ep 4
地獄の釜から取り寄せたという禍々しい紫の炎で一服を終えた世一は、ふう、と最後の煙を細く長く吐き出した。その煙は、この世ならぬ場所の淀んだ空気に揺らめきながら溶けていく。
やがて、短くなった忘れ草の先からぽとりと灰が落ちそうになるのを見て、世一は顔をしかめた。
「フーッ……おい、灰入れは?」
その無造作な問いに、ずっと彼の様子を息を詰めて見守っていた姫は、はっと顔を上げた。
「は、灰……でございますか?」
彼女の知識には、まだ「灰入れ」というものがどういうものか、ピンと来ていないらしい。
世一は少し苛立ったように、しかし先ほどよりは幾分か声のトーンを落として言った。
「あーだからよー、このヤニの灰は何処にしまうかって聞いてんだよ。まさか、そこらに撒き散らすわけにもいかねぇだろ、この状況じゃ」
最後の言葉は、彼にしては珍しく周囲を気遣う……というよりは、単に面倒を避けるための合理性から出たものかもしれなかったが。
姫は世一の言葉の意味をようやく理解すると、一瞬逡巡したものの、すぐに顔を輝かせ、とんでもないことを申し出た。
「は、はいっ! それでは、私のこの着物に……灰をお入れ下さいませ!」
そう言って、彼女はためらうことなく、自らの纏う豪奢な白い衣の袖を、そっと世一の前に差し出した。その生地は、明らかにこの世のものではない、光沢のある美しい織物だった。
「おう」
世一は、特に驚いた様子も見せず、短く応じると、躊躇なく咥えていた忘れ草の灰を、姫が差し出した白い袖へと落とした。
ジュッ、と微かな音がして、白い生地に焦げ跡がつき、そこから細い煙が立ち上る。
「あ、熱っ……」
姫の肩が小さく震え、細い眉が苦痛に寄せられた。しかし、彼女は決して袖を引こうとはせず、むしろどこか嬉しそうに、その焦げ跡を見つめている。
そんな姫の奇妙な様子を横目で見ながら、世一は不意に尋ねた。
「ねーちゃん、名前は?」
突然の問いに、姫は顔を上げ、一瞬きょとんとした後、慌てて、そしてどこか誇らしげに胸を張った。
「わ、わわわ、私は、天の神の子……天照大神にございます……!」
その声は震えながらも、自らの出自を告げる喜びに満ちているかのようだった。
しかし、世一はそんな厳かな名を聞いても、眉一つ動かさない。
「名前がなげーよ。覚えらんねぇ」
そうこともなげに言うと、少し考える素振りを見せ、やがて面倒くさそうに続けた。
「……そうだな、結だ。今日からお前は、結にしとけ」
「――――――はっ、ハイッ! わたくしは、結ですっ!」
姫――改め結は、まるで雷に打たれたかのように全身を震わせ、そして次の瞬間、これ以上ないほどに輝かしい笑顔を咲かせた。その声は喜びと感動に打ち震え、瞳からは再び大粒の涙が溢れ落ちたが、それはもはや悲しみの涙ではなかった。世一が与えてくれた「結」という新しい名が、彼女にとってどれほど大きな意味を持つのか、その表情が雄弁に物語っていた。
「でー、結。ここは一体どこなんだ? さっきの門番は地獄だの裁きだの言ってたが」
世一は、結の感動ぶりには特に頓着せず、本題とばかりに尋ねる。
結は、まだ頬を紅潮させ、瞳を潤ませながらも、懸命に主の問いに答えようとした。
「はい! ここは『裁きの間』にございます。そして、この場所は、その裁きを待つ者たちを一時的に閉じ込めておくための牢屋なのでございます」
「フーッ……そうか。てことは、俺はやっぱり死んだのか」
世一は、別段驚いた様子もなく、ただ事実を確認するように呟いた。まるで他人事のように淡々とした口調だった。
その時、結の袖に落とされた灰が、再び彼女の肌を焼いたのだろう。
「熱っ……!」
結は小さく声を上げたが、それでも袖を世一の前から動かそうとはしなかった。そして、何かを決意したように、潤んだ瞳で世一を見つめる。
「! も、申し訳有りません! 世一様っ!」
「あ?」
唐突な謝罪に、世一は訝しげな視線を結に向けた。
「わ、わた、私のせいで……世一様を、死なせてしまいまして……本当に、申し訳ございません……!」
結の声は嗚咽に変わり、その小さな身体は後悔と悲しみに打ち震えている。
「あ? 何言ってんだ、お前」
世一には、彼女の言葉の意味が全く理解できない。自分が死んだのは、あの炎の中で、蜘蛛を助けた結果だと認識している。それがなぜ目の前の娘のせいになるのか。
「んっ、あっ熱っ……!」
袖の熱さが再び彼女を襲うが、結はそれに耐えながら、必死に言葉を紡ごうとした。
「わ、私は……現世に出る時は、白い蜘蛛の姿に……変わるのでございます。そ、それで、あの、あの時……燃え盛る屋敷の中で……」
その言葉に、世一の脳裏に、鮮明な記憶が蘇った。
炎の中、焼け落ちる大木の下で見た、あの美しい白い蜘蛛。
思わず手を伸ばし、命懸けで救い出した、小さな命。
「あー……って事は、お前、あの時の蜘蛛か」
世一の声には、ようやく合点がいったという響きがあった。驚きよりも、むしろ納得に近い感情。
「は、はいっ! そうでございます! 私は、あの時、蜘蛛の姿で……せ、世一様を、ずっとお見かけしておりましたのに……私のせいで、あのような危険な目に……」
結は、もはや言葉にならず、ただ涙を流し、「うっ、うっ」としゃくり上げるばかりだった。
世一は、そんな結の姿をしばらく無言で見つめていたが、やがて溜息を一つついた。
「おい、泣いてんじゃねーよ。ちゃんと話せ。何があったのか、全部な」
その声は相変わらずぶっきらぼうだったが、しかし、どこか先ほどまでの冷たさとは違う、相手の言葉を促すような響きが込められていた。
「は、はい……。実は……」
結は、しゃくり上げながらも、世一の言葉に促され、ゆっくりと顔を上げた。その瞳には、まだ涙が溢れていたが、その奥には、何かを語り伝えようとする強い意志の光が宿っていた。