END
世界は消えた。
絶対的な力を持った神々は、その座から引きずり下ろされ、あるいはその力を失い、あるいは輪廻の輪の中で摩耗していった。かつて彼らが支配し、彼らが定めた理で回っていた世界は、その支柱を失い、白紙へと還ったのだ。
そして、全てが自分達で生きる時代が始まった。
初め、人々や生きとし生けるもの達は、あまりにも広大で、あまりにも不確かな暗闇の中に放り出されたように感じたかもしれない。導く声も、絶対的な庇護も失った世界で、ただ怯え、恐怖し、迷い、立ち尽くす――そんな未来を誰が想像しなかっただろうか。
いや……本当に、そうだったのだろうか。そんな絶望だけが続く世界になるのだろうか。
違う。きっと、違う。
人間も、獣も、鳥も、虫も、花々さえも、初めて自分達自身の足で立ち、自分達自身の意志で未知なる道を一歩ずつ進み始める世界。それは確かに、恐怖や不安と隣り合わせかもしれない。しかし、そこには同時に、かつてないほどの自由と、自ら未来を切り開くことのできる、無限の可能性が広がっているはずだ。
失敗もあるだろう。傷つくこともあるだろう。それでも、彼らは学び、支え合い、そして再び顔を上げて、次の一歩を踏み出す。
そうしていつの日か、きっと、夜空に浮かぶ月をのんびりと眺め、その静かな美しさに心からの安らぎを覚えるような、そんな穏やかな世界がやってくるはずなのだ。
月神世一は、一つ大きな溜息をつきながら、煌めく星々の散りばめられた夜空を見上げた。
「はー……」
今日もまた、何をやっても上手くいかない、ついてない一日だった。
勤め先の会社では、些細な入力ミスを上司にこっぴどく叱責され、他の部署にまで頭を下げて回る羽目になった。気晴らしに一杯飲んで帰ろうかと思えば、馴染みの居酒屋は生憎の満員。おまけに、帰り道ではどういうわけか財布まで落としてしまい、交番に届け出る始末。我ながら、情けないやら腹立たしいやらで、どうにも気分が晴れない。
そんな彼のささくれだった目に、ふと、都会の喧騒や日々の憂さを忘れさせるほどに、ひときわ大きく、そして美しい月が飛び込んできた。それはまるで、磨き上げられた銀の盆のように、澄み切った夜空に凛と浮かび、地上を優しく照らしている。その静謐な光に見入っていると、胸の奥のもやもやが、少しだけ和らぐような気がした。
「……はー、今日もやっぱりついてなかったな……。けど……あーあ、今日はやけに月が綺麗だ」
世一が、誰に言うともなくそう呟いた、その時だった。
背後から、まるで月の光が音になったかのような、優しく澄んだ声が聞こえてきた。
「こんばんは」
驚いて振り返ると、そこには、いつから立っていたのか、一人の見知らぬ女性が静かに佇んでいた。歳の頃は、世一と同じくらいだろうか。長く艶やかな黒髪が夜風に微かに揺れ、その姿は淡い月の光を浴びて、まるで精緻な筆で描かれた絵画からそっと抜け出してきたかのような、現実離れした美しさを湛えていた。彼女の大きな瞳は、どこか懐かしいような、それでいて初めて会うはずなのに全てを見透かすような、不思議な深さで世一を見つめている。
「あ、はい。こんばんは」
世一は、そのあまりの美しさに一瞬言葉を失いかけたが、なんとかそう答えた。心臓が、妙に高鳴っているのを感じる。
すると、女性は、ふわりと、まるで花が綻ぶように柔らかな微笑みを浮かべながら、夜空の月へと視線を移し、そして再び世一へと向き直り、静かに、しかしはっきりと、こう言った。
結「月が綺麗ですね」
終わり




