぽが視界の端に映る。
「……そんなに見つめられると、擬態が解けてしまう」
「まぁ……」
レオニスは頬を染め、困ったような目をして私を甘く責めた。
そのあまりの可愛らしさに、置かれた状況も忘れて吹き出してしまった。
「アメリア……」
「ふふふ! 擬態が解けても良いでしょう? 貴方はいつも、獅子の姿で会いに来てくれていたじゃありませんか」
私の言葉に、なぜか周囲がどよめく。何かおかしなことを言っただろうか。
「アメリア……お前はレオニスの本来の姿を見たのか?」
「はい、皇帝陛下。レオニス様は軟禁されている私を、こっそり獅子の姿で訪ねてくれていました」
「な、軟禁……いや、それどころではないな。本当なのかレオニス?」
「ああ。アメリアはいつもおしゃべりをしながら、ブラッシングをしてくれる。アメリアのブラッシングは天にも昇る心地よさなのだ」
「まぁ。私にとっても、レオニス様をブラッシングさせていただける時間は唯一の癒しでした」
また周囲がどよめいたので、聖獣様にブラッシングは不敬だったかもしれない。
けれど、本当に彼との時間は癒しだったのだ。宮での孤独な生活の中、私はレオニスの訪れをいつも心待ちにしていた。
本来の獅子の姿のレオニスは人語を話せないのか無口だったけれど、私が話しかけるとその表情や仕草や、しっぽの動きで応えては私の心を慰めてくれた。
ブラッシング中にレオニスが心地よさそうに眠ってしまうことがあり、そのときはこっそり彼のふわふわのたてがみに顔をうずめたりした。あれは至福の時だった。
レオニスの体は温かく、いつもお日様の匂いがして、私は彼の前ではいつの間にか心の鎧を剥がされてしまう。王太子妃として皇族入りしたその日から、幾重にも纏っていたぶ厚い鎧は、とても強固だったはずなのに。
「何ということだ……」
「陛下? いかがされました?」
「いいか、よく聞けアメリア。聖獣は契約者以外に真の姿、つまりレオニスで言えば獅子の姿は見せないものだ」
「まぁ……そうなのですか?」
私は驚いて隣の彼を見上げた。
確かにレオニスは公式の場ではいつも人の姿に擬態していた。
けれど彼が白獅子であることは誰もが知る事実だったので、レオニスが獅子の姿で宮に現れたとき、私はすぐに彼がレオニスだとわかったし、だからちっとも恐ろしくはなかった。
ただ、何て美しい獅子だろうと見惚れはしたけれど。
レオニスはなぜか、嬉しそうにうなずく。
「私の真の姿を知っているのは、契約者であるフランシスとアメリアだけだ」
「でも、私は契約者ではありませんのに」
「レオニス……何も知らないアメリアに、それは少々卑怯ではないか?」
あきれたような皇帝の言葉に、レオニスはふいとそっぽを向く。
何か少しやましいことがある、幼子がするような反応だ。何だか可愛らしくて、つい笑ってしまいレオニスにじとりと見られてしまった。
「アメリア。聖獣の真の姿を知る者はわしのような契約者だけだが、例外がひとつだけある」
「例外ですか」
「それは、聖獣の伴侶だ」
「はんりょ……」
「つまり、聖獣が生涯でひとりだけ選ぶ、最も愛する者。その伴侶には聖獣も真の姿を見せるのだ」
伴侶、つまり人間で言うと妻、妃ということか。
でも私は一応、形ばかりでも皇太子パトリックの伴侶だった。つい先ほどまでは。愛はなかったかもしれないが。
「ええと……一体どういうことでしょう?」
「ちなみに、わしでもレオニスにブラッシングをしたことはない。聖獣は気位が高い者が多く、簡単には自身の体に触れさせたりはしないのだ」
本当だろうか、とレオニスを見ると、彼は大仰にうなずいた。
私の前ではごろんとお腹を見せるほど無防備だったのに?
「我らが身体的な接触を許すのは、自らが選んだ伴侶にだけだ」
そこからはもう、貴族たちが「聖獣の花嫁の誕生だ!」「陛下の御代に何という慶事!」と大騒ぎで、皇太子の醜聞などあっという間に忘れ去られてしまったようだった。
なぜか父がさめざめと泣いており、そんな父を皇帝陛下が慰めている。
喜んだり嘆いたり、皆忙しそうで、私だけがぽつんとひとり取り残されてしまったような気持ちになったとき「アメリア」とレオニスに呼ばれ顔を上げた。
「どうした? 泣きそうな顔をしている」
「泣きません。泣きませんが……正直に言うと、どうしたら良いのかわからなくて」
あまりにも目まぐるしい状況の変化に、心が追い付いていないのかもしれない。
そんな私にレオニスは微笑みながら目を細めた。
どうしてだろう。彼は笑っているのに、まるで獅子に狙われる獲物のような気持ちになるのは。
「簡単なことだ。私の問いに答えるだけでいい」
「問い、ですか?」
「ああ。アメリアは、もう私にブラッシングはしてくれないのか?」
想像していなかった問いかけに、私は目を丸くして固まった。
レオニスが私の手を、そっと自分の長い髪へと導いていく。柔らかくて、お日様の匂いがする彼のたてがみ……。
「これからも、私のたてがみに顔をうずめたくはないか?」
二つ目の問いかけに、私はカッと顔が熱くなった。
「き、気づいていらしたのですか⁉」
「いつも顔をうずめては、息をめいっぱい吸いこんでいるだろう? あれは少しくすぐったい」
「まぁ! ひどい、寝たふりをしていたなんて!」
あまりにも恥ずかしくて、私はぽかぽかとレオニスの胸を叩いた。
だって、いつも起きていたのなら「はぁ、いい匂い」とか「ふかふか、気持ちいい~」などとひとりごとを呟いていたのもすべて聞かれていたということだ。他にも色々と恥ずかしいことを、彼が寝ているのをいいことに呟いた気がする。穴が合ったら飛びこみたい。
そんな私の気持ちを知ってか知らずか、彼は機嫌がよさそうに笑うと、私を強く抱きしめた。
「私の伴侶になってくれれば、起きているときだっていつでもたてがみに触り放題だぞ?」
「それではまるで、私がはしたない娘のようではありませんか」
「はしたなくない。お前は世界一愛らしい娘だ」
初めて直接的な言葉で愛情を向けられて、私はもう何も言えなくなってしまった。
顔の火照りは強まる一方で、心臓は先ほどからドコドコとうるさいほどに音を立てている。
「愛しいアメリア。いっとう大事にする。どうか私のものになってくれ」
「私は……」
「そして私を、アメリアのものにしてほしい」
「……レオニス様を、私のものにしてしまって良いのですか?」
「ああ。アメリアの好きなたてがみも、お前だけのものだ」
それはとんでもなく魅力的なプロポーズだった。抗えるわけがない。
私はレオニスのふんわりと柔らかな髪をひと房手に取り、そっと口づける。同時に思い切り息を吸えば、大好きなお日様の匂いで満たされた。
「……はい。貴方を私のものにしたいです」
幸せを感じた瞬間、するりと出てきたのは紛れもない本心だった。
これまでは口にしても誰にも届くことさえなく、いつしか言葉にすることを諦めてしまった心の内。
それを目の前の人は、取り零すことなく私の身体ごとしっかりと抱きしめてくれた。
「な、何だ⁉ 花が急に……!」
「精霊の祝福だ!」
驚く貴族たちの声にハッと周囲に目をやると、広間のそこかしこで色とりどりの花が次々現れていた。
壁に咲き、宙に咲き、私とレオニスの周囲では私たちを囲むように大量に咲き乱れる。
聖獣は神の遣いとして、精霊を従え力を振るう。これはレオニスに従う精霊たちが、レオニスを祝っているのだろうか。
「アメリア、我が伴侶! 永久の愛を誓い、とこしえの幸福を約束する!」
「レ、レオニス様……!」
幼子にするように高く持ち上げられ、その場でくるくると回され慌てたけれど、あんまりレオニス様が嬉しそうに笑うから、私もいつの間にか笑っていた。
永久とかとこしえなんて、プロポーズにしても大げさだ。などと、彼の大仰な愛の言葉をくすぐったく思っていた私だけれど、それが実は本気の言葉だったと知るのは正式な伴侶となってしばらくしてから。
長寿な聖獣の伴侶となると、その聖獣と同じだけの寿命を得ることになる。
そして聖獣が代替わりするとき、伴侶も肉体の消滅を迎えるが、魂は離れることなくひとつとなって、神の元に帰るらしい。
つまり私は人の生を手放すことになったわけだけれど、それでも構わないと迷いなく思えるくらい、私はお日様の匂いを愛してしまったのだった。
その後、パトリックたちの処罰が遂行され、新たに第二皇子アーサーがレオニスと私の推挙で立太子することに決まった。
新たな皇太子の誕生と聖獣の結婚で、帝国はしばらく祝賀ムードが続くこととなる。
私は寂しいばかりだった皇太子妃宮を出て、新たにレオニスの宮に移り住み、これまで叶わなかった貧民救済や孤児支援の事業に貢献できるようになった。
もうひとつ私の特別な仕事は、ふたりきりのときに白獅子の姿に戻ったレオニスを、丁寧にブラッシングすること。
寝たふりではなく、本当にウトウトするようになった彼のたてがみに顔をうずめ、お日様の匂いをかげるのは、私だけの特権である。
fin
獅子だけど虎視眈々と狙っていたレオニスおめでとう!!
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